(書評)第158回「私をくいとめて」(綿矢りさ 著)☆30代おひとりさま女子が恋人を作るまで。もう一つの自分「脳内A」が消えるまで☆
2017年刊行。単行本220ページ。著者初の新聞連載小説です。アラサーの主人公・黒田みつ子は、いわゆる「おひとりさま」生活を満喫している32歳。自分の行動も悩みも、迷いが生じた時は必ず脳内にいる「相談役A(Answer)」に相談します。「A」はいつでもみつ子の味方で、傷つけることも孤立させることもしません。正しいアンサーを選択してくれる「A」と一緒に、この先も心地よい「おひとりさま生活」が続くと思っていたのですが、ある日、年下の営業マン・多田に恋をします。アラサーの自分から年下の男性にアプローチすることに戸惑うみつ子は、「A」にアドバイス求めます。
2020年12月に、大九明子の監督・脚本、のんの主演で映画化されました(同じ著者による『勝手にふるえてろ』も、大九明子の監督・脚本でした)。

冒頭は、みつ子が東京の合羽橋で、蝋で食品サンプルを作る講座の様子から始まります。主人公の黒田みつ子は32歳。「おひとりさま」を満喫している独身アラサー女子です。恋愛に飢えてはいませんが、ふとした瞬間に不安になる年頃です。みつ子は、一人で生きていくことには、なんの抵抗もありません。理由は、みつ子の脳内には、いつも正しい完璧な答えを教えてくれる「A」がいるからでした。「A」はみつ子の頭の中に住んでいる「もう一人の自分(別人格)」です。性別不明な声で、話すときはいつも敬語を使います。みつ子が困ったり悩んだりしたときの相談相手であり、執事かアドバイザーのような立ち位置にありました。いつも適切なアドバイスをくれる「彼」のことを、みつ子は「Answer」の頭文字である「A」と呼んでいます。2年前、「A」がみつ子に恋人を作らせようとした結果、選んだ歯科医の男が最悪で、みつ子に苦い失恋を味わわせてしまいます。このときはみつ子も「A」も相当落ち込んで、それがトラウマになっていました。
「おひとりさま」にすっかり慣れてしまったみつ子には、ただ一人、プライベートで会う年下の男性がいます。それは取引先の営業マンの多田でした。二人の関係はちょっと変わっていて、月に一度か二度、多田がみつ子の部屋を訪れ(家の中には入らず玄関先で)、みつ子が多田に料理を作っておすそわけする間柄でした。みつ子と多田は近くに住んでいて、商店街のコロッケ屋でたまたま出会ってから、そんなやりとりが2年間も続いているのでした。2人の関係は、恋愛には発展しません。みつ子は多田に対して、優しさにときめいた瞬間も、心惹かれる外見も、気が合うと感じた楽しい会話もありませんが、プライベートで会う異性は彼しかいないのでした。多田は身体が大きく、裏表のない素朴なタイプで、いわゆるイケメンではありませんでした。
ある日、みつ子は部屋の大掃除をします。そして多田を夕食に招待します。考えてみれば、多田とちゃんと話すのはこれが初めてです。2人きりの夕食は、近所に住んでいることもあり話題が尽きず、あっという間に時間が過ぎていきます。しかしその日は、それ以上の進展はなく、夕食を食べ終わるとお開きになります。みつ子は多田の印象を「話しやすい人だった。でも好きとかじゃない。たぶんあっちも同じ気持ち。恋人として仲が深まるために必要な情熱が、決定的に欠けていた」と感じます。多田はみつ子の恋人候補から外れてしまったかに思われましたが、ふとしたきっかけから、二人はダブルデートでディズニーランドに行くことになります。先輩のノゾミさんと、社内でもイケメンで有名なカーターとの恋を応援する目的でした。みつ子と多田は、デートの途中でわざとノゾミたちと分かれます。そのときに、なんと多田が告白してきました。多田は「おれたちも、付き合ってみますか?」と言います。みつ子はギクリとして、なんと答えたらいいか分からないまま固まります。対岸の火事が飛び火してきた感じでした。多田は「うまくいくと思いませんか?、家も近所だし、もうちょっと会う回数多くして、週末は今日みたいにどこか行ったり。楽しそうな気がするんだけど」と言います。いっぽうみつ子も、わりと簡単に「多田とあちこち一緒に遊びに出かける想像」がつきます。みつ子は、恋人同士というイメージに勝手に抱いていた「恋愛感情の熱い盛り上がり」はそこにはないけれど、単純に楽しそうな日常が待っている気がするのでした。
