「春の風」 第1話


#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

 はるは三人姉妹の長女。優しく思慮深く、自分の人生を自分でしっかりと決め、生きて来た。
でも、いつも何かが誰かが自分のそばにいるような気がして、そしてそれは妹達も幼い頃から感じていたようではるはその感覚をずっと持ち続けていた。
 結婚が決まったはるの日常に少しずつ変化が起き始めた。頭の中で語りかける声。懐かしく感じるその声に次第にはるの心は不安定になっていく。
 ある日家族と出かけた先で倒れたはるが、眠りながら見た幼い頃の自分の姿。その中で明かされる本当のはるの姿。真実を知ったはるは自分の未来をどうするのか、悩みながら下したはるの決断は。

第2話
 その日は、飛行機雲が空に境界線を作ったかのような、はっきりとした線を描いていた。
空気が澄んだ冬の空は薄い青色で、その薄さがよりいっそう寒さを感じさせた。
(でも、この部屋は暖かくて幸せ。)
はるは、日当たりの良い部屋で空を見上げていた。オレンジ色の絨毯が冬の日差しを吸収しそこから暖かな空気を放つような空間の真ん中に、はるは座っていた。
お昼ご飯の少し前、お母さんが「何だかお腹が痛いわ。」と言っていたのが気になり、妹達を促して昼食後の片付けを3人で済ませたところだった。
冬休みの宿題をやらないといけないのは分かっているのだけど、何となく落ち着かない、そんな気分だった。
妹の、なつとあきもさっきから変にテンションが高く、「ねぇ、あき。今日さ、何か良い事がありそうじゃない?私、胸がドキドキわくわくしてるの。あんたは?」
「なっちゃんも?私もそう!本当は友達と遊ぼうと思ってたけど、今日は家に居た方が良さそうって思ってて。何かむずむずするような楽しいような、変な感じ。」
妹達の会話を聞きながら、はるはまた窓から外を見上げた。そのうち妹達がピアノで、「茶色の小瓶」を連弾し始めたので、その音色を聴きながら読みかけの本を開いた。
はる11歳、なつ9歳、あき8歳の穏やかな冬の午後だった。

 はるは中学生になり、新しいセーラー服に袖を通しリボンを結びながら部活は何部に入ろうか考えていた。(運動は嫌いじゃないけど、毎日やりたいとは思わない。絵は得意じゃないし、英語は授業だけでたくさん。やっぱり、大好きな本か音楽。この二択かな。)
親友の京子ちゃんと相談して決めようと結論は出さずに靴を履いて家を出た。中学校は少し遠いのでバスに乗る。妹達はまだ朝ごはんを食べながら、次の休みにどこか連れて行ってと、お父さんに甘えていた。大きな窓があるダイニングは外からよく見える。庭のツツジが満開を迎え、朝日がツツジの花とはるの家族を照らしていた。そんな光景を見ながら、はるはさっき妹達が話していた事を思い出していた。
なつとあきは、年子なので双子のように仲が良い。今日も色違いのヘアゴムでお互いの髪を結いながらなつが「私、この前買い物に行った時、別に好きな色じゃないのに水色のゴムを買っちゃったんだよね。私の好きな色は赤だし、あきは紫でしょ?はるちゃんはピンクだし。でも、見た瞬間に(絶対似合う!買わなきゃ!)って思って。でもさ、誰に似合うんだろ?」
その言葉を聞いて、はるも水色が似合う何か、誰か、のイメージが自分の中にある事に気付いた。
しかしバスが来て、京子ちゃんの隣に座り、部活の話になってからその事はすっかり頭の中から消えていた。

 その年の夏、小学校で行われる地区の夏祭りに姉妹で参加した。毎年楽しみにしている祭りだが、中学生になったはるは、妹達と行く事が少しだけ恥ずかしくなっていた。
でも、お母さんから「お小遣い少し多くあげるから、なつとあきと一緒に行ってやって。2人ともすぐに調子に乗るし、お金も使い過ぎちゃうからブレーキかけてやって。」とお願いされたのだ。
ひぐらしの鳴き声が響く夕方のグラウンドに町内の人達が用意したちょうちんの灯りが揺れていた。焼きそばや、イカ焼きの芳ばしい匂い、子供達のはしゃぐ声にはるのテンションも上がった。とっくにテンションが振り切れていたなつとあきは、競争するように走って行ってしまった。
「あの2人にブレーキなんて無理よ。」
と、はるは呟いて、鉄棒に寄りかかりながら2人の妹を目で追っていた。その時、大声で笑い合う男の子達の集団が前を通って行った。その中の一人と目が合ったが、声を掛け合う事なく通り過ぎて行った。本来ならお互いに掛け合っただろう言葉が余韻のようにその場の空気に乗っていた。
「相変わらず妹の面倒見てんの?」
「まなぶ君、背伸びたね。に、しても野球しすぎて真っ黒じゃん!」
小学生の時には何の意識もせず話せた事が、中学生になると急に難しくなる。
夜の帳が下りるころ、2人の妹がヨーヨーやら金魚やらを手にはるの所に戻って来た。2人はこれから始まる肝試しに備え、姉の所へ来たのである。高学年になったとはいえ、まだまだ臆病な2人は
「肝試しだけは、はるちゃんと一緒に!」と家でも騒いでいた。本当は行きたくないはるの気持ちも知っているので、2人はせめてものお詫びにとお金を出し合って、はるのためにリンゴ飴を買って来ていた。はるも、「そんな気を遣わなくていいのに。」と言いながらも嬉しかったや肝試しと言っても、子供達が自発的に行うもので、大人が本格的に驚かしたりはせず、夜の校舎を勝手に歩くだけというもの。それでもやんちゃな男の子たちが、お面を作ったり、ちょっとした仕掛けを施したりと、子供には楽しいし催しになっている。今年は美容院の息子が首から上だけのヘアカット用のマネキンを何体か用意したので、不気味さは例年より増していた。男の子達は各所に潜み、通行人が通るのをクスクスと笑いながら待っていた。
仲良しグループの女の子達が、キャーキャー言いながら暗い階段を登って行った。
そして、怖すぎてギャン泣きをしているのに、「絶対に行くんだ!」とお母さんにしがみついている幼稚園児の後に続き、3人姉妹は校舎の中へ進んで行った。
はるの両腕は右がなつ、左があきで、まるではるが強制連行されているかのようになっていた。階段の途中で、上から落ちて来たスライムがはるの顔に当たり、驚きのあまり変な声を出してしまったはるに爆笑する妹達。音楽室では有名な音楽家たちの肖像画が並び、暗闇はただでさえ不気味なのに、自殺をしたと噂のあるフランツ・リストの顔だけが懐中電灯の光で照らされていた。あきがはるの二の腕に顔を押し付けながら「恋人に振られて自殺したって男子が…」「違うよ。リスト、自殺してないと思うよ。大丈夫!ちゃんと成仏してるから。しかも、もう何度も生まれ変わってるし、それこそ今は、そんな事言ってる男子に生まれて変わってるかもよ。」
「いやっ!それはそれで怖い!」
音楽室を後にした3人は理科室でお約束の人体模型にキャッキャ言いながら校舎を出て来た。
肝試しの興奮冷めやらぬまま、3人はラムネを買い、半分だけ地面から出ているタイヤに腰掛けた。あきが飲み終わったラムネの瓶を目の高さにあげ、中のビー玉を転がしながら
「私さ、肝試しの最中にふわっと背中が温かくなったんだよね。誰かをおんぶしているような、そんな感じ。」
「えっ!何それ?めっちゃ怖いやつじゃん!」
と、なつがラムネの瓶をタイヤの脇に起きながら言った。
「でもね、それが怖いって感じじゃないの。逆に安心するって言うか。よくわかんないけど。」
「まぁ、怖がりのあきがそう思うならそれは何と言うか、良い霊?守護霊?なんじゃない?」と、はるは言い、妹達からラムネの瓶を預かり、出店に返しに向かった。

