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【書評】 『あなたの自伝、お書きします』 : 1949年ロンドン、嘘つきたちの自伝をタイプしながら、私は現実を料理する魔女になる

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◆1949年、ロンドンの午後の光と嘘

1949年の9月という時代は、なんだか不思議な手触りを持っているような気がします。戦後のどんよりした空気と、新しい何かが始まる予感が入り混じった、あの独特のロンドン。そんな街を、一人の作家の卵が歩いていました。名前はフラー・トールボット。彼女はまだ何者でもなかったけれど、心の中には「自分は芸術家だ」という、岩のようにどっしりとした確信だけを持っていました。そんな彼女がたどり着いたのが、サー・クウェンティンという男が主宰する「自伝協会」という、聞くからに妙な組織です。

この「自伝協会」という名前を聞いて、シャーロック・ホームズの『赤毛連盟』を思い出す人もいるかもしれません。どこか人を食ったような、それでいて妙に厳格なルールがある。会員たちは自分の人生をありのままに書き記し、それを70年間も金庫に封印するというのです。参加しているのは、没落した貴族や、軍隊上がりの名士、あるいは何やら怪しげな過去を抱えた女性たち。フラーの仕事は、彼らが書くひどく退屈で支離滅裂な回想録を、タイプライターで清書し、少しばかり読みやすく整えることでした。

けれど、フラーという女は、ただの秘書で終わるような殊勝な人間ではありません。彼女の耳は驚くほど記憶力がいい。誰かが喋る抑揚や、言葉の癖、その裏に隠された虚栄心を、まるで録音機のように吸い取ってしまうのです。彼女にとって、この協会に集まる変人たちは、自分自身の小説『ウォレンダー・チェイス』を完成させるための、格好の材料でしかありませんでした。

ここで、彼女が1949年のハイド・パークで感じた、あの震えるような実感を、彼女自身の言葉で聞いてみてください。

1949年9月。からりと晴れた日だった。あのとき、たしか窓のほうに目を向けていた気がする。ときおり陽光がモスリンのカーテンをそっと撫でた。私の耳は記憶力がいい。何か過去の経験を思い出したとする。あるいは、昔の手紙を読み返して過去を想起したとする。そんなとき、まずは音声が押し寄せ、そのあと映像が続く。だから、サー・クウェンティンが次の言葉を発したとき、私の意識に刻み込まれたのは、彼の話し方、正確な言葉遣い、抑揚だった。「ミス・トールボット、私の話は退屈ですか?」
「いいえ、とんでもない。ええ、事実は小説より奇なりです」

このとき、ある実感がこのうえもなく明確な形で胸に迫った。「この20世紀に芸術家であり女性であるということは、なんて素敵な気分なんだろう」私は一人の女性であり、この20世紀に生きている。それは紛れもない事実だった。自分が一人の芸術家だというのは揺るぎのない確信であり、それを疑ったことは一度たりともない。要するに、1949年9月、ハイド・パークの小道に突っ立っていた私の下に、三つの現実が奇跡的に集合したわけである。その喜びを噛みしめながら、私は歩みを再開した。

◉現実を料理する悪魔のような視線

フラーの何が凄いかと言えば、その徹底した作家の性です。彼女は、たとえ自分が窮地に立たされても、あるいは身近な人間の醜態を目にしても、どこか冷めた目で「これは面白い場面だ」と考えてしまう。普通の人間なら怒ったり、悲しんだりする場面でも、彼女の頭の中ではそれが物語の1ページとして再構成されていくのです。

例えば、恋人のウォリーの別荘へ行ったときのこと。そこで彼女は、別の女性が数日前までそこにいた証拠を山ほど見つけてしまいます。普通なら修羅場ですよね。ところが、フラーは慌てふためくウォリーをよそに、部屋の惨状を「舞台装置」として眺めて楽しんでしまう。このあたりの描写は、彼女の朴訥としているけれど容赦のない性格がよく表れています。

よく見ると、別の女性と週末を過ごした痕跡がある。ウォリーにすれば、それを私に見られたことが何よりもショックだったろう。私はまったく気にしていなかった。この状況自体を楽しんでいたからだ。私は意外な成り行きというものに目がない。とはいえ、相手の女性が誰かは気になったので、観察の目を凝らした。床に落ちているトーストの耳。これは薄くカビが生え、ネズミにかじられた跡がある。ジャグに入ったミルク。緑色に変色し、縁が黒ずんでいる。水切り台に置かれた2つのカップとソーサー。古くなったコーヒーが硬くこびりついている。以上の証拠から時期を計算してみる。何週間前のことだろう。それから今日まで、ウォリーとは平日をどう過ごしてきただろう。ウォリーは突っ立ったまま悪態を口にしている。私はちまちま考えず、小型のバッグをぽんとベッドに放った。ベッドは二人が寝たあとらしく乱雑を極めていたが、まるで有能な舞台監督が指示したかのように、ウォリーの青い綿のパジャマの上着がベッドの支柱に引っ掛かり、ズボンはきちんと畳んだ状態で整理ダンスの上に載っていた。空に近いウイスキーの瓶に加え、口紅のあとが付いたグラスと付いていないグラスまで置かれているのは、舞台装置という見地からすると、あまりに露骨すぎた。しかし、そこにあるのだから仕方ない。私たちは部屋を片付け、昼食に出かけた。

この「トーストの耳に生えたカビ」を冷徹に観察する目こそが、ミュリエル・スパークが描くフラーという女性の真骨頂です。彼女は「自分は魔女だ」と言われることがありますが、それはあながち間違いではありません。彼女は、目の前の現実を自分の言葉で塗り替え、操り、自分にとって都合の良い神話に変えてしまう力を持っているからです。

