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【知新察来】物語や文化だけでは希望は取り戻せない──警告または自己成就的予言としてのディストピア


◆今回のピックアップ記事

Samuel McKee, "Our Culture Needs to Defeat Dystopia — A New Renaissance Is Here, and It Needs Storytellers" (Institute of Art and Ideas, 2026年6月17日)

  • 概要:科学技術はすでに大きな可能性を開いているにもかかわらず、文化はディストピア的な未来像に支配されている。筆者は、この状況を打開するには科学者だけでなく作家・映画制作者・教育者が未来を語り直す新しいルネサンスが必要だと論じる。



「未来はもう明るくならない」。そう感じているのは、今の若い世代に限った話ではないかもしれません。AIも遺伝子工学も宇宙開発も、それぞれ着実に進んでいるはずなのに、なぜか希望のほうだけがすり減っていく。イギリスの科学哲学者が書いた一本の記事は、この違和感の正体を「文化が未来を物語る力を失ったこと」だと言い切ります。科学の失敗ではなく、人文学の側の失敗だ、という診断です。

富良野とPhronaは、この診断にいったん頷きながら読み進めますが、途中で何かが引っかかったようです。物語さえ取り戻せば、本当に希望は戻るのか。それとも、物語の外側にもっと厄介な何かが隠れているのか。制度への不信、ディストピアが警告から予言に変わる瞬間、そして「希望」という言葉の意味そのものを、二人はゆっくり組み立て直していきます。


フューチャリズムって、そもそも何なんですか

富良野: これ、科学哲学者が書いた記事なんですけど、今の若い世代がやたら未来に悲観的なのは、科学のせいじゃなくて人文学のせいだ、って言うんです。

Phrona: 人文学のせい、というのはずいぶん挑発的な言い方ですね。でも言いたいことはわかる気がします。

富良野: その人はフューチャリズムっていう立場を掲げてるんですよ。単なる未来予測じゃなくて、科学技術が実現できる最高の未来を思い描いて、それに向かって働きかける態度のことらしいです。

Phrona: つまり、こうなってほしいという方向を自分で決めて、そこへ向けて発信していく人のことですよね。予言者というより、扇動者に近い。

富良野: 扇動者は言い過ぎな気もするけど、近いです。記事の中では、ホーキングとかセーガンみたいな科学コミュニケーターの名前も挙がってて、あとはハラリとかピンカーとかマーティン・リースとか。

Phrona: その並びはよく見ますね。でも今回の記事が本当に言いたいのは、そこじゃなくて、若い世代の話だったんじゃないですか。

富良野: そうそう。筆者いわく、Z世代とかα世代は、記録が残ってる中でもっとも不安が強くて、メンタルヘルスも悪い世代らしいんです。経済危機とか環境の悪化とか、親世代とはまったく違う景色を見て育ってきたから。

Phrona: オバマの、今が一番いい時代だっていう発言も引かれてましたね。今はそれすら信じられない人が増えてる、って。

富良野: それで筆者は、過去にもこういう楽観の波があったはずだって話を持ってくるんです。アポロ計画のときとか。月に人が降りたことで、シリコンバレー世代が生まれたっていう。

Phrona: 分子生物学の話もありましたよね。クローンとか遺伝子配列とかPCRとか。あのあたりからヒトゲノム計画につながって、いまの生命科学ブームがある、と。

富良野: はい。だから筆者にとって、科学技術が停滞してるわけじゃないんです。むしろ止まってない。止まってるのは、それを社会に向けて語る力のほう。

Phrona: ここまではわりと素直に読めます。科学が進んでも、それを実感できる言葉が届いていないっていうのは、たしかにありそうな話ですね。

ポイント解説

フューチャリズムという言葉は、もともと二十世紀初頭のイタリア未来派という芸術運動の名だった。速度と機械と前進を礼賛する運動として出発したが、第一次世界大戦を経てその像は傷つき、二度目の波はむしろ機械の時代への懐疑を帯びていく。McKeeがここで使うフューチャリズムは、その芸術運動の残響を引き継ぎながら、意味を科学的楽観主義へと寄せた用法である。