その年のクリスマス過ぎ、家族みんなでみかん狩りに出掛けた。みかんが大好きなお母さんのために、毎年お父さんが予約をしてくれる。車を運転しているお父さんが
「お父さんは、お母さんのためにリタイアしたら、みかん農家になろうかなぁ。お母さん、どう思う?」
「作り手に回ったら、こんなにみかんを愛せないと思うわ。私は一生、作って頂いたみかんを美味しく食べる人生で結構です!」
父の第二の人生のビジョンが一瞬で崩れた瞬間を聞いていたはるは、おかしくて仕方なかった。妹2人はクリスマスプレゼントにもらったウォークマンを大事に持ち、それぞれのお薦めの曲を片耳ずつ交換したイヤフォンで聴きあっていた。
車の中ではジミー・デイビスの『ユア・マイ・サンシャイン』が流れていた。
(お父さん、この曲本当に好きよね。)と半分眠りながら聴いていた。
海が見えるみかん山は、冬とは思えぬ暖かな日差しが降り注いでいた。陽の光があたるみかんの色は更なる温かみを増し、はるは毎年この光景にうっとりするのだった。お父さんは農園のおじさんと今年のみかんの出来についての話や、九州で作られ始めた新種のみかんについて話をしていた。お母さんが小さめの脚立を借りて足場の良い所にセットして、娘達を呼んだ。なつが先に脚立に昇り、みかんが鈴なりになった枝を目の前に大喜びしていた。一つずつ丁寧にハサミで切り、下で待っているお母さんに渡す。お母さんは受け取ったみかんのほずをきれいに切り、かごに入れて行く。みかんは傷が付くとすぐにいたむので、他のみかんを傷付けないようほずを実のぎりぎりの所で切り、ゆっくりと入れていく。はるは、それを優しい儀式のようだと思い、眺めていた。
あきは、集中力のある子なので、飽きることなく1人でずっと切り進めて行く。あきの近くで、はるもみかんを切り始めた。みかんの木は一本一本しっかりと剪定が施され、摘果もバランス良くされているので木の内側までしっかりと陽が差し込んでいた。濃い緑の葉の色とオレンジ色のみかんがとても美しく、ひとつの芸術作品だなぁと、はるはここでまたうっとりと眺める。
はるは、目の前にあるものを見て、頭の中で色々な物語を作るくせがあるので、毎年の事ながら、みかんの収穫量が家族の中で一番少ない。しかし、お父さんは
「はるは頭の中に別の世界があるんだよ!すごく素敵なことだよ。」と言ってくれるので、はるはいつも心置きなく物思いにふける事ができるのだ。
正午のサイレンが海沿いの街から聞こえてきた。
山の中腹にある段々畑から見える海とそれに沿って続く海岸線の街並みは、きっと夜もきれいだろうなぁとはるは思った。いつか自分が車の運転が出来るようになったら、夜の農園に来ても良いかもしれないと考えていた。
陽当たりの良い場所を選び、お母さんが作ってくれたお弁当を広げ、本日の収穫量についてみんなで色々と言い合った。さすがの集中力で切り続けたあきがダントツの一位で、お母さんとなつのコンビが二位、今年もはるがビリかと思いきや、おじさんと話し込みすぎたお父さんが最下位だった。第二の人生のビジョンをあっけなく打ち砕かれたはずだったが、みかん農家に対する憧れは枯れないらしい。
食後のコーヒーを農園のおはざんに淹れてもらい、お父さんとお母さんは大人4人で雑談に花を咲かせていた。
なつとあきは葉っぱ工作と名付け、みかんの葉をハサミで切り、遊んでいた。手先の器用ななつは、落語家の切り絵のごとく葉っぱアートを次々と作っていった。傑作だったのはクワガタの切り絵だ。あきが大喝采で褒めるので嬉しくなったなつは、大人たちの所に見せに行き、農園のおじさんとおばさんに
「なっちゃんは本当に器用だなぁ!」とたくさん褒めてもらい大満足で戻って来た。
そろそろ帰ろうかとなった頃、正午のサイレンと同じくらいの大きさで街から救急車の音が聞こえた。海風に乗って、海岸線を走る救急車のサイレンがよく聞こえた。さっきまで穏やかだったはるの心はこのサイレンの音をきっかけにザワザワと落ち着かなくなった。帰りの車でも『ユア・マイ・サンシャイン』が流れていたが今度は眠る事なく、はるは心が落ち着くのを待った。車内は助手席で本日5個目となるみかんをお母さんが美味しそうに食べていた。甘酸っぱい香りが広がり、その香りを胸いっぱいに吸い込み、はるは少しずつ穏やかな気持ちに戻っていった。

