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自分の「普通」を疑えるか?



電車の中で耳にした「ヘッドホン論争」

総武線の電車の中、私の座っている目の前で、吊り革に捕まって、2人の学生さんの大きな話し声が耳に飛び込んできました。

若者A:「なぁ、お前ヘッドホンって持ってる?」

若者B:「いや、普通持ってないだろ。イヤホンだろ」

若者A:「は? 普通は持ってるだろ」

若者B:「いやいや、普通は持ってないって!」

若者A:「俺の周りではみんな家にヘッドホンあるぞ。外ではイヤホンかもしれないけど、家にはあるんだよ。お前が知らないだけで、普通はヘッドホン持ってるんだよ」

若者B:「いや、お前の周りが特殊なだけだって。俺の周りには持ってないやつばっかりだから。普通ヘッドホンなんか持ってないんだって」


その熱量に「若いっていいなぁ」と微笑ましく思いながら、彼らのどうでもいい会話に、「普通」が何度も出てきていました。

私は、スマホのAIに「若い学生のヘッドホン所有率」を聞いてみました。すると、日常的にヘッドホンを使用している層は約2割程度で、圧倒的にイヤホン派が多いというデータが示されました。

つまり、「ヘッドホンをみんな持っているのが普通だ」と熱弁していた若者Aの「普通」は、世間一般の客観的なデータに照らし合わせると少数派だったわけです。


「普通」の正体はマイ・ルール

さて、この他愛もない会話に何度も登場した「普通」という言葉。実はこれこそが、社会のあちこちで摩擦を生む厄介な概念です。

彼らが口にしていた「普通は〜」というのは、決して世間一般的な客観的データのことではありません。自分が生まれ育ち、生きてきた環境の中で培われた常識のことです。

人は自分の意見や行動が多数派であると思い込んでしまう傾向があります。ヘッドホンを持っている彼も、嘘をついているわけではありません。彼が属するコミュニティの中では、それが真実なのでしょう。

しかし、それはその人固有のローカルな情報に過ぎず、世間のデータとは大きく乖離していることが往々にしてあります。

私はこの「普通」という言葉がいやです。 マジョリティという意味で使っている分には問題ないのですが、多くの人は、客観的なデータに基づかない「自分の歪んだ常識」を絶対的な基準として使い、他者に押し付けてくるからです。

もし「普通」という言葉を使いたいのなら、「若い世代で音楽を聴く人の〇〇%がヘッドホンを所有しているという統計があるから、それを普通と定義する」と、前提を先に言ってほしいものです。

「普通」の押し付けが生きづらさを生む

ヘッドホンの有無のようなテーマであれば、「お前、変なやつだな」と笑い合って終わりで済みます。自分の常識に凝り固まった状態で「普通」を押し付け、持っていない友人に「お前は変だ」とレッテルを貼っても、実害はありません。逆に持っていない派から「なんでそんなもの持ってるの?」と反撃されても、所詮は趣味趣向の話です。

しかし、世の中には、自分が生まれ歩んできた偏った環境によって作られた常識にがんじがらめになっている人があまりにも多すぎます。そして、この「ヘッドホン論争」と同じ構図が、人生の重要な局面でも平気で繰り広げられているのです。

普通は、3年は我慢して働くものだ」
普通は、その年齢なら結婚しているはずだ」
普通は、そんなお金の使い方をしない」 など

人の幸せの価値観
人生の選択
会社の働き方

そういった極めて個人的で多様であるべきものに対して、自分の歪んだ常識をぶつけてくる人に、これまで何度も出会いました。なんと多いことか。彼らは自分の物差しから外れた相手に対し、いとも簡単に「普通じゃない=間違っている」というレッテルを貼るのです。

FIREという「普通ではない」生き方への批判

かく言う私も、「普通」から大きく外れた生き方を選択した一人です。

私は早期退職を決断し、毎月の安定した給与収入を手放す代わりに、誰にも縛られない豊かな時間を獲得しました。幸いにも投資による利益があり、生活はなんとか成り立っています。世間ではこれを「FIRE(Financial Independence, Retire Early)」と呼ぶそうです。

日本の労働人口において、このような生き方をしている人は、明確な統計があるわけではありませんが、おそらく1%にも満たないでしょう。圧倒的なマイノリティであり、世間一般的な「普通」ではないことは、私自身が誰よりも認識しています。

しかし、このライフスタイルを選んだ私の対して、そして同じような生活スタイルの友人たちも、周囲から批判の声や、お節介な忠告が寄せられます。

「せっかくのキャリアを捨てるなんて普通じゃない」
「毎日働かないで生きていくなんて、普通の社会人としてどうなの?」
「将来不安じゃないの? 普通は定年まで働くものだよ」


誰かの「普通」を降りて、自分の人生を生きる

周囲の批判を聞くたびに、これは結局、あの電車の中の「ヘッドホン論争」と全く同じレベルの話なんですよ。

「定年まで会社で働くのが普通」「労働こそが美徳」という常識を私たちFIRE仲間にぶつけてきているに過ぎません。それって本当に常識なの? 世間のマジョリティに属していると、自分の価値観が正解であるかのように錯覚してるだけじゃないの?

人生の幸せの形に、客観的なデータに基づく「普通」など存在しません。私たちはもっと、「自分の普通」が他人にとっては非常識かもしれないという謙虚さを持つべきなんだと思います。

誰かが振りかざす「普通」という言葉に、自分の人生の選択を委ねる必要はないんです。ヘッドホンを持っていようが持っていまいが、どちらでもいい。同じように、会社で働き続けるのも、FIREして自由に生きるのも、どちらでもいいでしょ。

自分が心から納得しているのなら、それがその人にとっての正解なのですから。

納得しない人生で、いやいや定年退職まで会社にしがみつくことは、本当に自分にとって自分で選んだ選択なのか? 


「普通」ついて書いた記事↓


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まこさん NPO法人DaredemoHeroへ寄付します。 私の人生に大きな転機となった団体で里親支援を続けています。 子どもたちの教育資金に活用させていただきます。あなたのチップをお届けします。ご協力お願いします! ホームページ→ https://daredemohero.com