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BOUNDARY SPANNER|橋をかける人 #03 その「任せます」は、どこまでですか

翌朝、李佳はいつもより少し早くオフィスに入った。

窓の外の上海は、まだ朝の光の中にあった。高層ビルの輪郭はやわらかく、道路を流れる車の列も、午後ほどの熱を帯びてはいない。会議室のガラスには淡い空の色が映り込み、いつもはどこか急かされているように見えるオフィスも、この時間だけは少し静かだった。

李佳は席に着くと、前日のうちに整理しておいたメモを机に置いた。日本本社から提示された承認フロー。そのまま導入するには、いくつかの問題がある。

承認者が多すぎること。
各部門の責任範囲が、日本側の想定と中国側の実務で一致していないこと。
そして、現場で例外処理が起きたとき、誰が最終的に判断するのかが曖昧なこと。

この三点だけでも、日本側の案をそのまま上海で動かすのが難しい理由としては十分だった。

けれど、李佳はそこで手を止めなかった。

単に「難しい」と伝えるだけでは、たぶん足りない。日本側が知りたいのは、できない理由そのものではなく、できない理由を踏まえたうえで、ではどうすれば運用できるのかという見通しのはずだった。少なくとも、昨日の佐藤の言い方からはそう感じられた。

問題点を並べるだけではなく、代替案まで持っていくべきだろう。

そう判断した李佳は、承認フローの簡略版と、例外処理を現場判断で進めるための条件案まで作り始めた。

九時を少し回ったころ、陳立が紙コップを片手にやってきた。

「もう始めてるんですか」

「早めに方向だけでも決めておきたかったから」

李佳は画面を見たまま答えた。陳立は彼女の背後からモニターをのぞき込み、少し驚いたように言った。

「そこまで作るんですか。承認フローの問題点だけまとめるのかと思ってました」

「私も最初はそう思った。でも、それだけだと、結局どうしたいのかが伝わらない気がして」

「なるほど。で、これをそのまま佐藤さんに出すんですか」

李佳は一瞬だけ手を止めた。そこは、自分でもまだ決めきれていないところだった。

「そのまま出すというより、一度チームで詰めたい。叶青にも見てもらって、実務で本当に回るか確認したい」

ちょうどそのとき、叶青が大きめのファイルを抱えて入ってきた。挨拶もそこそこに資料を机に置くと、李佳のモニターに目をやった。

「已经开始改了?」
(もう修正を始めてるの?)

「嗯,先把问题和改法放在一起看。」
(うん。まず問題点と修正案をセットで見ようと思って)

叶青は画面を数秒見つめたあと、すぐに指摘を始めた。

「这里不行。」
(ここは駄目ね)

彼女が指したのは、例外処理の承認条件だった。

「你写得太温和了。现场不会按这种话来执行。要么给判断标准,要么给权限,不然最后还是会卡住。」
(書き方が優しすぎる。現場はこういう言い方では動かない。判断基準を出すか、権限を渡すか、どちらかにしないと、結局また止まる)

その指摘はもっともだった。

李佳自身、どこかで「日本側に見せる資料」として言葉を整えすぎていたのかもしれない。現場が欲しいのは、配慮のある表現ではなく、動ける条件である。

「分かった。ここは基準を出してみる」

李佳が修正を始めると、今度は陳立が別の箇所を示した。

「ここのところ、承認者を三人から二人にするって書いてますけど、営業側の責任者が抜けると反発が出るかもしれません。そこは承認を外すんじゃなくて、事後共有にした方が現実的じゃないですか」

叶青がすぐに頷いた。

「对。中国这边最怕的不是流程多,是责任不清。」
(そう。こっちでいちばん困るのは、フローが多いことじゃなくて、責任が曖昧なこと)

