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『ブラック・ショーマン』映画考察|東野圭吾原作❘人は真実ではなく、信じたい物語を見ている。

マジシャンが暴くのは事件ではなく、人間の思い込みだった。

東野圭吾作品には、不思議な共通点があります。

それは、事件そのものよりも、「人はなぜその選択をしたのか」を描いていることです。

『容疑者Xの献身』では愛が犯罪へ変わる瞬間を描き、『白夜行』では罪を背負い続ける人生を、『マスカレード・ホテル』では人が社会の中で演じる仮面を描きました。

そして『ブラック・ショーマン』で東野圭吾が選んだ主人公は、刑事でも探偵でもなく、一人のマジシャンでした。

一見すると異色の設定ですね。

しかし読み終えたとき、この主人公ほど東野作品のテーマを体現する人物はいないと気づきます。

マジシャンは人を騙す職業ではありません。

「人は何を見て、何を見落とすのか」を知り尽くした人なのです。

だから『ブラック・ショーマン』が描いているのはトリックではありません。

私たち自身が世界をどう見ているのかという、人間の認知そのものなのです。


なぜ東野圭吾はマジシャンを主人公に選んだのか

マジックは、手先の技術だけでは成立しません。

本当に重要なのは、

観客の「思い込み」を作ることです。

人は見たいものを見ます。

聞きたいことだけを聞きます。

そして、自分で作った物語を真実だと思い込みます。

東野圭吾が長年描いてきたミステリーも、まさに同じ構造です。

読者は作者が見せる情報だけを信じます。

その裏で、本当の真実は静かに隠されています。

つまり、

ミステリー作家は文章で人を騙し、マジシャンは視線で人を騙す。

手法は違っても、本質は同じなのです。

だから神尾武史という主人公は、東野圭吾自身の分身のようにも見えてきます。

彼は事件を解決しているようでいて、本当は「人が思い込む仕組み」を解き明かしているのです。


東野圭吾作品の主人公たちは、それぞれ「真実への入り口」が違う

東野圭吾作品には魅力的な名探偵が数多く登場します。

しかし、真実へ辿り着く方法はそれぞれ異なります。

湯川学(ガリレオ)は「科学」で真実を見る

湯川は感情では判断しません。

現象には必ず理由がある。

実験し、検証し、証明する。

科学とは、思い込みを排除する学問です。

だからガリレオシリーズは、

「なぜ起きたのか」

を論理で説明します。


加賀恭一郎は「人間」を見る

加賀刑事は証拠だけを追いません。

家族
人生
後悔
沈黙

その人が生きてきた背景を見つめます。

だから事件を解決した後には、

犯人を責めるより、

人生そのものを考えさせられるのではないでしょうか。


神尾武史は「錯覚」を見る

そして本作のブラック・ショーマン。

神尾武史は、

証拠でも、科学でも、肩書きでもありません。

見ているのは、

「人が何を信じたがっているのか」

です。

マジックとは、

現実を変える芸術ではなく、
現実の見え方を変える芸術です。

つまり
神尾武史は、事件ではなく、
人間の認知そのものを解いている探偵なのです。


「ブラック」とは闇ではなく、舞台である

タイトルだけを見ると、

ブラックには悪や犯罪のイメージがあります。

しかし舞台の世界では、

黒には別の意味があります。

黒は、

観客が意識しない色。

だからマジックが成立します。

人生も同じです。

私たちは目立つものばかり見ています。

成功や肩書き、噂、SNS、、、

しかし本当に人生を動かしているものは、

目立たない場所にあります。

誰にも言えなかった後悔

叶わなかった夢

家族への思い

東野圭吾は、

その「黒い背景」にこそ、

人間の本質があることを描いているように思えます。


福山雅治だから成立する神尾武史

映画化で神尾武史を福山雅治が演じることには、
大きな意味がある気がしました。

福山雅治は、知性、ユーモア、色気、余裕を感じさせるステキな俳優さん。

そしてどこか本心を読ませない雰囲気も持っていますね。

これはマジシャンに必要な条件です。

マジックとは、観客との心理ゲーム。

観客は、

「今、この人は何を考えているのだろう」

と無意識に読み取ろうとします。

しかし福山雅治という俳優は、

その「読めそうで読めない空気」を自然に持っています。

ガリレオの湯川学では論理を武器にしていました。

一方、神尾武史では、

論理よりも人間心理を操る存在になります。

同じ福山雅治でも、

まったく異なる知性を演じることになるでしょう。


映画だからこそ描ける「マジック」の世界

小説では、

トリックは文章で描かれます。

しかし映画では、

観客自身が騙されます。

カメラ、編集、照明、視線誘導

これらすべてがマジックになります。

つまり映画そのものが、

一つの巨大なイリュージョンなのです。

観客は主人公と一緒に事件を追っているつもりで、

実は監督によって視線を誘導されています。

映画という表現だからこそ、

『ブラック・ショーマン』のテーマは最も美しく表現できるのではないでしょうか。


東野圭吾が一貫して描いてきたもの

東野圭吾作品には、

悪人がほとんど登場しません。

だから最後には、

犯人探しでは終わりません。

わかりやすい悪者、明らかな犯罪者がいないからこそ、「もし自分だったら」という問いが残ります。

『ブラック・ショーマン』もまた、

嘘を裁く物語ではありません。

なぜ、その嘘が必要だったのか。

そこに目を向けた瞬間、

ミステリーは人間ドラマへと姿を変えます。


むすび|私たちは毎日、自分だけの舞台で生きている

マジシャンは、観客を騙しているわけではありません。

驚きや感動という体験を届けるために、あえて
「見せないもの」を作っています。

私たちもまた、社会の中でさまざまな役割を演じています。

職場での自分

家族の前の自分

友人といるときの自分等。

どれも偽りではなく、その場に応じた「もう一人の自分」です。

だから『ブラック・ショーマン』は、「嘘を暴く物語」ではなく、「人はなぜ嘘を必要とするのか」を
問いかける物語なのだと思います。

そして東野圭吾が最後に伝えたかったのは、おそらく一つの真実です。

人は、事実によって生きているのではない。

自分が信じたい物語によって、生きている。

だからこそ、人を理解するとは、真実を暴くことではなく、その人がどんな物語を抱えて生きてきたのか、その歴史や背景、やむにやまれぬ固有の事情を知ろうとすることなのです。

それこそが、『ブラック・ショーマン』という作品が見せてくれた、最も鮮やかなマジックだったのではないでしょうか。

さいごに

私は本作を映画館で観ました。まさか、こんなに早く東野圭吾さんが亡くなられるなんて想像していませんでした。
1人で106作品も書かれたんですね。
その多くがドラマや映画になっています。

まだ読めていない作品も多くあります。
手紙と聖女の救済の2冊を新たに購入し、読ませていただこうと思っています。

まだまだ多くの作品を書いていただきたかったです。
本当に偉大なる才能が失われてしまったことを残念に思います。

世界から愛された東野さん。
どうか安らかにお休みください。

あなたがまいた種は多くの芽となって、
必ずや次世代に受け継がれていくに違いありません。

あなたが紡ぎ出した緻密で切ない物語の数々は、時代を超えてこれからも人々の心を揺さぶり、優しさと勇気を与え続けてくれます。

数々の感動とワクワクを、本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。





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