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【行雲流水】「人民」は多中心でいられるか──MAGA、左派ポピュリズム論、マルチチュード論


前回の終わりに、こういう問いが残りました。一度できあがった「われわれ」を、閉じたまま固定しないで、もう一度ばらけさせることはできるのか。
今回はその手がかりを、ハート=ネグリのマルチチュード論に探します。2000年代に一世を風靡して、その後あまり聞かなくなった理論です。ただ、話は思わぬところから始まります。前回まで見てきたMAGAという右派の運動の土台が、実はこの左派の理論によく似ている、というところから。


右派の運動が、左派の理論に似ている

富良野:前に、MAGAの下のほうはかなりバラバラだという話をしましたよね。地方の活動家、宗教保守、反移民の運動、銃の権利団体、ポッドキャスター、暗号資産まわりのテック右派、各州の共和党組織。

Phrona: 中に矛盾もありましたね。自由市場を信じる人と保護主義の人が同居している、とか。

富良野: あの状態、実は左派の政治理論でずっと語られてきた形にかなり近いんです。ハートとネグリのマルチチュードという概念があって。

Phrona: 名前は聞いたことがあります。群衆、みたいな意味ですか。

富良野: 群衆とは少し違って、異質な単独者が、差異を失わないまま一緒に行為できる政治的主体、という定義です。多様なまま協働する、というところが肝で。

Phrona: それって、まさに今の話ですよね。バラバラなまま、それぞれの場所で言説とか戦術とか敵の像を作っている。

富良野: 僕もそう思ったんです。MAGAの基層は、かなりマルチチュード的なんですよ。

Phrona: でも、なんだか奇妙な話ですね。左派が理想として描いてきた形を、右派の運動が実際にやっている。

富良野: ただ、そこから先が違うんです。MAGAでは、その多中心的に作られたものが最終的に、真正な人民とか、腐敗したエリートとか、国家の敵とか、本物のMAGAという区分に組み込まれていく。

Phrona: それを決めるのが、一人でしたね。

富良野: そうです。ハート=ネグリの側から見れば、これはマルチチュードの分散的な生産能力が、一人の人格によって捕まえられていく過程だ、ということになります。

Phrona: 捕まえられる。

富良野: 捕捉される、という言い方をします。作る力は下にあるのに、その意味を確定する権限が上に吸い上げられていく。

ポイント解説

マルチチュードと人民は、どちらも古典的な「あらかじめ統一された労働者階級」という想定からは離れている。分かれるのは、異質な主体を政治的に一つへまとめる必要があるかどうかである。

ハート=ネグリのマルチチュードは、異質な単独者が差異を保ったまま共同で行為できる主体を指す。統合の原理は生産と協働から生じる共有物にあり、代表は多様性を従属させる危険として警戒される。組織の理想像は分散的なネットワークであり、基本的な危険は分散と短命と決定不能にある。

これに対しラクラウとムフの人民は、異質な要求を等価性の連鎖で結び、共通の敵対線と象徴によって構築される集合的意思である。統合の原理は言説と情念と敵対線にあり、代表は集合的主体を作るために不可欠とされる。組織の理想像は連合や政党や政府であり、基本的な危険は指導者への集中と人民表象の独占にある。

MAGAは、この二つが同じ運動の中で同時に作動している事例として読める。下部の生産はマルチチュード的でありながら、その集約はポピュリスト的である。二つの理論は競合しているだけではなく、異なる層を説明している。

なぜ看板が下ろされたのか

Phrona: ひとつ聞きたいんですけど、その理論、今もよく使われているんですか。私はあまり見かけない気がします。

富良野: 単独の看板としては、ほとんど語られなくなりました。2000年代は左派政治理論の中心にあったんですけど。

Phrona: 何があったんでしょう。

富良野: 大きく三つあると思っています。まず、協働しているからといって、共通の政治目的を持つとは限らなかったこと。ラクラウの批判もそこに集中していて、異質な要求がなぜ一つの行為に結びつくのか、誰が争点を選ぶのか、説明できていないと言われました。

