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遠ざかる月の光…【静子が婚約を正式に決めた日】

ーー英次は、静子に対し、おめでとうと言うべきだったのにすぐに言葉が出てこなかった。君の幸せを祈っていると、笑顔で言うことが出来なかった。かといって、引き留める事も叶わなかったーーそして今、静子は。


カメラマンの久方から贈られた、1.5カラットのダイヤリングが、静子の華奢な左手の薬指に瞬く。それは、GOTHMAGAZINEのグラビア撮影でも、外されることは無かったために、ファンからは様々な憶測の声をしたためたファンレターが編集部に寄せられた。

そのファンレターの仕分け作業を、編集部は万年、人手不足なために、アルバイトが担っていた。そしてそれぞれのモデルの元へと、それは仕分けされ、渡される。その、渡されるファンレターの束を、静子は改めて読むこともなく机に放置していた。封を切って読むことで、心の傷口に塩を塗りこむのは嫌だった。

しかしたまに葉書が混じる。葉書にはこう書いてあった。

「ついに、ユエコレクションのデザイナーさんと結婚したんですか?」

そうだったらよかった。だが、そんなことはもう言えなかった。
静子は長い睫毛を伏せて、葉書を裏返して、机に伏せた。

「おめでとう」…だなんて、どういう気持ちで貴方は言っていたの?

(私は、昨日、役所に、久方との婚姻届けを提出した。そして名字が変わる。芸名としての佐野静子は据え置きであるから、影響は少ない。でも、もう取り返しがつかないところまで来た。私は今月、結婚式を挙げる。)

(久方は、一日でも早く、家族をもって安定した家庭生活を送りたいと言ってくれている。彼は、結婚願望の強い男だった。そして私もそうだった。はずだ。なのに怖い。)

私はこの一年以内に恐らく妊娠するかもしれない。

このお腹に、英次の子供ではなく、久方の子供が宿るのだろう。

それがなぜこんなに、苦しく感じるのだろう、恐ろしく感じるのだろう。

望んでいたはずの未来が、静子の心を押し潰し始めていた。

「英次くん、側にいて…!」泣きながら英次に電話をしようとした、

だが、それを理性で押しとどめる。もとはと言えば英次の本当の気持ちを確かめたかったから、試したのだった。そして、愛を試した結果として、お互いに傷付いてしまった。

ーーだから、もう、これ以上そんな卑怯な真似は出来ない。

静子は、レンタルのウエディングドレスを選ぶために、今週末に久方と式場に行く予定だった。その時には誰よりも晴れやかな顔をしなければならない。

静子はそっと、涙をぬぐった。

一生を、演じ切ろう。

これからは、人生の全てが、泣いてはならないランウェイだ。

私は、きっと良き妻、良き母になって、私の人生には間違いは無かったと、自他ともに証を立てられるような生き方を貫いて、久方への贖罪としよう。

英次くん。愛していた。

誰よりも懸命に、課題に取り組む、真剣な眼差しも、きらきらした瞳で夢を語る少年のような笑顔も、心弱く、自信が無くて、震える私を、勇気づけてくれた、その優しさを、どれほど愛おしく思っていたか。

そして、出来る事ならずっと、私の側で笑っていて欲しかった。

でもそれは、でもそれは、どこまでも手の届かない、月の光のように思える。両手を差し出しても、零れて行ってしまう。流れて行ってしまう。

貴方が、遠い。

貴方は私の、遠ざかっていく、月の光。

この両足が、大地に根を下ろしすぎていなければ、あなたを追いかけることが出来たのだろうか。

気付けばがんじがらめになっている。
喜ぶ両親の顔も、久方家の義理の両親の喜ぶ顔も、祝福であるはずなのに、絆だ。それは、家の女と書いて、嫁を、逃げて行かないようにするための、優しい鎖だ。

私はもうそれを断ち切ることが出来ないの。

だから、さようなら。

静子は、窓の外の月を見た。

この月を、貴方も見ているのかしら。

だとしたらそれだけを、貴方と私の心の繋がりの代わりにして、生きていく。見上げる夜空に、貴方の観る月が浮かぶ。同じ夜にいる。そのこと。その事だけを…!

静子は、全ての言葉を飲み込み、日記を処分した。微塵も、英次に関わる思いを、今の家族や、これから作る家族に、知らしめることが無いように。

しかし、ユエの衣装だけは、焼く事が出来なかった。

それが掲載された、GOTHMAGAZINEも、やはり焼くことが出来なかった。

いつしか、静子にとっても、英次の夢は、自分自身の夢になっていた。

その夢を抱えて生きていくことが、静子の生きる理由なのだ。

二人の魂は、複雑に絡み合った植物の根のように、
絡み合い、お互いに侵食し合い、結ばれていた。

その事が、今、呪いとなって、静子の心を焼いていた。

忘れることなど出来ない…!

