(書評)第159回「パッキパキ北京」(綿矢りさ 著)☆コロナ禍の北京の滞在記。一気読み必至の「痛快フィールドワーク小説」☆
2023年刊行。単行本140ページ。コロナ禍の中国(北京)を舞台に、30代半ばの女性主人公が、中国の文化や食事を堪能し切る話です。北京の人々や文化の観察もするどく、社会学や民俗学でいうところの「フィールドワーク(視察・生態調査)」の要素の濃い小説です。

元銀座のホステスである主人公・菖蒲(アヤメ)は36歳。20歳年上の夫は北京に単身赴任中で、別居状態です。菖蒲は当初は、夫の駐在先である中国にはまったく興味がなく、日本で気ままな生活を送っていました。ファッションが大好きで、シャネルがお気に入りです。ペイペイという名前の愛犬(ロシアントイテリア)を飼っています。ある日、コロナ禍の北京に滞在中の夫から、沈痛な連絡が入ります。夫いわく「北京での生活に適応できず、適応障害になった。一緒に暮らしてほしい。さもなければ離婚も考える」というものでした。気弱な夫から半ば強引な手段で呼び寄せられた菖蒲は、ペイペイを伴って、しぶしぶ北京へ渡ることに決めます。
いざ北京での生活が始まると、菖蒲は持ち前の適応能力(バイタリティ)を存分に発揮します。コロナ禍の日本でも、お構いなしに旅行を楽しんでいた菖蒲は、異国の地にも関わらず、底抜けに明るく図々しく、北京生活をエンジョイしまくります。中国語は話せませんが、ネットショッピングサイトの淘宝網(タオバオ)や、美容情報アプリ小紅書(シャオホンシュー)を駆使したり、高級料理の北京ダックから、超ローカルフード(ゲテモノ)のアヒルの脳まで食べまくったり、街のカオスすぎる交通事情や北京の人たちの生態を観察したり、極寒の北京で、安物のダウンコートが高級ブランドのコートより暖かいことを発見したり、マスクの内側の結露が凍る体験をしたりと、まさに五感を通して異文化に触れて行きます。
いっぽう、夫のほうは家にこもっていて、菖蒲の行動力に驚き、戸惑います。菖蒲は夫の情報強者のフリをして消耗している姿を冷淡に見ていて、2人の価値観の相違は広がるばかりでした。菖蒲は現地で知り合った大学院生のカップルの男の子のほうと親しくなったり、夫の制止にも関わらず、ひとりで街へ繰り出したりと、自由奔放に振る舞います。
ある日、夫婦ともどもコロナに感染してしまいます。菖蒲はいち早く回復しますが、年配の夫は逆に病状が悪化して、高熱に苦しみます。菖蒲は夫を懸命に看病します。回復後に、夫が仕事の電話をする姿を見て菖蒲は「いつか彼がこんな風にできなくなる日が来るんだろうな。そのときは、私が支えてやる。それが夫婦ってもんだ」と、夫婦としての絆を感じます。しかし、その後夫から「子供が欲しい」と告げられると「身軽なまんまでいたい」と拒否します。夫には前妻との間に2人の子供がいるのでした。
過酷な隔離期間が解除されて、北京は「春節」でにぎわいます。夫は「もし君が妊活もしない、北京にも残らないというのなら、残念ながら僕にも考えがある」と離婚をほのめかします。夫は菖蒲の生き方を受け入れられないのでした。菖蒲は日本にいる元同僚の美杏(ミアン)に連絡して、帰国することと、男(70代)を紹介してくれることを依頼します。菖蒲は「北京を嫌いになる前に、北京から出る。長く居すぎた観光客の気分で日本に戻る」と思います。美杏は「中国でしたいこと、もう無いの」と訊きますが、菖蒲は「夫がくれたボーイシャネルのバッグを北京で持ち歩いて見せつけた」からもいういい、と答えます。
菖蒲は「シャネルが無くても完全勝利できる女になる」「精神勝利法を極めるの」と宣言します。菖蒲は美杏に「姐さん、アタマ大丈夫?」と心配されながら、物語は幕を閉じます。

『パッキパキ北京』というタイトルは、厳冬の北京の凍りつくような空気や、主人公の性格を表しているのだと感じました。凍てつく北京市の描写と食べ物の描写は、とても鮮やかでディテールが巧みに描かれていて、コロナ禍の閉塞感と、その最中でもエネルギッシュに生きる主人公のバイタリティーが伝わってきました。そのいっぽう、主人公をはじめ、人物造形がパターン化していて、浅いとも感じました。なんの屈託もない主人公は、たしかに魅力的ではありますが、中身のない薄っぺらな感じがして、感情移入や共感は、残念ながらできませんでした。菖蒲と夫との関係も「必然性」が伝わってきませんでした。どういういきさつで、2人は結婚するに至ったのか、皆目分かりませんでした。
ラストに出てくる「精神勝利法」は、中国の作家魯迅の小説『阿Q正伝』から取ってきたものだと思います。主人公の「阿Q」は、観念操作(自己欺瞞)によって、失敗を成功にすりかえる人物ですが、菖蒲も阿Qのように、現実の敗北から目をそらす人生を歩むかと思うと、ちょっと暗い気持ちになりました。しかし見方を変えれば「精神勝利法」もあながち間違ってはいないとも感じました。少なくても人と比べたり、物質的な豊かさに依存して、人生「勝ち」だの「負け」だのと言っているよりは、健全だとも思いました。
読む人によって、評価が大きく分かれる作品だと思います。菖蒲に共感する人もいれば、強い拒否感を感じる人もいると思います。それだけに、議論を呼ぶ力を持った、刺激的な作品であることに異存はありません☆