アポロ計画と分子生物学革命を並べて置いたのは、この記事の勘所だ。月面着陸は単なる宇宙開発の成果ではなく、若者をSTEM教育へ大量に押し出し、後のシリコンバレー世代を形作った、と筆者は見る。同じように、クローニングや遺伝子配列解析といった分子生物学の発見も、ヒトゲノム計画へとつながる楽観の波を生んだ。科学の歴史はすでに何度も、世界は変えられるという感覚を生み出してきた実績を持つ、というのが筆者の見立てである。

だとすれば、問いは自然にこう変わる。同じ規模の技術的達成がいまも起きているのだとしたら、なぜその感覚だけが社会全体に広がらなくなったのか。この問いへの答えとして筆者が用意するのが、後半で語られる三つの理由だ。科学コミュニケーションの不足、メディアのディストピア偏重、そしてパンデミック後の不信である。

楽観がなぜ人文学に届かないのか

富良野: で、続きなんですけど。楽観が科学の外に広がらない理由を筆者は三つ挙げてます。まず、科学コミュニケーターが足りない。次に、ニュースやエンタメがディストピアだらけ。最後に、パンデミックのあとの不信感。

Phrona: 三つ目、地味に大きい気がします。専門家への不信って、コロナのあとかなり残ってますよね。

富良野: それで筆者は、この楽観を体現してる書き手として三人挙げるんです。ハラリ、ピンカー、マーティン・リース。三人とも人類学とか心理学とか宇宙物理学とか、専門はバラバラなんですけど。

Phrona: ハラリは人類の来歴を大きく描く人ですよね。生き延びるために役立った性質が、これからは足を引っ張るかもしれない、みたいな話をしてた記憶があります。

富良野: そうです。ピンカーのほうは統計を武器にする人で、人類は暴力を減らしてきたっていう主張を繰り返してる。新しい啓蒙が必要だ、って言い方をするんですよ。

Phrona: リースは一番、科学そのものを語る人という位置づけでしたね。楽観と慎重さを両方持っていて、悲観には落ちない。

富良野: で、ここで筆者は宗教の話に飛ぶんです。王立協会ができた頃は、部屋にいたのはキリスト教徒ばかりだった、って。

Phrona: それは意外でした。今の科学的楽観主義者って、たいていヒューマニストのイメージがあるので。

富良野: 昔の科学者たちは、自然には秩序があって人間はそれを理解できると信じてた。それは神が人間を自分の姿に似せて作った、という信念とセットだったらしいです。病気をなくす、生活を良くする、っていう動機は宗教的な使命感でもあった。

Phrona: それが今は終末論的な宗教のほうが目立つようになって、どうせ世界は終わるんだから直さなくていい、という態度に変わった、と。

富良野: そう。それで最後にアルテミス2号の話が出てきます。今年の四月に半世紀ぶりに月へ行った話ですね。あの瞬間、みんな夜空を見上げて、人類が二十万マイル先にいることを実感した、って。

Phrona: あの打ち上げ、私も少し見ました。SNSでも珍しく素直に感動してる投稿が多かった気がします。

富良野: で、筆者の結論はこうです。科学技術が開いた可能性を、作家や映画制作者や教育者が引き取って、人文学へ翻訳しなければいけない。新しいルネサンスが必要で、その担い手は物語る人たちだ、と。

Phrona: きれいに着地しましたね。でも、正直ちょっと引っかかってます。

富良野: どこがですか。

Phrona: 物語を取り戻せば希望も戻る、っていう順番。本当にそうなのかな、って。

ポイント解説

ハラリ、ピンカー、リースという三人の並びは、単なる人選ではない。それぞれが歴史学、心理学、宇宙物理学という異なる足場から、同じ結論——人類には進歩する力があるという結論に、別々の経路で辿り着いていることを示すための並びだ。

もうひとつ興味深いのは、宗教の扱いである。筆者は、初期近代の科学者たちの多くが敬虔なキリスト教徒だったことを指摘する(ベーコンやボイルの名がここで挙がる)。自然の秩序を理解しようとする態度と、神への信仰は矛盾しなかった。むしろ、病をなくし生活を改善するという使命感は、宗教的な動機そのものだったと筆者は書く。それがいまや、終末論的な宗教観に取って代わられ、その空白をヒューマニストが埋めている、という整理になっている。

アルテミス2号の描写は、この記事全体の中でもっとも具体的な希望の実例として機能している。人々が夜空を見上げるという行為そのものに、社会を一時的に統合する力がある、という見立てだ。この具体例をもって、筆者は結論——科学の可能性を人文学へ翻訳する新しいルネサンスが必要だ、という結論へ着地する。ここまでが、McKeeの論旨のほぼ全体である。