 はるは高校3年生の秋を迎えた。
中学校では文芸部を選び、あらゆるジャンルの本を読み、仲間と感想を言い合い時には論争するまで熱くなる事もあった。自分達で作った文芸誌も評判が良く、充実した3年間を過ごす事が出来た。
高校では、もう一つの大好きな音楽の世界に思い切って飛び込んでみた。コーラス部だ。
はるの所属するコーラス部にとって、最後の大きな大会を控えたこの秋は、3年生には特別な季節だった。思えばこの3年間、はるの頭の中は常に音楽が流れていた。デパートで流れる歌に合わせてハモったり、テレビ番組のアイドルの音程が気になったり、四六時中合唱の事で頭がいっぱいだった。
でもそれは、はるにとって幸せな事で、音楽の海に漂うような感覚は「多幸感」以外の何ものでもなかった。
勝手にライバル視していた、吹奏楽部とは音楽室の取り合いになり、体一つで簡単に移動出来るコーラス部はたいてい負けては中庭や図書室に移動させられた。それも楽しい思い出だと引退間近になってしみじみ思うのだった。
先生の指導や自分なりの書き込みで真っ黒になった楽譜を眺めつつ、今日は家でピアノを弾きながら練習した。
はるがコーラス部に入ってから買ってもらった加湿器は、はるが移動する部屋に必ず連れて行かれたので、妹達は加湿器にポチと名付け
「まーた、はるちゃんポチ連れてるよ!」と笑っていた。
高校1年生のなつは、かねてから希望していた芸術系の高校へ進学した。
中学3年生のあきは、情熱と体力を存分に注いだバスケットボール部を引退し、今は高校受験に向けてスイッチを入れようと絶賛努力中である。

 3月。はるは卒業を迎えた。
前日に降った雨の名残を、春の爽やかな風が木々を揺らし、きらきらとしずくを落としていた。
式を終えた卒業生たちは、中庭に集まっていた。
恒例の吹奏楽部とコーラス部による卒業コンサートを見るためだ。先生や保護者、在校生も校舎から見守っている。
演奏する曲目は『夜明け』。
優しいフルートとピアノの音色から始まるこの曲は、今まで出会ったすべての人に感謝を伝える曲だと、はるは思った。
両親 姉妹 友人 恩師。
自分と関わってくれたすべての人に溢れる思いをこの曲にのせて歌った。
『あなたがくれた この翼
 夜明けの光を浴びて
 未来に向かって羽ばたくから
 これからもずっと見守っていて』
はるは、一番古い記憶を思い出していた。
目の前に海が広がるおじいちゃんの家の窓からの景色。朝日を受けてきらきらと光る海。
漁船が港から出て行く時の音。
海からの風を受け、はるの頬にかかる髪を優しくピンで留めてくれたお母さんの手。
「はる、おいで」お父さんの声。
走って行ったはるをひょいっと抱き上げ、そのまま肩車にしたお父さんの力強い腕と肩の感触が蘇った。
『見守っていて』
はるは涙で視界が一気にぼやけた。
見守ってもらった。
たくさん愛してもらった。
「はるちゃん はるちゃん」
妹達の声も聞こえる。小さかった妹たちの可愛い声がメロディにのって聞こえてくる。
式の時には流れなかった涙が止まることなく流れて来た。
はる、精一杯の気持ちをこめて歌った。
仲間も泣いていた。
大きな拍手が、はるたち卒業生に降り注いだ。
最高の卒業式だった。