そして、その静子の、挙式の日取りを告げる手紙は、英次の元にも届いた。
仕事帰りの夕方、ポストを除くと、新聞受けにその手紙があった。

英次の心臓が、握り潰される寸前の音を、英次の胸の裡に響かせていた。

それは誰に聞こえるような音ではないが、英次の感覚の全てを支配した。

英次は、弾けるように、街に飛び出した。
爆音のゲームセンター、会話もままならないような轟音の中でも、その音は消えない。両耳をふさいだ、そこも飛び出して、めちゃくちゃに走った。

そして、夜が来た。

疲れ果てた英次は、マサのいるアパートの前に来た。

カーテンの向こう側にマサの気配がした。

もう、何も言えない。言えば壊れてしまう。

そのまま、言葉を呑んで、踵を返し、家路を辿ろうとしたとき、

マサのアパートのドアが開いた、そして、マサが駆け下りてきた。

「英次!!」

振り向く英次の瞳が、マサの駆け寄る姿を捉え、その両の目から、抑えきれない涙がぼろぼろと流れ落ちた。

「…マサ。…ごめん…何も聞かないで。」

当惑するマサだったが、やがて彼は全てを悟った。そして、その両手が、エイジの肩を掴む。

「…わかるよ。好きだったんだよな。」

「…そうだ。」

英次は頷いた。

涙に濡れるその微笑みは、崩壊しかけていた。

「祝福しなければ…ならないのに…出来ない。」

マサは首を横に振る。

「出来るわけねえよ。もう、いい。もういいんだ。」

そして、マサは英次を抱きしめた。

その瞬間、英次は、子供のような声を上げて、泣いた。
全ての感情が壊れて、流れたようだった。

マサはその感情の奔流を抱きとめて、受け入れた。

その後、二人は、自販機でエメラルドマウンテンの缶コーヒーを買った。
微糖の、薄い甘さを含んだコーヒーを喉に流し込むと、少しだけ、生きる気力が英次に灯った。

「ありがとう、マサ。」

「なんだよ。別によ。」

顔を背けて、コーヒーを飲むマサを見て、英次は、心の底から救われたように感じていた。

時計の針は深夜11時を回っていた。

「もう、遅い。お前は泊まれよ。」マサがぽつりと言う。

英次は、頷く。今日は帰りたくなかった。

独りにもなりたくなかった。

そして、雑然としたマサの八畳一間の部屋に足を踏み入れた。

「済まねえ、片付ける。まあ、男の一人暮らしなんて、見ての通りだ。」

マサが、机に放置してあった、食べた後のカップ麺の容器や割り箸を、幾つも袋に入れて行く。床に散らばった洗濯物をまとめて、それも袋に入れて縛った後に、寝るスペースを確保するため、掃除機をかけて行く。
そして、あらかた掃除を済ませると、英次のためにシングルベッドを開けて、自分は隣の床に毛布を引いて寝たのだった。

「朝には、出てけよな。俺、仕事あるからよ。」

「…ありがとう、マサ。」

「いいって。寝ろよ。」

「…おやすみ。」

そして、二人は、一つの夜を越えた。
朝、マサが良い香りで目覚めると、英次が手際よく朝食をマサのために作っていた。

「おはよう。」

朝早く起きて、至近のコンビニでサラダチキンや、卵、カット野菜やキノコを買ってきた英次は、それを少量の塩コショウや、味の素、めんつゆの素で炒め合わせて、二人分のおかずを作ったのだった。

その眩しさに、マサは信じられない思いだった。

「いつもカップ麺ばかりだと、偏ると思ってさ。…迷惑だった?」

「…すげえ。お前、飯作れるのかよ。」マサは自炊はしない。
食事は常にコンビニ弁当かカップ麺だった。実家を離れて以来、初めて食べる人間らしい食事だった。一口、料理を口に含む。

「うめぇ…。うめえよ!!何だこれ、すげえうめえよ!!」

「卵はね、スクランブルエッグなんだけど、全部火を通しちゃダメなんだ。ふんわりさせるには、途中で火を止めて、余熱で、温める。そうするとこういう風にふわっと、出来るんだよ。」

「エイジ…、おいしい。おいしいよ!!」

幸せそうに、マサは、英次の作る食事をあっという間に平らげた。
それを見ている英次も、幸せとはこういうものかという静かな実感があった。

そして、二人が、アパートを出る時に、マサが英次に礼を言う。

「お前、また来いよ。今度、飯の作り方、教えてくれ。」

「ああ、きっとまた来る。ありがとう、マサ。」

穏やかな朝だった。

そして、日はまた昇ってゆく。



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