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【書評】 『学生との対話』 : 「さあ、何でも聞いて下さい」 ― 稀代の批評家が、生涯最後に学生へ手渡した「信ずる勇気」

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「近代批評の神様」「知の格闘家」として畏怖された男が、その鎧を脱ぎ捨て、若者たちの真っ只中へと飛び込んでいった記録がある。それが小林秀雄の『学生との対話』だ。本書は、生前、自らの語りが録音されることを頑なに拒んでいた小林の意図に反し、密かに回されていたテープを基に編まれたという曰く付きの「事件」的な一冊である。講演のCD集からの忠実な文字起こしではない。あの独特の節回しは読みやすい書き言葉へと整えられ、序盤の余談などは削ぎ落とされているが、それゆえに小林が本当に伝えたかった主題が、鋭利な刃物のように浮き彫りとなっている。

◆ 魂の医師が説く「山桜」の精神

小林秀雄が語る本居宣長は、私たちが教科書で知る「国学者」の枠を遥かに超えている。宣長は35年という気の遠くなるような歳月をかけて『古事記伝』を書き上げたが、生前に出版されることはなかった。彼は小児科医として生計を立て、治療代を少しずつ竹筒に貯めては、出版費用のために蓄えていたという。今の学者が原稿料や印税のために書くのとは、土台からして覚悟が違う。そんな宣長が愛したのが「山桜」であった。小林は、私たちが日常的に目にするソメイヨシノを「最も植木屋が育てやすかった、俗悪な花」と断じ、花と葉が同時に出る山桜の気品こそが、日本人の感性の源流にあると説く。

この「桜」をめぐる精神は、現代にも通底している。小林が紹介する神戸の「桜の大家」の話は、読む者の胸を打たずにはいられない。その老人は、親から譲り受けた莫大な財産をすべて桜の研究と普及に使い果たした。奈良から橿原神宮までの道に山桜を植えようとし、反対する農民を一人ひとり説得して回ったという情熱。しかし、せっかく植えた桜は戦争でたき木にされ、晩年に心血を注いだ苗園もまた、新幹線の盛り土のために国に買い上げられてしまう。テレビで訴えれば「ごね得を狙う男」として編集され、世間に嘲笑される。それでも小林は、この老人のような「対象への徹底した愛」こそが、本当の意味で物事を知るということだと語りかけるのである。

宣長さんの頃は、日本で桜に関する好みも教養も一番高度に発達していた時だと、その人は言っていました。桜についての学問、勿論これは実地の学で机上の学ではないが、その研究が一番盛んで、日本の国民が桜というものに本当に愛情と生きた知識を持った頃だというのです。それで隅田川とか、その他どこでも桜の名所がありました。江戸市民は皆、お花見を楽しんでいたのです。今は全部亡びました。

◆ 歴史とは「思い出す」という創造である

小林の言葉は、私たちの歴史観を根本から覆す。歴史とは、教科書にある年号や事実を暗記することではない。それは、自分の心の中に古えの「手ぶり口ぶり」を蘇らせる、生き生きとした想像力の経験なのだ。小林によれば、宣長の『古事記』の読み方自体が一つの「創作」であり、彼の強靭な直覚力が生み出した魂の対話であった。

私たちは「自分を知りたい」と願いながら、鏡を見るように自分を直接眺めようとする。しかし、小林は「歴史を知ることは自己を知ることだ」と喝破する。織田信長の性格を理解し、彼を好きだ、あるいは嫌いだ、と感じるその心の動きこそが、自分という人間を浮き彫りにする。歴史という鏡に映し出されるのは、他ならぬ現在の自分自身なのである。

歴史を知るというのは、みな現在のことです。現在の諸君のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇えって来る。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから歴史をやるのはみんな諸君の今の心の働きなのです。こんな簡単なことを、今の歴史家はみんな忘れているのです。「歴史はすべて現代史である」とクローチェが言ったのは本当のことなのです。なぜなら、諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではないからです。それは史料の中にあるのではない。諸君の心の中にあるのだから、歴史をよく知るという事は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じことなのです。

◆ 科学の限界と、柳田國男の「感受性」

現代において、私たちは万事を科学的、合理的に説明しようとする。しかし、小林はベルグソンの哲学を引き合いに出し、科学が扱うのは「計量できる経験」という極めて狭い領域に過ぎないと警告する。科学は悲しみを計算できず、精神を脳の分子運動にすり替えてしまう。そんな合理性の檻から私たちを解き放つのが、柳田國男に代表されるような「感受性」である。