李佳は二人のやり取りを聞きながら、ノートに短く書き込んだ。

承認そのものを減らすのではない、かつ責任者を明確にする。
日本側が重視している統制の考え方を残しつつ、現場の速度を落とさない形にする。

その線なら、たしかに両方を立てられるかもしれない。

午前中いっぱいを使ってたたき台を修正し終えたころには、資料は単なる「問題点整理」ではなく、中国側の運用案として十分に議論できるものになっていた。

李佳は一度深く息をつき、時計を見た。午後二時から、佐藤との打合せの予定が入っている。

その時間になり、李佳は資料を持って佐藤の席へ向かった。

佐藤はちょうど日本本社宛てのメールを打ち終えたところで、李佳の姿を見るとモニターを閉じた。

「ありがとうございます。どうですか、見えてきましたか」

李佳は資料を差し出した。

「はい。現状のフローをそのまま使うのは難しいので、中国側の運用に合わせた調整案をまとめました。どこが実務上のボトルネックになるかと、それをどう修正すれば運用できるかを、セットで整理しています」

佐藤は最初の数ページをめくり、途中で手を止めた。

「……かなり作り込みましたね」

声の調子は落ち着いていた。けれど、その一言には少し意外そうな響きがあった。

李佳は、その反応にわずかに戸惑った。褒められているようにも聞こえる。けれど、そこまで求めていなかったと言われているようにも聞こえる。

佐藤はさらに資料を読み進めてから、顔を上げた。

「内容自体は、とてもいいと思います。ただ、私が最初に見たかったのは、ここまで完成した案というより、まずどこが難しいのかという整理だったんです。そこが分かれば、日本側とも早い段階で認識を合わせられたので」

李佳は、すぐには返事ができなかった。

自分のやったことが否定されたわけではない。むしろ、資料そのものは評価されているのだろう。だが、時間のかけ方としては、日本側の期待から少しずれていた。それは、はっきりと伝わった。

「……最初の段階では、問題点だけでよかった、ということですか」

「問題点だけ、というより、まず方向性ですね。どこが難しくて、どういう修正が必要そうか。その認識を先にすり合わせたかったんです。そこで方向が合えば、そのあと詳細を詰める方が、結果的には速いので」

李佳は小さく頷いた。

理屈としては理解できる。だが同時に、胸の奥にわずかな悔しさのようなものも残った。

自分は、任されたと思ったからこそ最後まで考えたのだ。途中段階の資料を出すことは、どこか中途半端で、責任を果たしていないようにも感じていた。だが、佐藤が求めていたのは、完成度よりも途中のすり合わせだったのである。

「分かりました。次からは、もう少し早い段階で共有します」

そう答えると、佐藤は穏やかに頷いた。

「その方が助かりますし、こちらも判断しやすくなります。李佳さんが現場でしっかり考えてくれているのは、今日の資料を見てよく分かりました。だからこそ、途中で見せてもらえると、もっとよくなると思うんです」

その言い方は丁寧で、相手を立てている。だが、李佳の中には簡単には収まらないものが残った。

褒められているのに、どこかうまく着地できない。
自分の努力は間違っていなかったはずなのに、進め方としては期待とずれていた。

そのずれが、言葉の表面ではなく、仕事の進め方の前提そのものにあることが、彼女には少しずつ見えてきていた。

席に戻ると、叶青がすぐに顔を上げた。

「怎么样?」
(どうだった?)

李佳は苦笑した。

「他说资料没问题,但是他本来想先看方向,不是先看完成版。」
(資料自体は問題ないって。ただ、最初に見たかったのは完成版じゃなくて、方向性の整理だったんだって)

叶青は一瞬黙り、それから率直に言った。

「那为什么一开始不说清楚?」
(じゃあ、どうして最初からそこをはっきり言わないの?)

