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プーマ「クライド」の歴史。NBA初の選手シグネチャー・スエードは、ブロンクスの夜が「最初のヒップホップ・シューズ」に育てた#PR


1. Kedsから続く歴史は、ついに「プーマ クライド」へ

我々はこれまで、Spring Courtのペパーミントとゴム工場、ジャックパーセルのスマイル、リーボックのポンプフューリーとギプス、L.L.Beanの絶望と顧客至上主義、そしてアディダスとプーマを分けた二つの靴哲学。実に多くのスニーカーの系譜を辿り、足元から歴史を読み解いてきた。

今回主役は、プーマ「クライド(Clyde)」である。

我々40代にとって、クライドはスエード・スニーカーの定番、〝Bボーイの足元〟という記憶と結びついた一足だろう。サブカルチャーのアイコンであり、ストリート・ダンスのリズムを思い出させる靴である。

しかし、その本籍は西海岸でもブロンクスでもない。ルーツは1973年のニューヨーク・ニックス。〝Cool Joe〟と呼ばれた一人のスーパースターが「コートで止まりたい」という切実な要求から特注させた、〝NBA史上初の選手シグネチャー・シューズ〟だった。

2. 1948年バイエルン。兄弟喧嘩から生まれた「ピューマ」

1948年、ドイツ・バイエルン州ヘルツォーゲナウラハ。一つの靴工房が、決定的に分裂した。

ダスラー兄弟商会を共同経営していた弟アドルフ(アディ)・ダスラーと、兄ルドルフ・ダスラー。二人は第二次大戦中の確執を引きずり、戦後ついに袂を分かつ。弟アディが設立したのが「アディダス」、兄ルドルフが立ち上げたのが「プーマ(Puma)」である。詳細は『血みどろの抗争という嘘』に譲るが、二つのドイツ製スポーツ靴ブランドは、同じ町の小さな川の両岸で、それぞれの哲学を競うことになった。

プーマが選んだのは〝精悍さ〟と〝速さ〟だった。ロゴの跳ぶピューマは、敏捷な野生動物そのもの。陸上競技と格闘技を主戦場に、軽量で機能的な靴を量産していく。

転機は1968年、メキシコシティ・オリンピック。プーマはこの時、新作のローカット〝バスケット型〟スエード・シューズを発表する。当初の名前は「Crack(クラック)」、まもなく素材名そのものを冠した「Suede(スエード)」へ改名された。

同年、男子陸上200メートル走の表彰台。優勝者トミー・スミスと銅メダルのジョン・カーロスは、靴を脱いで黒い靴下のまま現れ、革手袋の拳を高く突き上げた。世にいう〝ブラックパワー・サリュート〟。彼らが表彰台の手前まで履いていたのは、プーマのSuedeだった(※当時の映像と複数の写真資料に残されている象徴的なエピソードである)。

スエード・スニーカーが、人種と政治の歴史と結びついた瞬間である。

3. NBAの王様が望んだ「ワイドソール」と滑り止めの科学

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1971年、ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデン。

ニックスのポイント・ガード、ウォルト・フレイジャーは、コート上である悩みを抱えていた。当時のバスケット・シューズ、とりわけコンバースやKedsのバルカナイズ製キャンバスは、急停止=ストップ&ゴーの動作で滑りやすい。彼はもっと〝足の幅に合った、滑らない靴〟が欲しかった。

そこでプーマが応えた。〝ヘリンボーン(杉綾)パターン〟の太く深い溝を刻んだ加硫ゴム(バルカナイズド・ラバー)のアウトソール、足幅を逃さないワイド・ラスト、そして厚手のスエード・アッパー。試作はSuedeの形状を保ちつつ、ソールを大胆に改良した別物に仕上がった。

これが1973年に〝Clyde〟として正式商品化される。NBAの現役スター選手の異名をそのまま冠した、〝商業的な意味で世界初のシグネチャー・バスケットシューズ〟である。

