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BOUNDARY SPANNER|橋をかける人 #09 何に謝るのか

山本宗介が帰国してから三日後、上海支社の空気は、ようやくいつもの速度を取り戻しつつあった。

会議室に残っていた緊張は少しずつ薄れ、机の上にはまた日常の案件が積み上がり始めている。誰も山本の名前を口にはしなかったが、彼が去ったあとの数日間、現場がわずかに引き締まっていたことは、みなが感じていた。

資料の言葉遣いが少しだけ慎重になる。
会議での発言に、一拍の確認が入る。
「これで伝わるか」だけでなく、「これを相手はどう判断するか」を考えるようになる。

その変化は大げさなものではない。けれど、仕事をしている人間には十分に分かるものだった。

李佳もまた、山本との打ち合わせ以降、自分の仕事の見え方が少し変わっていた。

相手に伝えるとは、単に日本語を正しく並べることではない。何を論点として立てれば相手が判断できるのか。どの順番で出せば議論が前に進むのか。その設計まで含めて考えなければならない。

そこまでは、少しずつ見え始めていた。

だが、橋渡し役として本当に難しいのは、資料や論点の整理だけではない。

人の感情が絡んだとき、言葉はもっと扱いにくくなる。

その日、問題は夕方になって起きた。

上海支社が担当している日系クライアント向けの月次報告資料に、数値の不整合が見つかったのである。

正確に言えば、集計そのものが間違っていたわけではない。営業側が先方に伝えていた基準値と、レポート作成チームが採用していた基準値が揃っていなかった。

だが、クライアントから見れば、そんな事情は関係ない。

提出された資料の数字が、前回の説明と一致していない。

その一点だけで、十分に問題になる。

最初に気づいたのは、叶青だった。

彼女はクライアントから返ってきたメールを読み終えると、すぐに椅子を回して李佳を呼んだ。

「客户说数字对不上。」
(お客さんが、数字が合わないって言ってる)

李佳は画面をのぞき込んだ。

メールの文面は丁寧だった。だが、その丁寧さの奥に、明らかな不信感がにじんでいた。

――前回ご説明いただいた数値と、今回の報告資料に記載されている数値に差異があるようです。算出基準をご確認いただけますでしょうか。

たった数行のメールだった。

けれど、李佳はその短さの中に、先方が言葉を選んでいる気配を感じた。

怒っているわけではない。
しかし、疑っている。
まだ関係を壊すつもりはない。
けれど、説明を求めている。

こういうメールほど、対応を間違えると危ない。

「佐藤さんに共有します」

李佳が言うと、叶青はすぐに首を振った。

「先别道歉。」
(先に謝らないで)

「まだ何も言ってないよ」

「但是日本人一定会先说不好意思。」
(でも日本人は、絶対に先に“申し訳ありません”って言うでしょう)

その言い方は少しきつかったが、的外れではなかった。

数分後、佐藤がやって来た。

メールを読み終えた彼は、すぐに眉を寄せた。

「まずは先方にお詫びしましょう。数字に不一致があるように見えている時点で、ご不安をおかけしていますから」

叶青の表情が、はっきり変わった。

「まだこっちのミスかどうか分かっていません」

彼女は日本語を使わず、中国語で続けた。

「如果现在道歉,对方会觉得是我们错了。」
(今謝ったら、相手は私たちが間違えたと思う)

佐藤は困ったように李佳を見た。

「もちろん、原因がこちらにあると認めるという意味ではありません。ただ、先方を混乱させていることについては、先にお詫びした方がいいと思います」

「でも、謝ったら責任を認めたことになります」

叶青の声は、少し硬かった。

陳立も資料を見ながら言った。

「ここは数字の定義が違うだけかもしれません。先に謝るより、基準を確認した方がいいです」

佐藤は黙った。

彼の言っていることも、李佳には分かった。

日本のクライアント対応では、まず相手の不安や混乱に対して頭を下げる。原因の確定よりも、関係の安定を先に守る。佐藤にとって、それは自然な対応だった。

けれど、叶青たちの感覚も分かる。

事実関係が固まっていない段階で謝ることは、責任を引き受けるように見える。特に数字が絡む場合、曖昧な謝罪はあとから自分たちの首を絞めることがある。

佐藤が守ろうとしているのは、関係の信頼だった。
叶青が守ろうとしているのは、事実の筋道だった。

どちらも、仕事において必要なものだった。

李佳は、二人の間に立ったまま、しばらく画面の数字を見ていた。

謝るべきなのか。
説明すべきなのか。
どちらが先なのか。

けれど、その問いの立て方そのものが、少し違うのかもしれない。

李佳はゆっくりと口を開いた。

「順番を分けませんか」

三人の視線が、一度に彼女へ向いた。

「最初の連絡では、数字が食い違って見えたことで、先方に混乱を与えたことだけをお詫びします。そこでは、責任の所在までは確定させません」

李佳は言葉を選びながら続けた。

「そのうえで、“現在、算出基準の差分を含めて確認中です。本日中に整理し、改めてご説明します”と伝える。そうすれば、態度としての謝罪は先に出せますし、事実確認も後でできます」

