BOUNDARY SPANNER|橋をかける人 #07 月末の足音
日本本社の山本宗介が上海へ来るという連絡は、その日の午後三時を少し過ぎたころに入った。
件名は、短かった。
「月末、上海出張の件」
本文には、現在進めている新規プロジェクトの承認フローについて、現地で直接確認したいこと、関係者との打ち合わせを半日で集中的に行いたいこと、可能であれば実際の運用現場も見ておきたいことが、無駄のない言葉で書かれていた。
李佳はそのメールを読み終えたあと、しばらく画面を閉じなかった。
山本の名前を見るだけで、会議の空気が一段階引き締まるような気がする。
話が速く、判断も明確で、曖昧な言葉を残さない人。上海側でも、山本に対する印象はほとんど一致していた。実際、その印象は間違っていない。彼は感情で人を追い詰める人ではないし、声を荒らげる人でもない。ただ、論点の切り分けが速すぎるのだ。
そして、その速さはときどき、相手にも同じ速度で整理することを求めているように届いてしまう。
李佳は、そこに少し緊張していた。
「どうかしましたか」
隣から陳立が声をかけた。
李佳は画面を見たまま、小さく頷いた。
「うん。本社の山本さんが、月末に上海に来るみたい」
「それはまた、忙しくなりますね」
陳立の口調は軽かったが、言っていることは正しかった。
本社の管理職が来るということは、ただ人が一人増えるという話ではない。会議の資料も、説明の順番も、現場を見せる場所も、全部が少しずつ変わる。何を見せ、何を先に説明し、何をまだ出さないか。そういう判断が必要になる。
そしておそらく、その判断を一番求められるのは自分なのだと、李佳は分かっていた。
少し離れた席にいた叶青が、顔を上げた。
「谁要来?」
(誰が来るの?)
「日本本社の山本さん」
李佳が答えると、叶青は少しだけ眉を上げた。
「那个说话很快的人?」
(あの、話が速い人?)
陳立が笑った。
「そうそう」
叶青は椅子にもたれ、ため息とも笑いともつかない声を出した。
「那你要准备清楚一点。不然他一问,大家都会紧张。」
(じゃあ、ちゃんと準備しておかないとね。あの人に聞かれると、みんな緊張するから)
その言い方は率直だったが、李佳には少し胸に刺さった。
山本が怖いというわけではない。むしろ、彼は正しいことを言う。問題は、その正しさが、いつもこちらの準備の速度に合わせて降りてくるわけではないということだった。
本社から見れば、承認フローは統制のために必要な仕組みである。誰が判断し、どこで止め、どこで責任を持つのかを明確にする。属人的な処理を減らし、後から説明できる状態にしておく。それは組織として当然の発想だった。
けれど、現場から見れば、同じ仕組みがまったく違う顔を持つことがある。
承認が一つ増えれば、処理は一日遅れることもある。確認先が曖昧なら、誰も最後の判断をしない。例外処理のたびに本社確認が必要になれば、現場は動けなくなる。統制のために置かれた線が、実務では足を止める線になることがある。
正しいことが、そのまま動くとは限らない。
李佳は、そのことをどう伝えればいいのかを考えていた。
「山本さんには、何を見せるんですか」
陳立が聞いた。
「まだ決めていない。でも、これまで整理してきた三点は出すと思う。承認の多さ、責任の線引き、例外対応の曖昧さ」
「それだけだと、たぶん突っ込まれますよ」
「分かってる」
李佳は苦笑した。
「だから、現場の具体例も必要だと思ってる。どの場面で止まるのか。どこまでなら中国側で判断できるのか。どこからは日本側の確認が必要なのか。そこを、事例で見せないと」
叶青がすぐに言った。
「那就不要只写流程。要写如果真的发生了,谁会先动。」
(それなら、フローだけを書かない方がいい。本当に起きたとき、誰が先に動くのかを書いた方がいい)
李佳は顔を上げた。
「誰が先に動くか?」
「对。流程图上看起来很漂亮,可是现场不是这样动的。现场是先有人发现问题,然后找人确认,再决定要不要上报。」
(そう。フロー図の上ではきれいに見えるけど、現場はそう動かない。現場ではまず誰かが問題に気づいて、それから誰に確認するかを考えて、最後に上に上げるかどうかを決めるの)
陳立も頷いた。
「それは大事ですね。本社は上から下に流れる図を見たがりますけど、現場はだいたい横に動いてから上に行きます」
その言葉を聞いた瞬間、李佳の中で、何かが一つつながった。
本社の正しさは、上から下へ整って流れる。現場の現実は、横へ回り込みながら動く。
同じ仕事を見ているはずなのに、見えている動線が違うのだ。
「それ、使えるかもしれない」
李佳はすぐにノートを開いた。
本社案:上から下へ流れる承認。
現場実態:横に確認してから上に上げる判断。
必要な調整:上に上げる基準と、横で確認できる範囲を分ける。
