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BOUNDARY SPANNER|橋をかける人 #06 ズレが大きくなる前に

 翌朝、李佳がオフィスに入ると、窓の外の上海はもう動き始めていた。

朝の光はビルのガラスに薄く反射し、道路には車の列が途切れず流れている。同じビルに入る会社員たちが足早にエントランスを横切っていく様子も、いつもと変わらない。

けれど、李佳の胸の中だけは、まだ少し落ち着かなかった。

昨日、佐藤に資料を見せたときのことが残っていた。
資料そのものを否定されたわけではない。むしろ、内容は評価されたのだと思う。けれど、佐藤が最初に求めていたものは、完成に近い案ではなく、もっと早い段階での方向性の共有だった。

その違いが、思っていた以上に李佳の中に引っかかっていた。

席に着くと、李佳はメールより先に社内チャットを開いた。
未読のメッセージがいくつか並ぶ中に、佐藤からの短い一文があった。

「昨日いただいたフロー案について、午前中に十五分ほどお時間いただけますか。山本さんにも昨日の夕方に送り見ていただいていますが、本社側で判断を固める前に、こちらの論点と進め方を李佳さんとそろえておきたいです」

李佳は、その文面を二度読んだ。

言っていることは明快だった。

昨日いただいたフロー案について。
山本さんにも見ていただいている。
本社側で判断を固める前に。
こちらの論点と進め方をそろえる。

必要な情報は、すべて入っている。だから、意味そのものは何も難しくない。にもかかわらず、李佳の胸の中には、軽い驚きと、うまく言い表せない戸惑いが同時に生まれた。

山本は、もう見ている。

けれど、まだ本社側で判断が固まったわけではない。その前に、佐藤は自分と一度、論点をそろえようとしている。

それはつまり、昨日の資料をそのまま「完成版」として扱うのではなく、まず二人で考え方を確認し、そのうえで次のやり取りに進もうとしているということなのだろう。

理屈としては理解できる。
けれど、感覚がすぐには追いつかなかった。

自分が作った案を、いったん途中のものとして扱うこと。
まだ確定ではなく、相手と一緒にやり直すこと。

それはどこか、責任を最後まで持ち切れていないようにも感じられた。李佳は、十分に考えきれていないものを差し出すことにも、自分が作ったものを途中でほどくことにも、まだ慣れていなかった。

そこへ、陳立が後ろから画面をのぞき込んだ。

「何ですか」

李佳は少し迷ってから、チャットを見せた。

陳立は一読して、すぐに言った。

「いいじゃないですか。早い方が楽でしょう」

「……楽、かな」

「楽ですよ。完成させてからひっくり返されるより、途中で方向を合わせた方がずっといいです」

その言い方はいつも通り簡潔で、余計な配慮がない。そのぶん、核心だけが残る。

李佳は小さく息をついた。

「たぶん、そうなんだと思う。でも、まだ途中の段階で話すのって、少し落ち着かない」

陳立は笑った。

「李佳さん、真面目すぎるんですよ。全部自分で整えてから出そうとするから、重くなるんです。途中で相手を巻き込んだ方が、責任も分けられるでしょう」

李佳は「うん」と答えたものの、完全には納得していなかった。

途中で話すことが「雑」ではなく「必要」だということは、頭では分かる。けれど、その感覚はまだ、自分の中に十分には馴染んでいなかった。

九時半を少し回ったころ、叶青が出勤してきた。

大きめのトートバッグを机に置き、資料を広げる前に李佳の方へ顔を向ける。

「佳佳、昨天那个流程,今天怎么处理?」
(佳佳、昨日のフロー、今日はどう進めるの?)

李佳は画面を見せながら説明した。

「佐藤さんが、昨日の案について、もう一度話したいって。山本さんも見ているけど、本社側で判断を固める前に、論点と進め方をそろえたいみたい」

叶青は一瞬黙ってから、あっさり言った。

「那挺好。」
(それはいいじゃない)

「为什么?」
(どうして?)

「因为这样你就不用替他把所有事情都想完了。」
(だって、それなら相手の分まで全部考え切らなくて済むから)

その一言が、李佳には少し意外だった。

昨日の叶青は、曖昧な表現に対してあれほど率直に疑問を示していた。それなのに今は、佐藤の側の変化を、むしろ合理的だと捉えている。

叶青は続けた。

「如果他先跟你确认方向,再决定怎么回应日本总部,那责任就是一起担的。如果你一个人做完再拿过去,那最后哪里不对,也会变成你的问题。」
(先にあなたと方向性を確認して、それから日本本社にどう返すかを決めるなら、責任は一緒に持つことになるでしょう。でも、あなたが一人で最後まで作ってから持っていったら、どこかずれていた時に、その責任はあなたの側に寄ってしまう)

李佳はその言葉を聞きながら、昨日の佐藤の表情を思い出していた。

否定されたわけではない。資料そのものは評価されていた。けれど、期待されていたものとは少し違っていた。そのずれを、自分一人で引き受ける形になっていたことも、また事実だった。