物語を取り戻せば、希望は戻るんでしょうか

富良野: 引っかかってる、っていうのは具体的にはどのあたりですか。

Phrona: 筆者は、科学は進んでるのに文化がそれを語れていない、っていう順番で話を組み立ててますよね。でも、文化が語れなくなったのって、単に作家や映画制作者の想像力が枯れたから、なんでしょうか。

富良野: ああ、なるほど。人文学の側の怠慢だ、っていう前提そのものを疑ってるわけですね。

Phrona: はい。もし私が、AIやゲノム編集の話を明るく語りましょうって言われても、正直、素直には頷けない気がするんです。だって、その恩恵が誰に届くのかがまだ見えてないから。

富良野: それはわかります。個別化医療だって、実現しても保険が効かなければ意味ないですし。

Phrona: 宇宙開発も同じですよね。富良野さんが夜空を見上げて感動しても、それが結局、億万長者の道楽に見えてしまう瞬間もあると思うんです。

富良野: つまり技術の可能性そのものは否定しないけど、それが誰のものになるかが決まらないと、物語だけ聞かされても響かない、と。

Phrona: そうです。物語がなくていいとは思わないんですよ。物語は絶対に要る。でも、物語だけあっても、それを自分に関係のある未来だと信じられなければ、結局は広告みたいに聞こえてしまう。

富良野: ということは、希望が戻るための条件は、物語プラス何か、ってことになりますね。

Phrona: はい。物語と、その未来に自分も参加できるっていう制度への信頼。両方揃って、はじめて希望になるんじゃないでしょうか。

富良野: 片方だけでは成立しない、と。

Phrona: はい。物語だけで足りるなら、宣伝がうまい国や企業がいちばん希望を作れることになってしまいます。それはちょっと違う気がして。

ポイント解説

Phronaが指摘しているのは、McKeeの議論に潜む前提そのものである。筆者は、科学技術の可能性と、それを語る文化的能力を、別々の変数として扱っている。だから処方箋も「語り手を増やす」という一点に絞られる。

しかし、誰の未来かという問いを一度立ててみると、この前提は揺らぐ。AIが生産性を高めても、その利益が一部の企業に集中するなら、それは希望ではなく不安の材料になる。個別化医療が発展しても、届く先が富裕層に限られるなら、進歩というより新しい格差の形にすぎない。宇宙開発が進んでも、それが特定の資産家の逃避先に見えるなら、公共的な未来にはならない。

したがって、物語は必要条件ではあっても十分条件ではない。ある未来像を人々が自分に関係のあるものとして信じられるかどうかは、配分や参加や統治といった、物語の外側にある制度的な条件に依存している。本稿の見立てでは、希望とは物語だけで成立するものでもなければ、制度だけで成立するものでもない。物語と、その物語を自分ごととして受け取れるだけの制度的信頼が組み合わさったとき、はじめて希望と呼べるものになる。

ディストピアって、本当にただの悲観なんでしょうか

富良野: ここまでの話でいくと、ディストピア的な物語の扱い方も変わってきますよね。筆者はディストピアを、単純に悪者扱いしてる感じがします。

Phrona: でも、ディストピアって元はもっと役に立つものだった気がするんです。監視社会とか全体主義とか、こうなったら危ないっていう警告として機能してましたよね。

富良野: 『1984』とか『すばらしい新世界』とか、まさにそれですね。こうなるぞ、じゃなくて、こうならないために気をつけろ、っていうメッセージだった。

Phrona: それがいつの間にか、どうせこうなる、っていう諦めに変わってしまってる気がするんです。

富良野: 変わる条件があるとしたら、何なんでしょうね。

Phrona: たぶん、制度への不信じゃないでしょうか。政治も企業もどうせ変わらない、って思ってしまうと、警告が警告として機能しなくなる。

富良野: ああ、それはわかる気がします。僕らの業界でも、どうせ現実的にはこれしかできない、っていう言い方、よく聞くんですよね。でもその現実的っていう言葉、だいたい理想を諦める言い訳に使われてる。

Phrona: それ、まさにディストピアが自己成就していく回路な気がします。長期的には必要でも、短期的に損をするならやらない。みんながそう考えたら、本当に長期の投資がされなくなって、制度がもっと壊れていく。