みつ子と多田は付き合い始めますが、あまりにも久しぶりな男性との付き合いは、みつ子の思いどおりにいかないことも多くて、時々不安でいっぱいになります。ちょっとした言動で、多田がすねてしまうと、距離感が分からなくなって、どんどんネガティブになってしまいます。みつ子は「だれでもいい、だれか私をくいとめて」と思います。すると久しぶりに「A」が現れて「大丈夫ですから、ちょっと落ち着いてください。気持ちを追い詰めたら、辛くなるだけですよ」と助け船を出します。気分が落ち着いてきたみつ子に、「A」が「一体なにがそんなにショックだったんですか。多田さんとの距離がぐっと縮まるいい機会じゃないですか。抱きついてきた彼に幻滅したんですか」と尋ねます。みつ子が急に抱きついてきた多田を拒否してしまったことで、2人の関係はいったんはギクシャクしてしまいます。
「A」は「そろそろ帰らなきゃいけないですね、私は」と言い、みつ子はハッとします。みつ子には「A」 とはもう二度と話せなくなるのだと、はっきりわかっていました。「まだ一人じゃ生きていけない」と引き止めるみつ子を、「A」 はいつもと変わらない優しい口調で諭します。みつ子は「「A」 がいなくなれば、私は誰ともおしゃべりできない」と言い、「A」は「だいじょうぶ。ドアを開けて外に出てみましょう。何を考えているかわからない相手だからこそ、伝えられる言葉があるんです」と言います。
みつ子は、ついさっきまでの絶望的な混乱が落ち着いて、かわりに「A」のいない心細さで胸がいっぱいになります。みつ子は「A」と会話できる特殊能力を、恋によって失ってしまった、と感じます。多田との関係がギクシャクしたのはいっときのことで、2人はあっさりと、いつもどおりの穏やかな関係を取り戻します。
みつ子と多田は、2泊3日の沖縄旅行の計画を立てます。出発当日、みつ子は部屋の鍵を失くしてしまいます。その時、本当に久しぶりに「A」が現れて、みつ子に鍵のありかを教えます。しかし「A」が言葉を発したのはそのときだけで、それからはどんなに話しかけても返事は返ってきません。みつ子は「A」に語りかけます。「「A」、もう聞いてないかもしれないけど、話すね。私から呼びかけるのは、これで最後にします。迷っているとき、いつも相談相手になってくれてありがとう。私は、私自身にさえすがりつかなければ困難を乗り越えられないほど弱い人間だけど、A がいたおかげで何度も乗り越えられたよ。いつも励ましてくれて、つねに私の味方でいてくれてありがとう。いつも言ってほしい言葉をかけてくれてありがとう。これからは自分とは別の人間と、向き合って、体当たりで、ぶつかって生きていくよ。でももし頑張っても上手くいかなくて、また孤独でピンチに陥ったら、どうぞよろしく。頼りにしてるよ。私はラッキーだって今気づいた、本物の孤独なんて私には永久に存在しないね、だって常に「A」がそばにいるから。「A」は私なんだから。そう思うと、すごく強くなれるよ」。
返事は聞こえませんでしたが、頭の中で「A」が微笑んだような、脳のシワのうちの一本がゆるんだ感覚がありました。

結局のところは、多田とみつ子の話がメインではなくて、みつ子が「A」から自立して、成長する話なのだと思います。物語の大半は、みつ子のなにげない「おひとりさま」としての日常を描いたシーンで占められています。一人焼肉に行ったり、親友の皐月の住んでいるイタリアに旅行に行ったり、カフェで他の客の会話を聞いては、心の中でコメントしてみたり。アラサーの「おひとりさま」であるみつ子の等身大の日常には、特筆すべき特別なものはなにもありません。しかし、みつ子が思ったり感じたりしていることは、思わず「あるある」とうなずいてしまうような表現ばかりで、それがとても面白かったです。みつ子と同世代の女性なら「ほんとにそうだよね」と共感する場面がいくつも見つかると思います。まるでみつ子が自分と同じ感性を持つ仲間であるように思われて、読んでいてちょっと元気が出る小説でした。
特に50ページにもおよぶイタリア旅行のシーンは白眉で(127ページから175ページ)、まるで著者の旅行記を読んでいるようで素晴らしかったです。それからイタリアに行くときの、飛行機の中での「臨死体験」も良かったです。「同世代の気持ちを描き続けてきた、綿矢りさの真骨頂」というキャッチフレーズは正しいと思いました☆