Phrona: 繋がっていることと、まとまることは別、という話ですね。同じ場所で働いていても利害は対立するし、水平的だと言われる運動の中にも、非公式の中心とか、影響力の強い人とか、資源の格差が生まれる。

富良野: 次に、実際の運動が持たなかったこと。反グローバル化運動、アラブの春、オキュパイ、インディグナードス。参加を可視化することには成功したし、新しい実践も生まれた。でも組織として続かないし、選挙や政策に翻訳できないし、国家権力を取った側に成果を回収されてしまう。

Phrona: それは提唱者たちも認めてますよね。運動が短命で、成果を逆転されたと後から振り返っています。

富良野: 最後に、国家が予想以上に戻ってきたこと。米中の対立、経済安全保障、国境管理、産業政策、感染症への対応、戦争。グローバルな帝国に対してグローバルなマルチチュードが対抗する、という左右対称の図式だけでは、国家を通じた保護とか再分配とか民主的な統制を説明しにくくなりました。

Phrona: ただ、消えたわけではないんですよね。

富良野: 消えてはいないです。形を変えて、いくつかの議論の中に残っています。

ポイント解説

マルチチュード論は、看板概念としての求心力を失った後、少なくとも三つの方向へ分解して継承されている。

ひとつは、共有物と社会的な協働をめぐる理論である。市場でも国家でもない制度をどう構想するか、という問題設定はここに引き継がれている。もうひとつは、水平か垂直かという二択を超える組織論である。そしてもうひとつが、多様な闘争を同一化せずに戦略的に接続する議論である。

現在も強い部分と弱い部分は、はっきり分かれる。強いのは、政治的主体を単一の階級や固定的な属性へ還元しないこと、ケアや知識や情報や感情を含む社会的な生産を捉えること、運動の多中心性と越境性を説明すること、代表による主体の収奪や指導者への集中を警戒することである。

弱いのは、異質な要求の優先順位をどう決めるか、戦略的な一貫性をどう作るか、運動をどう持続させるか、資源の格差や非公式の権力にどう対処するか、国家権力や選挙や政策へどう翻訳するか、失敗したときの責任と修正をどうするかである。この弱さは、そのままラクラウとムフの側の強みと重なっている。

言い出した本人たちが、考えを変えていた

富良野: 面白いことに、ハートとネグリ自身も、初期の水平主義のままではいないんです。

Phrona: どう変わったんですか。

富良野: 2017年の『Assembly』という本で、既存の秩序から退出するだけでは足りない、権力を別の形で獲得して、制度を作って、指導や戦略を考える必要がある、と認めました。

Phrona: 指導者が要る、と言い出したということですか。

富良野: ただ、普通の政党とは逆の形なんです。長期の戦略はマルチチュードが決めて、指導者は短期の戦術を執行する。しかも必要に応じて任命したり解任したりできる。

Phrona: 上下をひっくり返している。

富良野: そうです。ムフはこれを、純粋な退出戦略からの重要な後退として評価しつつ、それでもマルチチュードの自己組織化を楽観視しすぎていると批判しています。

Phrona: ほかにも変化はありますか。

富良野: 2019年に、古い統一的な労働者階級から出発して、マルチチュードを通じてジェンダーや人種や移民やケアや無償労働といった差異を組み込んで、その先に多元的で交差的な新しい階級を作る、という三段の図式を出しています。

Phrona: マルチチュードが、最終形ではなく途中の段階になっている。

富良野: 媒介として捉え直されている、という感じですね。さらに近年、マイケル・ハートは戦略的多元性という言い方をしていて、多様な運動がただ並んでいるだけでは足りない、支配構造の相互の繋がりを掴んで、複数の闘争を一つの組織的な計画へ接続する必要がある、と論じています。

Phrona: それって、ムフたちの言っていることにかなり近くありませんか。

富良野: 近いです。接合という、ラクラウとムフがずっと使ってきた語まで使われている。

Phrona: じゃあ、ムフの側は変わっていないんですか。

富良野: ムフも動いています。2022年の議論では、労働、反人種差別、フェミニズム、民主化、社会保障、気候変動、生存環境の保護を結ぶ緑の民主革命という戦略へ、左派ポピュリズムを発展させています。人民対寡頭支配層という構図は保ちながら、人民の中身を多元的な連合として作ろうとしている。