柳田が14歳の時、土蔵の前の祠を開けて、死んだおばあさんの形見である「蝋石」を見た瞬間のエピソード。晴天の空に星が輝いて見え、ヒヨドリが鳴かなければ発狂していただろうというその強烈な体験。小林は、このような異常なまでの感受性こそが、民俗学という学問を支える「魂」であると見抜く。また、山の中で飢えた子供たちが父親に「これで俺たちを殺してくれ」と斧を差し出したという『山の人生』の悲劇。これらを、単なる心理学や社会学のデータとして片付けるのではなく、言葉にならない「魂の事実」として受け止めること。そこに、現代のインテリが失ってしまった「信ずる」力がある。

◆ 「さあ、何でも聞いて下さい」という呼びかけ

「さあ、何でも聞いて下さい」。そう呼びかける小林の口調は、決して傲岸不遜な批評家のそれではない。そこにあるのは、真理を求めて彷徨う若者たちに対する、深い慈しみと優しさである。学生たちが「自分はどう生きればいいか」「焦りから逃れられない」と切実な悩みをぶつけるとき、小林は安易な答えを与えない。代わりに、「なぜ君は哲学を勉強しようと思わないのか」と、彼らをより深い思考の海へと誘う。

小林は、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎の塾の風景を生き生きと描き出す。そこでは町人も百姓も、日々の生活の中から「学問の面白さ」を見出し、酒を飲み、ご馳走を食いながら『論語』に耳を傾けていた。ある百姓の弟子が、経典の誤りに気づいては家で手を打って喜び、周囲から「気違い」と呼ばれながらも、ついには村の「聖人」として死んでいった話。小林が理想とする教育とは、このような「魂が移る」瞬間であり、教師が一方的に教えるのではなく、弟子が自ら「自得」することにある。

喜びといっても、苦しくない喜びなんてありませんよ。学問をする人はそれを知っています。嬉しい嬉しいで、学問をしている人などいません。困難があるから、面白いのです。やさしいことはすぐつまらなくなります。そういうふうに人間の精神はできているんです。子供の喜びとは違うのです。喜びというものは、あなたの心の中から湧き上るのです。僕が与えることのできるものではない。学問が喜びであるか、苦しみであるか、というような質問は、質問自体がおかしい。それはあなたの意思次第です。自分を信ずることで解決するのです。

◆ 信ずることと、考えることの融合

私たちは「考える」ことと「信ずる」ことを別物だと思っている。だが、小林は宣長の言葉を引き、「考える」とは「か身交う(身をもって相手と交わる)」ことだと説く。相手を分析の対象として突き放すのではなく、その人の身になってみるだけの想像力を持つこと。それが、本当の意味で「考える」ということであり、そうした深い交わりは「信ずる」ことと分かちがたく結びついている。

現代の知識人は、客観的であろうとして「無私」であることを忘れている。自分の主観を隠すのではなく、むしろ自分を空っぽにして相手の心の中に飛び込むこと。そのとき初めて、歴史も、他人も、自分自身も、真実の姿を見せ始めるのである。

物を本当に知るというのは一つの力なのだということを、現代人は忘れていますね。現代人はすぐ行動したがるのです。その行動の元になっているのが科学です。科学などというものは、物を知るためには、ちっとも役に立っていません。なるほど、月に行くためには、敵を殺すためには、労なくして物を得るためには ―― そういう諸々の行動をするためには、科学は非常な役割を果たしているでしょう。けれども、人間の生活とはどういう意味合いのものであろうかといった認識については、科学は何もしてくれないのです。

本書を読み終えたとき、私たちの耳の奥には、小林秀雄のあの嗄れた、しかし温かみのある声が残っているはずだ。彼は、人生という正解のない問いに対して「正しく訊く」ことの大切さを教えてくれる。私たちは一人ひとりが「宿命」としてこの日本に生まれ、日本語という「定め」の中で生きている。その伝統の深みに潜り込むことこそが、実は最も普遍的な人間への理解へと繋がっているのだ。

かつて九州の各地で、若き学生たちの魂と火花を散らしたこの対話は、今を生きる私たちにとっても、決して古びることのない指針となるだろう。学問とは喜びであり、生きることは「もののあはれ」を知ることである。
全歴史」がざわめき出すのを感じるに違いない。

この書物は、知識を詰め込むための道具ではない。失われた感受性を取り戻し、自分自身の足で再び歩き出すための、魂の研磨剤である。小林秀雄という稀代の批評家が、最後に私たちに手渡してくれたのは、冷徹な論理ではなく、血の通った「信ずる勇気」であった。

今、あなたが抱えているその不安も、焦りも、正しく問うことができれば、それはもう答えに近いのかもしれない。静かな夜に、この一冊を開いてみてほしい。そこには、かつて学生たちに向けられた、あの峻厳で優しい眼差しが、今も変わらずあなたを待っているのだから。

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