富良野: GDPとかクリック率とか、そういう指標を最大化することが目的になっちゃうと、人間の尊厳とか信頼みたいな、測りにくいものが後回しになるパターンもありますよね。

Phrona: はい。それも功利主義のはずなのに、いつの間にか測れるものだけの最大化にすり替わってる。

富良野: つまり、ディストピアが予言に変わるのは、物語の問題っていうより、制度不信と短期主義がセットになったときなんですね。

Phrona: その組み合わせがあると、暗い物語のほうが現実的に見えてしまう。明るい物語のほうが、むしろ嘘くさく聞こえてしまうんだと思います。

ポイント解説

ディストピアという形式は、本来、危険を回避するための警告装置だった。監視社会、全体主義、技術による人間の手段化。これらを極端な形で描くことで、このまま進めば危ないという信号を社会に送ってきた。

問題は、この警告が予言に変質する瞬間にある。制度への不信が強まると、こうなってはいけないという物語は、どうせこうなるという諦念へ滑り落ちる。その滑り落ちを支えているのが、現実主義と功利主義という、本来は理想と両立するはずの二つの態度の縮小である。長期的には必要でも短期的に損をするならやらない、という態度は、現実を直視しているように見えて、実際には変革を諦める口実にすぎない。同じように、GDPやクリック率といった測定可能な指標の最大化に閉じた功利主義は、人間の尊厳や制度への信頼という測りにくいものを後景に押しやる。

この二つが結びつくと、社会は短期の自己防衛に分解していく。制度不信がディストピアを説得力あるものにし、ディストピアが短期主義を正当化し、短期主義が長期の公共投資を弱め、その弱まりがさらに制度不信を深める。ここに循環がある。ディストピアは単なる物語ではなく、人々の行動の前提になり、行動が制度を変え、やがて現実そのものを変えてしまう。だからこそ、ディストピアは自己成就する予言になりうる。

十五年先の未来って、予測できるものなんでしょうか

富良野: 先日、経済分析の専門家の人と話してて面白かったんですけど。三年から五年くらいの未来なら、ある程度分析できるらしいんです。人口動態とか金利とか、産業構造から見通しが立つ、って。

Phrona: でも十五年とか三十年になると違う、っていう話でしたよね。

富良野: はい。変数が増えるだけじゃなくて、変数同士の関係そのものが変わるらしくて。制度が変わるし、技術の意味も変わるし、何を成長と呼ぶかっていう定義まで変わってしまう。

Phrona: それって、その先の未来はもう予測じゃなくて、組み立てる対象になる、ということですよね。

富良野: そうです。誰が何を信じて、どこに資源を振り向けるか。それを決めるのが物語と、社会の中の共有された意志になる。

Phrona: ここでやっと物語の出番が来るんですね。ただの飾りじゃなくて。

富良野: はい。戦後復興でも高度成長でも、豊かになるっていう物語があったから、教育とか貯蓄とか産業政策が一つの方向にまとまったわけで。

Phrona: でも、物語が強ければいいってものでもないと思うんです。大きな物語って、危険にもなりますよね。文明の復興とか、偉大な過去を取り戻すとか。

富良野: ああ、それはまさに二十世紀の全体主義がやったことですね。強い物語で人を動員した。

Phrona: だから必要なのは、一つの巨大な物語に社会を従属させることじゃなくて、異論とか修正とか、途中で参加できる余地がある物語なんじゃないでしょうか。

富良野: 誰の未来かをちゃんと明示して、犠牲を美化しない物語、ってことですね。

Phrona: はい。それと、共有された意志っていっても、全員が同じ未来像に合意する必要はないと思うんです。むしろそれは無理だし、望ましくもない。

富良野: 対立を残したままでも、気候とか教育とかAIガバナンスみたいな基盤について、政権が変わっても投資を続けられる、っていう程度の合意ってことですかね。

Phrona: そう思います。完全な総意じゃなくて、持続できる方向づけ。そのくらいがちょうどいい強度な気がします。

ポイント解説

時間軸を長く取ると、この議論の輪郭がはっきりする。三年から五年、長くて十年ほどの未来であれば、人口動態や金利や産業構造から一定の見通しを立てることができる。しかし十五年、三十年先になると、未来は外挿の対象ではなくなる。変数が増えるだけでなく、変数同士の関係そのものが変わるからだ。制度が変わり、技術の意味が変わり、何を成長と呼ぶかという定義まで変わっていく。