書きながら、胸の奥にあった緊張が少しだけ別のものへ変わっていくのを感じた。
怖いのは、山本が来ることそのものではない。山本の問いに、自分が何を持って立てるのかが見えていないことだった。けれど、こうして現場の動きを言葉にしていけば、ただ防御するだけではなく、説明することができるかもしれない。
そのとき、佐藤が近づいてきた。
「山本さんの件、メール見ましたか」
「はい。今、少し話していました」
佐藤は李佳のノートに視線を落とした。
「本社案と現場実態を分けるんですね」
「はい。山本さんにフローの修正案だけを見せると、たぶん“なぜその修正が必要なのか”から確認されると思います。なので、先に現場で実際にどう動いているかを見せた方がいいかもしれません」
佐藤は、しばらく黙っていた。
以前なら、その沈黙を李佳は少し怖いと感じたかもしれない。けれど今は、佐藤がすぐに否定しているのではなく、考えているのだと分かった。
「いいと思います」
やがて佐藤は言った。
「山本さんは、結論だけ出されるより、判断の根拠が見える方が納得しやすい人です。現場の感覚をそのまま説明するより、“どの事実から、どの判断につながるのか”が見える形にした方が通りやすいと思います」
李佳はその言葉を聞きながら、少し驚いていた。
佐藤の言い方が変わっている。
以前の佐藤なら、「資料を整理してみましょう」と言ったかもしれない。けれど今は、山本がどう受け取るか、そのために何を先に置くべきかを、李佳と一緒に考えている。
「では、資料の最初に、現場で判断が止まる場面を入れてもいいですか」
「はい。その方がいいです。山本さんは抽象論だけだと、すぐに判断材料を確認されると思います。でも、具体的な場面があれば、なぜその対応方針が必要なのかを説明しやすくなります」
叶青が小さく笑った。
「つまり、先に事情を見せておかないと、いきなり“それで、判断材料は何ですか?”って聞かれるってこと?」
佐藤は一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐに笑った。
「まあ、そうかもしれません」
その場に、少しだけ柔らかい空気が流れた。
李佳はそれを感じながら、ノートの端に新しく一行を書いた。
「本社の正しさを否定しない。現場で動く形に置き換える」
それは、簡単なことではない。
本社の正しさには、本社の理由がある。現場の現実には、現場の理由がある。どちらか一方を選べば、話は分かりやすくなる。けれど、仕事はたぶん、それでは前に進まない。
必要なのは、正しさを争うことではなく、正しさが動く形を探すことなのだ。
夕方、李佳は一人で会議室に残り、山本来訪時の説明資料を組み直していた。
窓の外では、上海の空がゆっくりと色を変えている。高層ビルのガラスに夕陽が細く反射し、遠くの道路には車の灯りが少しずつ増え始めていた。
資料の表紙には、こう打ち込んだ。
「承認フロー運用における現場課題と対応方針」
その下に、三つの論点を並べる。
承認遅延。
責任範囲の不一致。
例外判断の保留。
言葉だけを見れば、どれもよくある業務課題に見える。けれど李佳には、その一つひとつの後ろに、実際に手を止め、判断に迷い、誰かの確認を待っている現場の顔が見えていた。
以前の李佳なら、最初から修正案を見せようとしたかもしれない。自分たちはここまで考えました、と示すことが誠実だと思っていたからだ。
けれど今は、少し違う。
まず、相手が判断できる場所まで案内する。
そのうえで、こちらの現実を見せる。
そして最後に、動かせる形を提案する。
それが、橋をかけるということなのかもしれない。
李佳は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
山本が来る。
その事実はまだ、緊張を伴っている。けれど、もうただ怖いだけではなかった。
本社の正しさと、現場の現実。
そのあいだに立つことから、逃げない。
李佳はそう決めると、資料の二枚目を開き、ゆっくりと次の見出しを打ち込んだ。
「現場を止めないための対応方針」
打ち終えた文字を見つめながら、李佳はしばらく手を止めた。
これは、ただの資料の見出しではない。山本に説明するための言葉であり、佐藤と現場をつなぐための言葉であり、そして何より、李佳自身がこれから立たなければならない場所を示す言葉でもあった。
本社の正しさを、現場で動く形に変える。
現場の声を、本社が判断できる言葉に変える。
そのどちらも、簡単ではない。
けれど、どちらか一方の側に立つだけなら、橋はかからない。
李佳は画面の端に表示された山本の来訪予定を、もう一度見た。
月末、午前十時。
その短い予定の文字が、まるで次の扉のように見えた。