Phrona: 両側から歩み寄っているんですね。じゃあ、もう対立はないんですか。

富良野: そこは残っていると思います。ムフが譲っていない点がいくつかあって。共通の政治的な意思は自然には生まれない。代表は主体を歪めるだけでなく、そもそも作り出す。対立や排除を伴わない共有物は存在しない。国家や代表制度から退出するだけでは社会は変わらない。何らかのわれわれと境界が必要である。

Phrona: 組織の作り方では近づいたけれど、根っこの前提はまだ別、ということですか。

富良野: 僕の理解ではそうです。接近しているのは組織論の水準で、政治をどう捉えるかという水準では距離が残っている。

ポイント解説

現在の議論は、マルチチュードか人民かという二者択一から、両者をどう接合するかという問題へ移っている。

その中で有力になっているのが、純粋な水平主義でも単一政党への集中でもない中間的な立場である。ロドリゴ・ヌネスは、運動、政党、労働組合、自治体、協同組合、オンラインのネットワークを一つの組織生態系として捉え、組織は水平か垂直かのどちらかではなく、機能や局面ごとに集中と分散を組み合わせるべきだと論じている。共有物を社会の内部に作る実践と、自治体や国家制度への介入と、より広い対抗的なヘゲモニー形成を接続しようとする議論も進んでおり、協同組合の研究でも、社会的な実践だけでは足りず、より広い運動へ接続する必要があると結論づけられている。

したがって現在の方向は、マルチチュードの社会的で分散的な生産力を、ヘゲモニーの形成と制度の変革へどう接続するか、という一点に集まっている。

ずっと開いたままでは、何も決まらない

Phrona: ここまで聞いて、私、少し警戒していることがあります。

富良野: 何でしょう。

Phrona: 話の流れだと、MAGAは閉じているから悪くて、開いているほうがいい、という結論になりそうですよね。でも、それでいいんでしょうか。

富良野: そこは僕も同じ引っかかりを持っています。人民をずっとマルチチュードへ開き続けたら、たぶん何も決まらない。

Phrona: 共通の方針が作れないし、誰も責任を負わないし、組織が続かないし、緊急のときに動けない。

富良野: 内部の対立で連合そのものが解体することもあるし、組織された少数の勢力に乗っ取られることもある。

Phrona: 逆に言うと、MAGAの強さって、そこを人格的な中心で解決していることなんですよね。理屈が一貫していなくても、あの人がこう言った、で暫定的に決着がつく。

富良野: つくんです。だから行動としての一貫性は確保できる。

Phrona: じゃあ、目指すのは常に開いている状態ではなくて。

富良野: 一時的に閉じて決められるけれど、一定の条件でまた開ける状態、だと思います。可逆的であること。

Phrona: 閉じること自体が悪いわけじゃなくて、閉じたまま戻れないことが問題なんですね。

富良野: 僕はそう整理するのがいちばん納得できます。

ポイント解説

MAGAが閉じているのは、政策の内容ではない。むしろ政策は柔軟に動く。閉じているのは、より深い三つの水準である。

ひとつは、人民を代表する権利である。トランプが人民を代表する一人の政治家なのではなく、トランプへの態度そのものが誰を人民と見なすかの基準になる。代表が人民から委任されるのではなく、代表が誰を人民と認めるかを決める構造になっている。

もうひとつは、失敗を認定する権利である。政策が失敗したのか、選挙に負けたのか、予測が外れたのかを、運動の内部の独立した基準で判定しにくい。否定的な結果は、妨害、虚偽、裏切り、不正、外部の介入として再解釈できる。ここでは経験が物語を修正するのではなく、物語が経験の意味を決めてしまう。

そしてもうひとつが、反対者の正統性である。反MAGAの市民も同じ政治社会を構成する正統な成員である、と認めることは、この運動の自己定義そのものを揺るがす。したがってMAGAを再び開くことは、党内の多様化では済まない。