この時間軸において、ナラティブは単なる作り話ではなく、長期の協調を可能にする社会的な足場として機能する。戦後復興や高度成長がそうであったように、われわれはどこへ向かうのかという物語があってはじめて、教育投資や産業政策や社会保障が一つの方向にまとまる。

ただし、強いナラティブであれば何でもよいわけではない。国家再生や文明の復興といった大きな物語は、長期協調を可能にする一方、排除や動員の道具にもなりうる(二十世紀の全体主義がその実例にほかならない)。したがって求められるのは、異論を裏切りとして扱わず、途中の修正を許し、誰の未来かを明示するナラティブである。共有意志についても同様で、全員が同じ未来像に合意する必要はない。対立を抱えたまま、いくつかの基盤領域について政権交代を超えて投資を続けられる程度の、緩やかな方向づけがあれば十分だ。それは総意ではなく、持続可能な合意にすぎない。

アポロ計画って、本当は何の証明だったんでしょうか

富良野: ここまで話してきて、最初にあったアポロ計画の話、もう一回見直したくなりました。

Phrona: 筆者にとっては、あれは物語の勝利の例でしたよね。月に人が降りたことで、若者がSTEMに向かった、っていう。

富良野: でも今の話を踏まえると、あれは物語だけの勝利じゃなかった気がするんです。国の財政、大学、企業、軍事技術、教育制度、冷戦の緊張関係、全部が結びついた巨大なプロジェクトだったわけで。

Phrona: つまり、希望の物語には、ちゃんと制度的な裏付けがあった、ということですよね。

富良野: そうです。だから最初の問い、物語を取り戻せば希望も戻るのか、っていう問いへの答えは、半分イエスで半分ノーって感じですね。

Phrona: 物語は絶対に必要。でもそれだけでは足りない。

富良野: 誰の未来かとか、便益は誰に配分されるかとか、そういう問いに答えられる制度がないと、物語は広告になってしまう。

Phrona: 希望って、明るい未来を信じる気分のことだと思ってたんですけど、話しているうちに違うものに見えてきました。

富良野: どう見えてきました。

Phrona: その未来のために、いまの資源とか制度とか、忍耐を組織できるっていう信頼のことなんじゃないかと。気分じゃなくて、能力のほうに近い。

富良野: ディストピアも同じですね。消す必要はなくて、ただ、それが警告のままでいられるかどうかが問われてる。

Phrona: はい。McKeeさんの記事は、そこに気づかせてくれる良い出発点だったと思います。答えまでは書いてなかったですけど。

富良野: それはまあ、僕らが続きを考える仕事ってことで。

ポイント解説

アポロ計画の再解釈こそが、この対話全体の帰結にほかならない。McKeeはこの出来事を、社会に技術的楽観主義をもたらした文化的な瞬間として扱う。しかし、月面着陸の背後には、国家財政、大学、軍需産業、教育制度、そして冷戦という地政学的な競争関係が結びついた、巨大な制度的プロジェクトが存在していた。希望の物語には、はじめから制度的な実体が伴っていたのである。

ここから導かれる結論は、単純な楽観論の否定ではない。物語を語ることは依然として必要な条件だ。だが、それだけでは十分ではない。誰の未来か、便益はどこへ配分されるか、リスクは誰が負うか。この問いに答えられる制度が伴わなければ、どれほど魅力的な物語も広告か自己正当化に見えてしまう。

したがって、希望とは明るい未来を想像する気分のことではない。その未来のために、いまある資源と制度と忍耐を組織できるという信頼、いわば能力に近いものである。ディストピアについても同様で、消し去るべき対象ではない。問われているのは、それが警告としての機能を保てるかどうか、その一点である。


この記事は、Projeteam, Inc. ウェブサイトで先行公開された

ディストピアを自己成就的予言にしないために──未来を語る文化と未来を信じられる制度

を素材として対話形式で再構成したものです。

元記事では、物語と制度が組み合わさって希望になる、という今回の対話の結論を、政治経済制度の機能不全という角度からさらに掘り下げました。腰を据えて考えてみたい方は、是非こちらもあわせてどうぞ。



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