はるは大学2年生になった。
この4月から一人暮らしを始めた。去年の1年間は自宅から通い、アルバイトで一人暮らしの資金を貯めた。少しずつ自立のための準備を始めようと決めていた。お父さんは心配していたけど、お母さんは一人暮らしは大切な経験だと賛成してくれた。
一度家を出たら、その先実家で暮らすことはもうないだろうと漠然と思っていた。不思議と寂しさはなく、そうする事がとても正しい事だと信じていた。
通学にかかっていた1時間ほどの時間が短縮されたので、以前から誘われていたサークルに入る事にした。
大学に入ってから友達になった、まどかが所属するキャンプ同好会だ。このサークルはその名の通り、春、夏、秋とそれぞれの季節を適所でキャンプをして楽しむ同好会である。
まどかが一年経験して出した結論として、秋が一番キャンプの醍醐味を味わえるとの事。
人が少ないのでのびのび出来る(若者は騒ぎがちなので)
虫がいない
(これは非常に重要な事)
暑くないので、テントの設営等が楽
(イライラせずに済む)
汗をかかないので男子が臭くない
(女子も臭いわ!と言われたけど気にしない)
肌寒いので近くの温泉に入るのが楽しみ
(秋は絶対に温泉がある所を選ぶ)
温かい料理の美味しさが際立つ
(煮込み料理が最高)
朝の空気の気持ち良さがはんぱない
(ホットコーヒーが美味しすぎる)など。
まどかの熱のこもったプレゼンにより、はるもしっかり感化され早く秋キャンプに行ってみたいと思った。
とりあえず、はるのキャンプデビューはゴールデンウィークにきまった。
マイクロバスを貸し切り、富士山がきれいに見える湖畔のオートキャンプ場に向けて出発した。
キャンプ場は家族連れから、ベテランの一人キャンパー、はる達のような若者の団体など、とにかく賑やかだった。
はるは、まどかの指示のもと、テントやタープを汗をかきながら一生懸命設営した。
今まで文化系でどちらかというとインドアな生活をしてきたはるにとって、見るもの触れるもの、すべてが新鮮だった。今どきのキャンプ道具は機能的でおしゃれな物も多く、いちいち驚くはるを見て、まどかはにこにこと上機嫌だった。
「ねぇ、はる。このサークル入って正解だったでしょ?」
「うん!本当に!色々面白いよ!」
「はるはね、本を読んだり、音楽聴いたり、それはそれで幸せそうなんだけど、世の中はもっと刺激的なもので溢れているんだよね。私もまだまだだけど、はるにはもっと色んなことを経験して欲しいな。はるってすごい素直だから、ちゃんと吸収すると思うの。より、外に開けると思うんだよね。」
「えー。何かありがとう!
私はさ、けっこう保守的なんだよね。あまり無茶出来ないっていうか。安心安全がモットーというか。外の世界は本から教えてもらえるから、擬似体験みたいな事出来ちゃって。何でも分かったような気がして。でも、リアルって本当は全然違うんだよね。」
「あんた、安心安全って工事現場の標語じゃないんだから!そうよ!リアルが大事よ!『現実は小説より奇なり』って、あれ?これ合ってる?まぁ、いいや。そういう事よ!」
その通りだと、はるは思った。奇なり、と言うほど特殊ではないけど、実際に目で見て感じてみると言うのは本の世界だけでは、限界がある。
現に今、目の前に広がる富士山の圧倒的な存在感。それを包み込むように懐を広げる湖。その湖畔をすくい上げるように吹いてくる心地よい風。それら、ひとつひとつは、確かにここでなければ感じる事の出来ないものばかりだった。
ただ、ただひとつだけ。この自然の喜びを容赦なくさえぎる事柄があった。
先程から、まどかの右鼻からのぞく毛が、1本…いや2本。
それをどう教えてあげるべきか、約1時間は悩んでいた。友達なんだから、さらっと指摘してあげれば良いだけの事なのに、それが出来ない。本当にはるは悩んでいた。
その時、隣のテントを張り終えたグループの中の1人がこちらにやって来た。
「おぉ!もうテント張り終えたんや。タープも出来てるやん。女子だけなのに手際がいいんやな。」
「当たり前ですよ。もう初心者じゃないんですから!」と、まどかが軽快に答えた。
その時、はるの今までの常識がひっくり返る瞬間が来た。
「君な、鏡ある?ちょっと顔、見といで。」と、その関西弁の男性がまどかに真面目な顔で伝えた。
意味の分からないまどかは、きょとんとしているので、男性がはるに、「ある?」という目線を送って来たので、はるは急いでポーチから手鏡を出してまどかに渡した。
男性は、「可愛らしい顔しとんのやから、気ぃつけえよ〜!」と手をひらひらさせながら行ってしまった。まどかは、手鏡を見ながら
「やだぁ!出てる〜!」
と大笑いする姿を見て、はるは、(そうか、まどかはさっぱりとした子なんだから、こんな風に受け止めてくれるんだった。分かってなかったな、私…)と反省し、すぐに教えてあげられなかった事を謝った。まどかは、
「そりゃ。言いづらいわ!て言うか、鼻毛出すなって話よ!」と笑って許してくれた。
「ねぇ、さっきのあの人、このサークルの人?
顔合わせの時には居なかったと思うんだけど。」
「あぁ、あの人はサトウ シキさん。3年生の登山部の人よ。去年、山で滑落して足を大怪我したの。今はリハビリ中で時々こっちのサークルに参加してアウトドアのノウハウを教えてくれるの。あの人、知識すごいよ。」
(サトウ シキさん…。どんな字を書くんだろう。また話せたら聞いてみよう。)とはるは考えていた。
夕方になり、目の前の富士山が、美しいという言葉では足りない、そこはすでに神の領域であるとはるは感じた。ゆっくりと暮れていく神の山を眺めていた。
はるは、いったいどのくらいの時間、そうしていたのだろう。
「そろそろ上着、着た方がええよ。冷えて来たしな。」と声がして、はるはゆっくりと現実の世界に戻った。
はるの視界に夕飯作りをする仲間の姿と、賑やかな声が一気に耳に流れ込んだ来た。
焦点の定まったはるの目と隣にいる人の目が合った。
「大丈夫?完全に別世界に行っとったな。」
とその人は優しく笑った。
「あっ!すみません。私、何の手伝いもしないで。」
「ええよ。君の友達がな、『あの子はスイッチが入るとしばらく自分の世界から抜け出せないから、そのままにしてあげて下さい』って君の分までチャキチャキ働いてるよ。ええ友達もったな。」
はるは、まどかの姿を見て、そして目を落として
「そんな大事な友達に肝心なことを伝えてあげられないなんて、私は本当にだめですよね。」
「あぁ、あれな。そうやね。大切な友達やったら、その子が恥をかかんでええように言うてあげないかんね。でも、君もだいぶ悩んだんやろ?女の子はなかなか言いづらいよな。仕方ない。仕方ない。」
「でも私、感動しました。あんな伝え方があるなんんて!すごく自然で優しくて。ホント、目からウロコでした。」
「そうか?まぁ、褒めてもらえて俺も嬉しいわ。ところで名前なんていうん?このサークルに入ったばっかやねんな?」
「あっ。私、湯川はると言います。お湯の湯に三本の川、はるは平仮名です。」
「はるちゃんか。何かイメージにぴったりやな。」
「イメージですか?私の?」
「そうや。何かな、ゆったりとした暖かな春の風が吹いてんねん。分かる?」
「いやぁ…そんな風に言われたことがないので分かりませんが、でも春生まれなので、ちょっと嬉しいです。サトウさん、さっきまどかにサトウさんのお名前教えてもらったんですけど、シキさんっでどういう字を書くんですか?」
「サトウは普通の佐藤な。シキは季節の四季やねん。」
「へぇ!季節の四季!素敵ですね!」
「そうかぁ?季節全部入れ込んだ欲張りな名前や、って言われるで。まぁ、気に入っているけどな。」
「私、3人姉妹なんですよ。私が長女で春生まれだから、はる。二女は夏生まれの、なつ。三女は秋生まれで、あき。それぞれちょうどな感じでちょっと恥ずかしいんですけど。」
「何で?めっちゃええやん。それにしても、はるちゃん長女っぽいなぁ。これもまたイメージにぴつたりやわ。」
「長女っぽいですか?特にしっかりもしていませんし、自分ではそう思えないんですけど。妹達の方が行動力もあって、しっかりしてるんです。あっ!そう!妹たちとよく話すんですけど、もしもう一人妹がいてその子か冬生まれだったら、ふゆちゃんで四季が全部そろったのにねって。だから、四季さんの名前はちょっと親近感が湧きます。」
「そうやな。季節繋がりやな!俺な、足が完全に治るまで、このサークルにちょくちょく参加させてもらうんで、宜しく頼むわ!じゃ、ご飯作りに行こか。上着、取っといで。」
はるは四季の後に続いた。
上着を着て、まどかのいる所へ行くと、すでにバーベキュー用にきれいにカットされた野菜と肉が並んでいた。おにぎりを握りながら、まどかが
「はる〜。めずらしいねぇ。はるが、あんな風に男の人と話すの初めて見たかも!いつもはさ、話しかけられても必要最低限の会話だけですっと離れちゃうのに。」
「う〜ん。そうね、何か話しやすかったな。特に気負う事なく、自然に話せたかも。四季さんのあの雰囲気と関西弁のおかげかな。」
「四季さん?!ちょっと待って!名前呼び?何?何?もうそんな仲なの?」
「えっ?いやいや!違う、違う!名前聞いて、季節の四季って言うから、うちの姉妹と何となく繋がりありますねって話したから、つい。そんな仲も何も全然そんなんじゃないよ!」
「焦ってるねぇ!慌ててるねぇ!恋してるねぇ!」とその後も散々からかわれ、キャンプ初日の夜はふけていった。