李佳は、その問いにすぐには答えられなかった。

まさに、自分が聞きたかったことだったからである。

陳立が隣で小さく笑う。

「でも、そういうことなんですよね。日本側って、全部言わなくても通じる前提で話すから、こちらが勝手に補ってしまうんだ。」

叶青は納得できない顔のままだった。

「可是工作不是猜谜语」
(でも仕事って、なぞなぞじゃないでしょ)

その一言に、李佳は思わず顔を上げた。

たしかに、その通りだった。

けれど、日本側にとっては、それはなぞなぞではない。言わなくても共有されているはずの常識であり、仕事の文脈なのである。だから、どちらが間違っているという話ではない。

問題は、その共有が成立していない相手とのあいだでも、同じように仕事が進むと思ってしまうことにあった。

李佳はノートを開き、短く書いた。

「完成度」ではなく「途中の認識合わせ」。
「任せる」ではなく「途中で見せる」。
「やり切る」ではなく「早く返す」。

書きながら、少しずつ自分の考えが整理されていくのを感じた。

これまでの自分は、与えられた仕事を最後まで考え抜き、形にして返すことが信頼だと思ってきた。けれど、日本側との仕事では、その信頼の作り方が少し違うのかもしれない。

最後まで抱え込むよりも、途中で見せ、相手を巻き込みながら形を整えていく。そのやり方を身につけなければ、この先も同じずれは繰り返されるだろう。

その日の夕方、李佳は趙美雅にメッセージを送った。

「少しご相談したいことがあります。今日、時間ありますか」

すぐに返事が来た。

「あるわよ。会社の近くでいいかしら」

オフィスを出たあと、二人は淮海中路の裏手にある小さな店に入った。古い上海料理の店で、入り口には蒸し物の湯気が立ちのぼり、店内には仕事帰りの人たちの声がほどよく満ちている。

趙美雅は席に着くなり、温かいジャスミン茶を手元に引き寄せた。

「それで、今日は何があったの」

李佳は、昼間のやり取りを順を追って話した。

佐藤に見せた資料のこと。資料そのものは評価されたこと。けれど、本来求められていたのは完成度ではなく、もっと早い段階での認識合わせだったこと。

趙美雅は途中で口を挟まずに聞き、最後に静かに言った。

「つまり、あなたは“ちゃんとやる”ことで応えようとしたのね。でも、相手は“早く見せる”ことで応えてほしかった」

李佳は頷いた。

「たぶん、そういうことだと思います。でも、会議のときには、そこまで分からなくて」

「そうでしょうね」

趙美雅は湯呑みに手を添えたまま、少しだけ笑った。

「日本の仕事って、最後に完成したものだけで評価するように見えて、実は途中のすり合わせをかなり重視するのよ。しかも、それを最初に全部言うとは限らない。だから厄介なの」

李佳は黙って聞いていた。

「でもね、それを“言ってくれないから困る”で終わらせると、ずっと同じところで止まるわ。大事なのは、そこに含まれている期待を、あなたの方で一度ほどいて、言葉にし直すことなの」

趙美雅の声は穏やかだったが、その言葉はまっすぐに李佳の中へ入ってきた。

「完成した案を出す前に、“方向性としてはこう考えていますが、この理解で合っていますか”と一度返せばよかったの。そうすれば、相手の期待の置き場所が見えたはずよ」

李佳は、その言葉をゆっくりと受け止めた。

なるほど、と思う一方で、それをその場でできなかった自分にも気づいていた。だが、気づいたことには意味がある。少なくとも、次は同じやり方を繰り返さずに済むかもしれない。

店を出るころには、上海の夜はすっかり深まっていた。

ネオンの光が濡れた歩道に映り込み、人の流れは昼間とは違うゆるさで続いている。李佳は、先ほど趙美雅に言われた言葉を思い返していた。

期待をほどいて、言葉にし直す。

それは、単に日本語ができるということではない。相手の前提を読み取り、自分たちの現実と接続できる形に変えることだ。

その夜、李佳はようやく、自分が立っている場所の意味を少しだけ分かり始めていた。

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