集めたあとに、戻る道があるか

富良野: ここまでの話を、僕なりにまとめてみると、MAGAの回り方って、こうだと思うんです。分散した不満や要求があって、運動の中で言説が競い合って、トランプがそこから選んで公認して、MAGAの人民として統合されて、選挙や統治や制度化へ進んで、失敗すれば外の敵や裏切りのせいにされて、また人民のところへ戻る。

Phrona: 戻る先が、人民のところなんですね。要求のところではなく。

富良野: そこが肝だと思っていて。もう一方の形はこうなるはずなんです。複数の要求と集団があって、暫定的な共通目的にまとめて、期限つきで代表に委任して、決定して実行して、結果を検証して異議を申し立てて、要求や連合や代表そのものを組み替えて、また複数の要求へ戻る。

Phrona: 違いは、分散か集中かではなくて。

富良野: 集中したあとに、戻る経路があるかどうかです。

Phrona: じゃあ、その戻る経路を作るには、具体的に何が要るんでしょう。

富良野: 多様な要求を共通の目的へ集約することは、まずやる。一定の期間は決定に拘束力を持たせる。指導者や代表に実行の権限も与える。ここまではMAGAと同じでいいと思うんです。

Phrona: 分かれるのはその先ですね。

富良野: 象徴として運動の顔になることと、最終的な正統性を裁定することを、分けておく。反対意見を、負けた後も記録して組織できるようにしておく。政策の結果によって、委任した中身を審査し直せるようにする。連合から抜けて別の連合を作ることを可能にしておく。指導者の交代が、運動の崩壊や裏切りとして扱われないようにする。

Phrona: 選挙に負けても、自分たち以外の人民がいることを認める、というのも入りますか。

富良野: それがいちばん重い項目かもしれません。

ポイント解説

MAGAとの本当の対照は、強いMAGAと弱い水平主義という比較ではない。問うべきなのは、MAGAが一人の人格によって達成した統合と決定と適応を、正統性の独占なしに実現できるか、という点である。

したがって、人民を形成して再びマルチチュードへ開く構造とは、MAGAの単純な反対物ではない。MAGAが一人の指導者に集約した選択、統合、決定、修正という機能を、複数の制度へ分解し、それでも集合的に行為する能力を失わないよう組み直す試みである。

現時点で妥当な整理は、マルチチュードを政治主体の基層に置き、左派ポピュリズムを暫定的な集約機構として位置づけたうえで、集約機構が基層を所有しないようにする、という形になる。必要なのはマルチチュードか人民かという選択ではない。人民を形成できるが、形成された人民を再びマルチチュードへ開くこともできる政治構造である。

理論から制度設計へ

Phrona: これまでの話が、最後につながった気がします。

富良野: つながりましたね。まず、MAGAという運動がどういう仕組みで動いているかを見ました。多くの場所で作られて、一人が決める。

Phrona:次に、それをムフの理論と重ねて、人民を作る力と、作られた人民が民主主義を壊さずにいる力は別の達成だ、というところまで来ました。

富良野: そして今日は、その別の達成のほう、開いておく力の手がかりを探しにいった。

Phrona: 一つの理論で全部解決、という答えではありませんでしたね。

富良野: なかったです。ただ、方向ははっきりしたと思っていて。人民を作る技術と、作った人民を開く技術を、別々の理想として掲げるだけでは足りない。同じ設計の中に、最初から一緒に入れておかないといけない。

Phrona: 作るときから、開けるように作っておく。

富良野: 後から開けるようにしよう、では間に合わないんだと思います。閉じてからでは、閉じた人がその鍵を持っているので。



この記事は、Projeteam, Inc. ウェブサイトで先行公開された

閉じない「われわれ」をどうつなぐか──マルチチュードとポピュリズムが交わる場所

を素材として対話形式で再構成したものです。

元記事では、理論史の整理から入り、四つの層の分離を経て、MAGAの閉鎖性の所在と可逆的な人民形成へ進みます。3あわせてご覧いただけると、議論がより立体的に見えてくるかもしれません。



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