キャンプ2日目の朝、普段から早起きのはるは、早朝の静かな湖畔を眺めながら1人でコーヒーを飲んでいた。目の前にある富士山は相変わらず神々しいが昨日の夕暮れの中に佇む姿よりは、人間を受け入れてくれるように感じた。
手の中でほどよい熱さを放っていたコーヒーはいつの間にか冷めていたが、はるはずっと同じ姿勢で目の前に広がる大自然を眺めていた。
「はるちゃん、また違う世界に行っとったん?」
はるは、声のする方にゆっくりと意識を向けた。
はるは自分の目がその人をとらえる前から誰の声なのか、はっきりと分かっていた。
(朝の明るい空気の中で見る四季さんの顔は、こんなにシャープなラインを描いていたんだな)と昨日とは違う印象を受けた。
「おはようございます…はい。いつものくせで別世界に行ってました。今、帰りました。」
「おかえり。温かいコーヒー飲まん?今、俺淹れたから。」
四季は冷めたコーヒーカップをはるの手から取り、湯気の立つ淹れたてのコーヒーを渡してくれた。
手の平から伝わる温もりが全身に回るようだった。
「早起きやな。だいたい、俺が一番先に外に出てコーヒー飲むんやけど、今日はすでにはるちゃんがいて、びっくりしたわ。それにしても長いこと、別世界に行っとったなぁ。あの友達が言うようにしばらくそのままにしとったけど、あんまり長いから我慢出来ずに声かけたわ。」
「ありがとうございます。声かけて下さった良かったです。本当に、自分でもどうかと思うくらい深く入り込んでしまうので。見つけたらタイミングとか気にせずに声かけて下さい。」
はるは四季が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。
「うわっ!美味しい!好きな味…」
「そりゃ良かった!コーヒーって好みが色々やからね。良かったわ!俺も自分で淹れといて何やけど、旨いと思うわ。」
二人はその後もしばらく、好きなコーヒーの話や好きな本、好きなアーティストの話など途切れる事なく続けた。そろそろみんなが起き出す頃、四季がはるの連絡先を聞いた。その時はテンポの良い話の流らに乗って、『はい、いいですよ。』と答えたが、朝食の準備をする頃、遅れて来た波のようにじわじわと幸福感が広がった。
夜露で湿ったテントの底をひっくり返して乾かしている間に、朝食を済ませた。
片付けの間や、日中の活動の最中もはるの意識はするべき事に集中していたが、目はいつの間にか四季を探していた。視界の片隅に四季の姿をとらえると、はるは安心して作業を続けた。

3日間の行程を終えて、一同は大学に向けて帰路に着いた。大学に着き、キャンプ道具を部室兼倉庫の中に片付け、家路につく頃はすっかり暗くなっていた。電車通学のまどかと駅で別れ、はるは自転車でアパートに帰った。
一人になってからはるの頭の中は、四季の事でいっぱいだった。連絡先を交換しただけなのに、はるの心はずっと幸せで、足元は地面から3センチほど浮いてるのではないかと思うくらいフワフワした感覚だった。
今までも、心がときめいた人はいたけれど、こんなに体全体が多幸感に包まれるのは初めてだった。
(会ったばかりの人なのに、好きになったんだな…)
はるは、自分の気持ちを静かに受け止めた。
その夜はずっとフワフワした状態が続き、夕飯も食べずに寝てしまった。

ゴールデンウィークが明け、日常を取り戻しつつある平日の夜、四季から電話が来た。
「はるちゃん、明日時間ある?」
「明日ですか?明日は午後の授業が一つ休講になったので1時から5時まで空いてます。夜はバイトなので、それまででしたら。」
「ほな、1時半から俺のウォーキングに付き合ってくれへん?川沿いをずっと歩くだけなんやけど、ええ?」
「いいですね!私、運動不足なので、ちょうど良いです!」
1時半に河川敷で待ち合わせすることを決めて電話を切った。
はるはここ数日、沈黙を続けている電話を眺めて生活していたので、本当に鳴った時には「ヒッ!」と、変な声が出るほど、驚いてしまった。
でも、望んでいた相手から望んでいたお誘いがあり、はるはまた幸せな気分でフワフワした。
爽やかな風が吹く、5月の午後。はるは約束の時間の少し前に河川敷近くの橋の上にいた。待ち合わせの場所にはすでに四季の姿があり、ゆっくりとストレッチをしていた。
男の人に見惚れるなんて、はるには初めての経験だった。
背はそこまで高くないが、均整の取れた体をしなやかに伸ばし、丁寧なストレッチをしていた。うっかりいつものくせで時間を忘れて眺めてしまいそうな自分に喝を入れ、河川敷に降りて行った。
「はるちゃん、来てくれてありがとうな。はるちゃんも少しストレッチしよう。ウォーキングも長時間するとなかなかしんどいからな。」
「今、橋の上から見てました。四季さんのストレッチ。体が柔らかいんですね。すごく、しなやかでした。」
「何のスポーツをするにしても、体は柔らかい方が怪我が少ないんよ。長年の習慣で夜、風呂上がりにストレッチは欠かさないようにしとって。」
「四季さん、山岳部に入る前は別のスポーツしてたんですか?」
「高校までは野球しとったよ。坊主頭で、真っ黒やったわ。」
「野球ですか?甲子園とか目指してたんですか?」
「気持ちはあったよ。けど、公立の普通科では限界があるな。でも、後悔ないくらいやり切ったわ。9人で起こす奇跡も経験出来たしな。」
「奇跡、ですか。私、テレビでちらっと甲子園見るくらいでしたから。きっと、そういう奇跡、あったんでしょうね。」
「そうや。あの坊主たちは、信じられんくらい努力してあそこにいるからな。たいしたもんなんや。
まぁ、スポ根の話はまたするとして、はるちゃん、アキレス腱伸ばそう!」
はるは、四季に教わりながら3種類ほどストレッチをやった。背中や足首、膝の角度など今まで意識しなかった所に意識を置くことでこんなにも違うのかと驚いた。全身に血液が回っていることを実感した所で、ウォーキングをスタートした。