「……なるほど」

李佳はようやくそう言った。

叶青は肩をすくめた。

「日本人のやり方は面倒なことも多いけど、全部悪いわけじゃないよ。少なくとも、先に話したいって言うなら、その時点で相手も責任を持つってことだから」

その言い方はいつも通り率直だったが、李佳には妙に腑に落ちた。

途中で話すことは、未完成なものを出すことではない。
責任を、相手と分けることでもあるのかもしれない。

午前十時、李佳は資料を持って佐藤の席へ向かった。

昨日までなら、もっと完成度を上げてからでなければ話したくないと思っていたはずだ。しかし今朝は、その躊躇いを抱えたままでも、とにかく一度話してみようと決めていた。

「お時間、よろしいでしょうか」

「はい、お願いします」

佐藤は手元の作業を止め、画面を李佳の方へ向けた。

前日よりも、どこか話しかけやすい空気がある。おそらく、彼自身も自分の話し方を少し意識しているのだろうと、李佳は感じた。

「まず、昨日の資料ですが」

佐藤は、資料の一ページ目を開きながら言った。

「内容はとてもよく整理されていました。現場で何が止まりそうかも分かりましたし、中国側の運用に合わせた代替案も具体的でした」

李佳は小さく頷いた。

「ありがとうございます」

「山本さんにも一度見ていただいています。ただ、これをこのまま本社側の判断材料として進める前に、李佳さんと私の間で、論点の出し方をそろえておきたいと思いました」

その言い方は、昨日とは少し違っていた。

佐藤は、李佳に対して何かを押しつけているのではない。かといって、ただ任せきっているわけでもない。自分がどこで一緒に考えるべきなのかを、言葉にしようとしている。

そのことが、李佳には伝わった。

「分かりました」

李佳は資料を開きながら話し始めた。

「今の段階で考えている論点は、大きく三点です。現行案のままだと、承認が多すぎて現場の処理が遅くなること。責任の線引きが、日本側の想定と中国側の実務でずれていること。それから、例外対応の条件が曖昧で、現場判断がしづらいことです」

佐藤は黙って聞いている。

李佳は続けた。

「そのうえで、中国側としては、承認の数を単純に減らすのではなく、事後共有に置き換える部分を作ることと、例外時の判断基準を明文化する案を考えています。ただ、本社側に次に返すなら、細かい代替案よりも、まず“どこで止まるのか”を先に出した方がいいかもしれません」

言い終えるまでに、自分でも驚くほど、考えが整理されていることに気づいた。

昨日までなら、途中の状態を言葉にすることに抵抗があったはずだ。けれど今は、「本社側で判断を固める前に、論点をそろえる」という前提が置かれている。そのおかげで、自分の考えを途中段階のまま出してよいという許可を、李佳は受け取ることができていた。

佐藤は最後まで聞いたあとで、静かに言った。

「ありがとうございます。非常に分かりやすいです」

その声には、昨日とは違う落ち着きがあった。

「こちらが最初に知りたかったのは、まさにそこでした。どこがボトルネックになるのかと、それに対してどういう方向で修正すれば動きそうなのか。その二つが分かれば、山本さんにも次の判断をお願いしやすくなります」

その言葉を聞いた瞬間、李佳の中で、昨日のやり取りとの違いがはっきりした。

問題は、自分の案が良いか悪いかではなかった。

どの段階で、何を返すか。
その順序が、ずれていたのだ。

佐藤は続けた。

「この三点をベースに、山本さんには“方向性の再整理”として返してみます。その反応を見たうえで、詳細案を一緒に詰めた方が早いと思います。李佳さんの方では、その間に現場の具体的なケースをもう少し集めてもらえますか」

「はい、それはできます」

李佳はそう答えながら、自分の言い方が変わっていることに気づいた。

昨日なら、「やってみます」と返していたかもしれない。
けれど今は、「それはできます」と、自分が確実に引き受けられる範囲を自然に区切って答えている。

その変化を、佐藤も感じたのかもしれない。

「ありがとうございます。こういう形で話せると、こちらも非常に助かります。完成したものを見るのも大事ですが、途中で考え方を共有してもらえると、ずれが大きくならずに済みますから」

李佳は頷いた。

その瞬間、自分の中で何かが少しだけほどけたように感じた。

途中で話すことは、能力不足の告白ではない。
相手と前提をそろえるための、仕事の一部なのだ。

席に戻ると、陳立がすぐに聞いてきた。

「どうでした」

「山本さんに次に返す前に、論点をそろえたかったみたい。むしろ、そこを一緒に話したかったんだと思う」

陳立は「ほら」と言いたげな顔で笑った。

叶青も聞いていたらしく、隣から短く言った。

「我早就说了。」
(最初からそう言ったじゃない)

李佳は苦笑しながらも、昨日までとは違う手応えを感じていた。

ただし、その変化は、何かを完全に理解したという種類のものではない。むしろ逆で、自分がこれまでどれだけ「完成させてから返す」ことに無意識のうちに価値を置いていたかを知った、という変化だった。

日本側の仕事では、途中で話すこと、相手を早く巻き込むこと、認識のずれを小さいうちに扱うことが、完成度そのものと同じくらい重視される。

その感覚は、まだ自分の中に十分根づいているわけではない。

だが少なくとも、どこに差があるのかは見え始めていた。

昼休みに入る前、李佳は自分のノートを開き、短く書き留めた。

「途中共有=未完成ではない」
「方向性を早く返す=責任を分ける」
「完成度より順序」

その三つの言葉を並べて眺めると、昨夜の自分よりも少しだけ前に進めた気がした。

誰かが一度に答えを与えてくれるわけではない。むしろ、同じ言葉が別の意味で受け取られ、そのたびに自分の考え方を少しずつ組み替えていく。その反復の中でしか、橋渡し役は育っていかない。

そんな李佳を、もう一度別の角度から揺さぶる出来事が起きることになる。

日本本社から、山本宗介が上海へ来るという連絡が入ったのである。

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