技術的な核心は三つに整理できる。

第一に、加硫ゴムの深い溝。エナメル仕上げの木のコートでも止まれる、いわば〝グリップの科学〟。第二に、ミッドソールの衝撃緩衝。第三に、足を包みつつ通気を確保するスエード上半部。後に〝ローカット・バスケットシューズ〟という新カテゴリを切り開く設計だった。

クライドは1973年シーズン、ニックスの2度目のNBAファイナル制覇に貢献する。コートを支配する〝Cool Joe〟の足元から、プーマは〝ジャイアント・キラー〟の物語を手に入れた。

4. ブロンクスの夜が選んだ「最初のヒップホップ・シューズ」

物語の真の逆説は、ここから始まる。

ウォルト・フレイジャー、通称〝Clyde(クライド)〟。この異名は、1967年の映画『俺たちに明日はない』に登場する伝説の銀行強盗クライド・バロウから取られた、と長く語られている(※公式記録ではないが、メディアと本人発言の中で広く定説となっている)。フレイジャーがコート外でフェドラ帽・ロングコート・ミンクの毛皮を好んで身につけていたため、〝あの格好はクライド・バロウだ〟と仲間に冷やかされたのが起源とされる。

つまりクライドは、コートでは王、コート外ではマフィア風スタイル・アイコン。〝Cool Joe〟という呼び名どおり、彼のクローゼットは1970年代ニューヨークの〝粋〟そのものだった。

そして、彼の足元のスエードは、想定外の場所で発見される。

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1970年代後半のサウスブロンクス。ジャマイカ系移民のクール・ハークが回したターンテーブルから、ブレイクビーツが生まれた。集まったB-Boyたちは、コンクリートの上で回転し、フリーズし、トップロックを踏んだ。床と擦れて減らない靴、足首が自由に動くローカット、すぐに〝色〟がわかる派手なスエード——彼らがその要件にぴったり当てはめたのが、プーマSuedeとClydeだった。

特に印象的なのは、グランドマスター・フラッシュ周辺のクルーやロックステディ・クルーが、〝ファット・レース(極太シューレース)〟を太いまま結ばずに垂らしたスタイル。靴紐の通し方ひとつが、サブカルチャーの記号となった。

ヒップホップ4大要素——MC、DJ、グラフィティ、ブレイキン——そのすべての足元にプーマSuede/Clydeがあった、と語られる(※当時のフィルムや写真でも複数確認できるが、唯一の制服だったわけではない)。1986年にアディダス・スーパースターがRun-DMCの『My Adidas』で爆発するより10年前に、ヒップホップは静かにプーマを履いていたのである。

NBA王者の特注靴は、ブロンクスの夜に発見され、ストリート・カルチャーの最初の制服になった。これがクライドの本当の物語である。

5. クライドを履け

40代の男がクライドを履くとき。

足元にはニューヨーク・ニックスの汗と、サウスブロンクスの真夜中のターンテーブルの低音が宿っている。NBAスター選手の「コートで止まりたい」という切実な要求から生まれ、ブレイクダンサーの「床で踊りたい」という別の要求に発見された、二度の発明を経たスエード・スニーカーである。

奇遇にも、同じ1970年代のNBAコートでは、PRO-Kedsもまた「ロイヤル」と「ロイヤル・プラス」で確かな足跡を残していた。タイニー・アーチボルドが履いたPRO-Kedsと、ウォルト・フレイジャーが履いたクライド——同じ時代を別ブランドとして並走した、好敵手の二足である。

我々はただスニーカーを履くのではない。1973年のマディソン・スクエア・ガーデンで〝Cool Joe〟が踏みしめた一歩と、ブロンクスのストリートで誕生したヒップホップの始まりを、足元に纏うのだ。

クライドを履け。それは〝NBAの王〟の証であり、〝ストリートの最初の制服〟である。


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