歩きながら2人は色々な話をした。
「山岳部に入ったんは昔から山に憧れとったんよ。父親の仕事の関係で転勤族でな、物心つくころに長野県に住んどったんよ。長野の山はすごいんよ。迫力がな、桁違い。その頃はまだガキやったから登山なんて出来んかったけど、いつか登ってみたいと思ってて。大学に入ったら絶対山岳部に入ろうと決めてたんや。」
「でも、大怪我したんですよね?怖くないですか?」
「怖いよ。むちゃくちゃ怖い。滑落とか、本当に命落とすからな。でもな、やめることは出来ないわ、絶対に。もう、中毒やね。登らずにはいられない。そういうやばい魅力が山にはあるんよ。」
「『そこに山があるから』ですか?」
「ジョージ マロリーや!せやねん。まぁ、さすがにエベレストは無理やけどな。自分の実力に合った山にアタックやな。」
「私は、登山家の方の本で読んだくらいの知識なんですが、エベレスト級の山になると本当に命を削って登っていますね。読んでいるこちら側でも鳥肌が立つ瞬間がありました。それは、危険な場面もそうですが、登頂の喜びも。」
「はるちゃんは本からしっかり世界を広げてるんやな。山のことも知っていてくれて嬉しいわ。でも、本をあまり読まない俺からすると、そんなに面白いもんなん?」
「そうですね。本は手のひらの中の宇宙だと思うんです。この小さな空間に収まるのに、中身は無限なんですよ。心が震えるほどの感動もありますし、身を引き裂かれるほどのつらい場面もあります。
ささやかな日常もあれば、宇宙から地球を眺める事もあります。モロッコで革製造のきつい匂いも感じれば、ライン川から吹く風を感じる事も出来ます。
未来の都市を歩く事もあるし、江戸の隅田川を船で下る事も。
私の頭の中に、心の中に、一生消えない物語の残像がたくさんあります。それを時々引っ張り出すことも出来るので楽しいですね。自分が年を重ね、最初の印象と変わる事もあって。味わいつくす感じですね。」
「引っ張り出して、味わいつくす…ヤギの反芻やな!」
四季の予想もしない返しに、はるは驚き
「え?ヤギですか?」と返すと
「いや!うそや!ごめん、ごめん。俺、感動したんよ。本をそんな風に捉えた事がなかったから。
なのに、つい頭にヤギがもぐもぐしてるシーンが浮かんでしもて。ふざけてるんと、ちゃうからな。」
はるも想像したら笑えて来て、
「確かに、あのもぐもぐしてる時のとぼけたヤギの顔は浮かんで来たらつい言っちゃいますよね!」
「はるちゃん、真面目に話してくれたのにごめんな。」
その日はあっという間に2時間のウォーキングが終わった。
スタート地点に帰って来た時に、四季が
「はるちゃん、もし良かったら一緒に山登りに行かへん?俺、そろそろ復活の第一歩としてハードじゃない山に登ろうかと思ってて。初心者でも登りやすい山やから、嫌じゃなければ。でも、無理強いはしとうないから、ほんまに遠慮のないお返事を。」
「行きます!行きたいです!でも四季さんと同じペースで登れる自信はまったくないのですが…それでも良いですか?」
「いやいや、それはまったくかまへんよ!俺もゆっくり登るし。でも、ほんまにええんかな?俺、はるちゃんに登山の面白さを伝えたくなってんけど、それは俺のエゴやからな。ごめんな。」
「いえいえ、四季さんから登山の話を聞くと楽しそうで。もちろん楽しいだけじゃないでしょうけど、大変さも含めてトライしてみたいです。これが私の『遠慮のないお返事』です!」
返事を聞いた四季は、ゆっくりと微笑みはるを見つめた。2人の間の空気はふんわりと柔らかく、静かに2人を包んでいった。

登山を決めた2人はお互いのバイトのない日を合わせ、川沿いのコースを週一回のペースで歩いた。
「実はな、俺、はるちゃんを何回か見かけたことがあるんよ、大学の図書館で。よくおるやろ?」
「えっ?本当ですか?いつ頃ですか?」
「最初は去年の冬やったかな。めったに図書館なんて行かへんけど、たまたま課題の資料を探しに行ってて。その時、はるちゃん一つの本棚の前におって。そん時はチラッと見ただけやったけど、調べ物して課題仕上げて、まあまあ時間経ってて。本返そうってさっきの本棚通りかかったら、はるちゃんまだそこにおんねん。ほとんど微動だせずに。(この子、大丈夫か?生きとんか?)って思ってよく見たら瞬きはしとって。でも、目は目の前のものを見てる感じやなかったわ。ごめんやけど、そん時は
(何、この子。やばっ、こわっ。)と思って図書館出たわ。」
「私、相当危ない人に思われたんですね。ふふ、可笑しいですね。恥ずかしいけど笑える。やば、こわって。ふふふ。」
「ごめんな。で、その後も同じ感じで。見てる本棚は前と違うんやけど、やっぱり行ってんねん。別世界へ。今なら分かるよ、はるちゃんがそういう子だって。」
「そういう子って!」
「あれは何?目の前の本の事を考えてるんと違うん?」
「うーん。ひとつの本の事だけを考えているんじゃないんですよ。本棚にあるたくさんの本に思いを馳せるというか。本から語りかけてもらうのを待つというか。」
「はぁ〜。不思議やねぇ。俺なんて本棚の前に行くと必ずウンコしたくなってまずはトイレやもんな。」
「あっ!そういう人いますよね!前に何かで読んだんですけど、本は紙ですよね?で、紙は木から出来ているので、野生味の強い人は木の匂いを嗅ぎ取って、はるか昔の動物だった頃の習慣を思い出してもよおす、らしいですよ。諸説ありますが、四季さん野生味強めなんですね。」
「マジか!あのウンコは太古の記憶やったんか!」
2人でゲラゲラと笑いながら歩いた。
四季とのウォーキングは足腰よりも腹筋が鍛えられそうだった。
野生味が強いかどうかは別として、四季はいわゆる山男のイメージではない。
特に後ろから見る髪の毛の生え際からの首筋は育ちの良い清潔感が漂い、すっとした長い首は、はるのツボである。気がつくとそこばかり見てしまうので、四季より遅れて歩くようになり
「大丈夫?」と心配をかけてしまう。
「あなたの後ろ姿が見たいだけなのでどうぞお構いなく。」などと言えるはずもなく、
「大丈夫です!」と小走りで四季の横に並んで、また歩き続けた。
四季の足も完治し、はるの体力もだいぶ付いたということで、2人の登山は10月に決行することとなった。最近のウォーキングは徐々に距離を伸ばし、最終的には20キロを歩くようになっていた。