佐藤はすぐには答えなかった。

叶青も、表情を変えずに李佳を見ている。

李佳は続けた。

「つまり、謝る対象を“混乱させたこと”に限定するんです。“私たちのミスです”と先に決めるのではなく、“説明の不一致でご心配をおかけしたこと”を先に引き受ける。そのあとで、数字の整理と原因説明を出します」

沈黙は長くなかった。

けれど、李佳にははっきりと感じられた。

今、自分は言葉を訳しているのではない。
二つの正しさがぶつからないように、順番を組み替えている。

最初に口を開いたのは、佐藤だった。

「それなら、できますね」

その声には、少しの驚きと、はっきりした納得が混じっていた。

叶青も、しばらく考えてから言った。

「如果只是为‘让对方困惑’这件事道歉,那我可以接受。」
(“相手を混乱させたこと”について謝るだけなら、私は納得できます)

陳立がようやく息をついた。

「じゃあ、それでいきましょう。先方への連絡と、原因整理を並行で進めればいいですね」

そこで初めて、部屋の空気が少し動いた。

佐藤はすぐに先方への返信文を作り始めた。

――このたびは、前回ご説明した数値と今回資料上の数値に差異があるように見える点につき、ご心配をおかけし申し訳ございません。現在、算出基準の差分を含めて確認しております。本日中に整理のうえ、改めてご説明いたします。

李佳は文面を見ながら、小さく頷いた。

謝っている。
けれど、責任を決めつけてはいない。
相手の不安を受け止めながら、事実確認の余地を残している。

それは、佐藤の守りたいものと、叶青の守りたいもののあいだに、細い橋をかける言葉だった。

その後、陳立が営業側の説明履歴を確認し、叶青がレポート作成時の基準値を洗い出した。李佳は二つの情報を並べ、どこで基準がずれたのかを整理した。

原因は、やはり単純な入力ミスではなかった。

営業側は「契約開始月ベース」の数値を先方に説明していた。一方、月次報告資料では「処理完了月ベース」の数値を採用していた。どちらも間違いではない。だが、同じ名称の項目として並べれば、当然、違って見える。

夜七時前、説明資料がまとまった。

李佳は最後の一文を入れた。

「今後は、同一項目名で異なる基準値を使用する場合、資料上に算出基準を明記いたします」

その文を打ちながら、李佳はふと思った。

今回、本当に問題だったのは、数字そのものではなかったのかもしれない。

数字の後ろにある前提が、共有されていなかったこと。
そして、その前提がずれたまま、同じ言葉で報告してしまったこと。

言葉だけではない。
数字にも、前提がある。

先方への説明が終わったのは、夜八時を少し過ぎたころだった。

大きなクレームにはならなかった。先方は、算出基準の違いについて理解を示し、次回以降の資料表記を明確にすることで了承した。

佐藤は電話を切ると、深く息を吐いた。

「助かりました」

李佳は首を振った。

「いえ、みんなで確認できたので」

叶青は少し疲れた顔で椅子にもたれながら、ぽつりと言った。

「でも、最初に何に謝るかを決めるのって、大事ですね」

その言葉に、佐藤が静かに頷いた。

「はい。私も、そこは少し考え直しました」

李佳は二人のやり取りを見ていた。

佐藤は、謝ることで関係を守ろうとした。
叶青は、謝らないことで事実を守ろうとした。
陳立は、仕事を止めないために原因を探した。

それぞれが違うものを守ろうとしていた。

そして自分は、そのどれか一つを選ぶのではなく、順番を変えることで、全部を少しずつ守ろうとした。

それが正しかったのかは、まだ分からない。

けれど、少なくとも仕事は止まらなかった。

人の感情も、事実の筋道も、どちらか一方だけでは前に進まない。
守るべきものが複数あるとき、橋をかける人は、言葉の順番を考えなければならない。

夜のオフィスは、もうほとんど人がいなかった。

窓の外には、上海の灯りが静かに広がっている。ビルの明かりは一つひとつが小さく、けれど遠くまで続いていた。

李佳は机の上に残った月次報告資料を閉じた。

今日、彼女が動かしたのは、大きな制度でも、大きな組織でもない。

たった一通の返信文。
たった一つの謝罪の順番。

けれど、その小さな順番が変わっただけで、関係は壊れず、事実も曲げず、仕事は前へ進んだ。

李佳は、画面に残った返信文をもう一度見た。

何に謝るのか。
何をまだ説明しないのか。
何を、最後まで守るのか。

その境目を見極めることが、橋をかける仕事なのだと、彼女は少しずつ分かり始めていた。

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