◆自伝協会という名の怪しいサーカス

物語が進むにつれ、自伝協会は次第に不穏な空気を帯びてきます。主宰者のサー・クウェンティンは、単なる俗物ではありませんでした。彼は会員たちの過去の弱みを握り、彼らの自伝を指導するという名目で、彼らの人生そのものを支配しようとしていたのです。彼は心理的な「切り裂きジャック」のような男でした。

会員たちは、サー・クウェンティンの暗示にかかり、まるで操り人形のように彼の望む通りの言葉を口にし始めます。ところが、ここで恐ろしいことが起こる。彼らが口にする台詞や、彼らに降りかかる事件が、フラーが執筆中の小説『ウォレンダー・チェイス』の内容と、奇妙に、そして正確に一致し始めるのです。現実が虚構を模倣し始める。あるいは、フラーが書いた言葉が、現実を呪いのように縛り始めたのかもしれません。

このあたりの展開は、まるで迷宮に迷い込んだような感覚にさせられます。どちらが現実で、どちらがフラーの空想なのか、その境界線がぼろぼろと崩れていく。そして、ついにフラーの大事な原稿が盗まれてしまう。犯人は誰か。サー・クウェンティンか、それとも親友のはずのドティか。

ドティという友人も、また一癖ある女性です。彼女はフラーと何度も口喧嘩をして絶交したかと思えば、次の日の夜にはフラーの窓の下で「久しき昔」を歌って合図を送ってくる。彼女は敬虔なカトリック教徒で、フラーの不道徳な小説を嫌いながらも、どこかでその才能に惹きつけられている。二人の関係は、友情と呼ぶにはあまりに危うく、けれど不思議な絆で結ばれています。

◉芸術家が手にする真実という名の武器

サー・クウェンティンが、会員たちにねちねちと「率直な真実」を要求し、彼らを精神的に追い詰めていくのに対し、フラーはまったく別のやり方で真実に近づこうとします。彼女にとって、真実とはただ事実を並べることではありません。それは、バラバラになった経験の断片を、小説という一つの器の中で美しく語り直すことなのです。

フラーは、サー・クウェンティンの悪巧みに気づき、彼と対決することになりますが、その時彼女が武器にしたのは、法律でも暴力でもなく、やはり言葉でした。彼女は盗まれた原稿を取り戻すために、自分なりのやり方で「自伝協会」の連中を料理し始めます。彼女の自負心は、物語の最後の方でさらに高まっていきます。

彼らの人生には特筆すべきことが何もなかったに相違ない。だからこそサー・クウェンティンは、偽物の過去を紙に書かせるのではなく、彼らの意識に刷り込んでいたのだろう。いかに素材が乏しくても、作り物として提示すれば本物らしさは出せる。しかし、実際の体験を語らせると嘘に響く。
真実とは何か。私なら、こういう人間たちの身の上話を楽しく遊びながら料理できる。ところがサー・クウェンティンは、ねちねちと率直さを要求することで彼らを破滅させていた。しがない人生ですからと告白された場合、私は相手の言葉を信じることにしている。だが、忘れてはならない。芸術家なら、どんなことでもできる。時間はつねに取り戻され、何物も失われず、奇跡が終わることはない。

小説というものは、神話という枠組みを備えていなければ価値がない。真の小説家、言い換えれば、小説とは一続きの詩であるということを理解している小説家は、まさに神話を生み出していることになる。小説の素晴らしさは、一つの物語を多様な方法で無限に語り直せる点にあり、その意味では神話と変わらない。

この一節を読んだとき、私はゾクっとしました。作家という存在の、なんと傲慢で、なんと誇り高いことか。フラーは、自分の人生がどんなに貧乏で、どんなに惨めな状況にあっても、それを物語として語り直せる限り、自分は無敵なのだと知っているのです。

◆騒がしい老婆と、消えない歌声

この物語をさらに忘れがたいものにしているのが、サー・クウェンティンの母親、レディ・エドウィーナという強烈な老婆です。彼女は90歳を超えてなお、息子を「俗物」と罵り、隙あらば失禁や奇声で周囲を翻弄します。彼女はフラーの味方となり、サー・クウェンティンの秘密を盗み出す手助けさえしてくれます。彼女のような、制御不能で、生命力に溢れた存在が、この小説に人間味のある泥臭い活気を与えています。

物語の終盤、自伝協会は崩壊し、人々はそれぞれの場所へと散っていきます。ある者は修道院へ、ある者は没落し、ある者は逮捕される。けれど、作家としてのフラーは、そのすべてを糧にして、20世紀の後半を堂々と生き抜いていく。彼女は年老いてもなお、中庭で少年の蹴ったボールを奇跡的な放物線で蹴り返すような、そんなしなやかな精神を持ち続けているのです。

読み終えた後、ふと夜の静寂の中で、ドティが歌う「久しき昔」のメロディが聞こえてくるような気がしました。人生は思い通りにいかないことばかりだけれど、それを「面白い物語」として誰かに話せるなら、あるいは自分自身に語り聞かせることができるなら、私たちは何度でも、自分の人生を新しく始めることができるはずです。この本には、そんな魔法のような、それでいてひどく現実的な力強さが詰まっています。

もし、いまあなたが、自分の人生が少しばかり退屈だとか、誰かに振り回されていると感じているなら、ぜひこの『あなたの自伝、お書きします』を手に取ってみてください。フラー・トールボットという、毒舌で、逞しくて、ちょっとだけ魔女のような女性が、あなたの肩を叩いて、「さあ、あなたの物語をどう料理してやる?」と笑いかけてくれるはずですから。

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