初登山の山は、初心者向けだが2000メートル超えの有名な山だった。コースによって、中級者も上級者も満足させられるようだが、四季は自分のレベルを下げてはるに合わせてくれた。
日帰り登山なので、朝早く出発した。2人ともコンディションは万全だ。片道5時間の予定でペース配分は四季に任せて、はるはひたすらついて行く覚悟で臨んだ。
はるなりに緊張し、最初こそ気負っていたが、四季がウォーキングの時のようにたわいのない話で笑わせてくれたので、徐々に力が抜けていき、段々と周りの景色を見る余裕も出て来た。
標高が高くなるにつれ見たことのない植物も増え、その都度四季に教わった。
四季も教えるのが楽しいのか、終始笑顔で答えてくれた。休憩や軽食を適度に取りながら順調に登った。
予定していた5時間より少し早く頂上に到着した。
はるは、初めての登頂と素晴らしい景色に興奮し目から入る情報を自分の中に落とし込むのに時間がかかった。その様子をしばらくの間、四季は静かに見守っていた。
はるが落ち着いた頃、四季は保温ポットからコーヒーを注ぎ、はるに手渡した。
「この山から見る富士山は裾野まで見渡せて、より雄大に見えるんや。この景色をはるちゃんに見せたかったから俺も嬉しいわ。頑張って登ってくれてありがとうな。」
「こちらこそ!この景色を知らずに人生終わらなくて良かったって思いました。連れて来てくれて、本当にありがとうございました!」
思わず涙が出そうになったので、はるは慌ててコーヒーを飲んだ。四季の淹れてくれたコーヒーを飲むのは、あのキャンプ以来だった。
(やっぱり好きな味…)
四季はしばらくの間、何も喋らず景色を見ながらコーヒーを飲み、時々はるを見て優しく微笑んだ。
はるも目の前に広がる雄大な景色を見ながら、時々四季の後ろ姿を眺めた。
四季がゆっくり振り向き
「はるちゃん、俺ははるちゃんが好きや。大好きや。これからもずっと一緒におってほしい。」
四季はまっすぐに、はるを見つめた。
はるは微笑んだ。そして泣いた。両手で顔を覆いながら何度も何度も頷いた。
はるは幸せだった。幸せすぎて苦しくて流れる涙がある事を知った。
四季は「はるちゃん、そんなに泣いたら脱水症状起こすで!」とはるにミネラルウォーターを飲むように促した。そしてそっとはるを抱きしめた。
小柄なはるは、四季の首筋に顔をあてて、幸せをかみしめた。
(四季さんは太陽の匂いがする)
はるはその匂いをいつまでも覚えていたいと思った。

さわやかな風が吹く秋の朝、はるはいつも通り2人分の朝食を用意していた。
四季との暮らしも一年を迎え、2人の生活リズムも安定していた。
昨日、行きつけのパン屋で購入したバケットを焼き、その上に粒マスタードを塗り大葉とチーズ、生ハムをのせて食べる。四季はこれが大好物なので、はるはバケットを買えた時には必ずこれを朝食にする。コーヒーが良い香りを放つ頃、はるは四季を起こす。顔を洗ってテーブルについた四季は
「これ、めっちゃ好き!」
と何度出しても毎回同じリアクションで喜んでくれる四季にコーヒーを手渡した。
先週決まった結婚式の内容についてあれこれ話をしながら、今日のお互いの予定についても確認した。
「私は定時で帰れるからスーツをクリーニングから受け取って買い物して帰るね。四季さんは明日からトレッキングのガイドよね?帰るのはいつ?」
「ガイドするのは2日間なんやけど、本社に帰ってから来秋からのイベントスケジュールを組まんといけんから、帰るのは4日後やな。はるちゃん、久しぶりに実家に帰ったらええやん。結婚式の相談もしたいやろうし。」
「そうね。あきも、とも君連れて実家に遊びに行くって言ってたから私も行こうかな。あきは間も無く職場復帰をするから、なかなか会えなくなっちゃうし。」
「看護師さんは、忙しいからな。あきちゃんとこの、とも君。お目々ぱっちり君で可愛いな。よろしく言うといて。」
はるが洗濯物を干す間に、四季が食器を洗い、それぞれが仕事へ行く支度をして一緒に家を出た。
結婚後も、はるは図書館勤務を続けるので、家事を分担しようと二人で一緒に暮らす時から決めて実行していた。四季は学生の頃から一人暮らしをしていたので、だいたいの事は出来た。料理もアウトドアで鍛えた男めしで、一通り何でも作れる。手際が良いので、はるよりも家事の要領が良かった。
結婚に向けて、二人の道のりは順調だった。
順調だったが、はるは半年くらい前から時々心がざわつく事がある。
それは、頭と心に同時にふりかかってくる。
不安と焦りに似た感情でとにかく心がざわざわとして落ち着かなくなる。
はるは、その得体の知れないものと正面から向き合うのが怖く、別のことを色々と考え、何とかやり過ごしていた。
特に最近は頻繁に起こるようになり、はるを悩ませていた。
四季に話したいが、自分でもうまく説明出来ない事なので、余計な心配をかけさせてしまうと思い、話せていない。
今日もそんな事を鬱々と考えて仕事をしていたが、これではだめだ!と自分に喝を入れ、返却された本を本棚に戻す作業に集中した。
カートの中の本が最後の一冊になり、その本を手に取った。
『星の王子様』だ。
はるは、(あぁ、これは中学生の時に初めて読んでから、もう何回読んだかしら…)と表紙を眺めていた時、
「はるちゃん!」
と突然頭の中に声が響いた。
はるは驚きのあまり声が出てしまい、本棚にいた人たちが一斉にはるの方を見た。
はるは胸が激しく波打っていた。どくどくという音を抑えるように、本を抱えその場を離れた。
(今の声は何?誰の声?何だったの?私、頭がおかしくなったの?)
頭の中がぐるぐると回るようで気分の悪くなったはるは、本を持ったままトイレへ行った。
便座に座りながら、落ち着くのを待った。
持って来てしまった『星の王子様』をゆっくりと呼吸しながらもう一度見た。
今度は小さな声で
「はるちゃ…帰り…今日…本…よん…」
途切れ途切れに小さな女の子の声が聞こえた。
はるは、もう驚かなかった。目を閉じ、その声がもう一度聞こえてこないか静かに待った。
しかし、もう頭の中に声は響かなかった。

四季が出張に出た日の夜、久しぶりにはるは実家に帰った。
お父さん、お母さん、あき、とも君が夕食を食べていた。お父さんは可愛い初孫と一緒に居られるが嬉しくて上機嫌で一杯やっていた。
「はる、結婚式のことは、四季君と2人で何でもどんどん決めたらいいからな。今、難しい説明されても、お父さん酔っ払っちゃってるからだめだ!分からないからね!お母さんに伝えといて!」
と赤い顔をにこにこしながら、こちらに向けて来た。はるは、久しぶりに食べるお母さんの手料理に舌鼓を打ちながら、
「やっぱり作ってもらう料理は最高!」と、あきと話に花を咲かせていた。
「はるちゃんとこは、四季さんが料理出来るからいいじゃん。うちなんて、ともを妊娠中のつわりの時も旦那は何も出来ないからずっと私が作ったんだよ。たまに、ここに来て食べるお母さんのご飯が唯一の癒しだったよ。」
「あんた、たまにじゃないよね。けっこう帰って来てたよね。今もだけど。」
「旦那が夜勤の時だけにしてるでしょー。それに、お父さんもお母さんも、ともに会いたいでしょ?これでも気を遣ってんのよ。」
「何言ってるの。とにかく外で仕事をしてくれてる旦那様に感謝だけは忘れちゃだめよ。お互い、思いやりがないと夫婦はうまくいかないからね。」
「はいはい。耳タコ。耳タコ。」
2人のお約束のようなやり取りを聞きつつ、はるは先日図書館で起きた出来事について聞いてもらおうか迷っていた。
食後、とも君はお父さんと寝てしまったので、あきも実家に泊まることにした。
台所でお母さんの片付けを手伝いながら、
「ねぇ、お母さん。この家の近所に女の子っていたかな?私か中学生か高校生の頃、小さかったような子。」と聞いてみた。
「何?突然?えーと、いないよね?この近所は男の子ばっかりじゃない?あき、知ってる?」
「いや、いないと思うよ。私の友達の妹で小さい子いたけど、近所じゃないしね。どうして?」
はるは、図書館で聞こえた小さい女の子の声の事と、最近心がざわついて不安な事を2人に聞いてもらった。2人はそろって、
「マリッジブルーってやつじゃない?」と決めつけ、あきは、
「私の友達のパターンではね…」とマリッジブルーの例をあげてくれた。最後にはその友達をネタに爆笑してしまったので、悩みの解決にはならなかったが気分は晴れた。
(そうね。これも生活の変化に対する疲れや、案外自分でも分からぬうちにマリッジブルーになっていたのかも…)と納得することにした。
そして、あきが
「私、育休明けて職場復帰したら助産師の資格試験受けるから。無事合格したら、はるちゃんの赤ちゃんは任せてね!」と言うので、そのまま話はあきの出産の珍事になり、おおいに盛り上がった。
翌日、実家から出勤し、その日は何事もなくいつも通り仕事をこなし、夜一人で夕飯を済ませていると、妹のなつから電話が来た。
「はるちゃん、元気?結婚式が来年の春に決まったんだね。留守電なかなか聞けなくて、遅くなっちゃった、ごめんね。そして、おめでとう!」
「相変わらず忙しそうだね。次の作品展はいつ?見に行くからまた教えてね。」
「はるちゃんの結婚祝いにちょっと素敵な物作るから楽しみにしてて!ところで、さっきお母さんと電話して聞いたんだけど、マリッジブルーなの?ホントに?はるちゃん、そんな風になりそうにないから意外でね。大丈夫?」
「いやいや、マリッジブルーなのか自分でも分からないの。ただ、結婚のことが本格的に決まった半年くらい前から妙に心がざわざわするというか。不安や焦りみたいなのがあって。まぁ、そんなに深刻な訳じゃないんだけど、この前ね…」
と図書館で聞こえた女の子の声について話した。
「小さい女の子の声…。それは、はるちゃんにしか聞こえないのよね?」
「そう。耳からというより、頭に直接響く感じ。いきなり名前呼ばれたから本当にびっくりしたけど、その後はね途切れ途切れの小さな声で何か私に話しかけているみたいで。でも、今日は何もなかったの。幻聴かなぁ。」
「私さ、今の今まですっかり忘れていたけど、家にみんなで住んでいた時にさ“誰か“を感じることがよくあったんだよね。うまく説明出来ないけど、私達にとって何か強い繋がりがあるような気配。家族で旅行に行ってる時とか、買い物に行ってる時とか、ふと気がつくと自分の手が誰かと手を繋いでいるような形をしているの。無意識にね。あきも、自分では使わないような可愛い小物買っちゃうってその頃言ってた。あげる相手もいないのに、つい選んで買っちゃうって。だから、もしかしてこの家に座敷童子がいるなも!なんて言って怖くなってキャーキャー騒いだこともあったな。家を出てからは、もうそんな事忘れていたからその後は何もなかったんだけどね。」
「そっか。不思議だわ。何だろう…」
「まぁ、でもはるちゃん!せっかく幸せな結婚がもうすぐなんだから、あまり気にしないで。我が家に密かにいる座敷童子がちょっといたずらしてる、それくらいの気持ちでいてよ!」
その後はたわいもない話をして電話を切った。
昨日と同じで、気分が晴れたはるは、あえて何も考えないようにして、その夜は早めに寝た。

冬も深まった師走に、四季から2人の妹達へ連絡があった。はるの様子がいつもと違う。どんどん元気がなくなるし、考え込む時間が増えて何か心配事があるようだ。結婚が嫌になったのかと聞いても、全然そんなんじゃないと。結婚は自分が一番望んでいることで、それは揺るがない。ただ、心の中のざわざわとした感じがだんだん強くなり、幻聴も増えて来たと。こんな状態が続くとはるがノイローゼになってしまうのではないかと心配だから何か良い方法はないか、という内容だった。
なつとあきは実家に行き、四季からの話を両親に伝えた。
はるの不安と幻聴が一過性のものであると思いたいが、今までそんな事がまったくなかったしっかり者の長女の様子に、家族は良い策がないかと話し合った。そして、母親のあつ子が
「久しぶりにみんなでみかん狩りに行く?はるも気分転換になるんじゃないかしら。あの子、農園から見る海の景色が大好きだったし、みかんの木って芸術よね、とよく眺めていたし。」
「お母さん、自分がみかん食べたいだけじゃないのぉ?」とあきが言うと
「それがいい!みんなで行こう!」と父親の勝志が娘達の予定も聞かず、すぐに予約の電話をした。
「お父さんと2人で毎年ではないけど、行っていたのよ。農園のおじさん、おばさんも変わらずお元気よ。あちらは、息子さんが4人いるけど、3番目の息子さんが後を継いでくれたらしいの。」
「あっ!私達が行っていた頃、高校生っぽい人が手伝っていたよね?あの人かな?」
「そうよ。若い世代の人がきちんと後を継いでくれたら安泰よね。」
その後、なつがはるに電話をして、みかん狩りに行く日を告げた。

年の瀬も押し迫った穏やかな日に、農園にみんなが集まった。
女性陣は昼食用におかずを二品ずつ持ち寄った。
タッパーをのぞき込みながら
「美味しそう〜!お昼が楽しみ!」
とはしゃいでいた。
はるは、みかん狩りに来るのは中学生以来なので本当に久しぶりだ。
農園から見える変わらない海と街並みの景色は、はるの心を癒してくれた。
冬の日差しに照らされたみかんは優しい色を放っていた。
はるは、久しぶりに穏やかな気持ちで物思いにふけり、木の上から四季が差し出すみかんのほずを丁寧な切り落とした。
最近、育休明けで職場復帰をしたあきは、とも君と楽しそうに遊んでいた。
とも君も慣れない保育園生活が続いたので日頃の寂しさを埋めるように、あきに甘えていた。
昔は収穫量第一位を誰にも譲らなかったあきも、今はお母さん業を優先している。
子供は本当に可愛く宝物だなと、とも君の笑顔を見ながらはるは思った。
(私たちにも子供が出来るかしら)
はるは、近い将来の自分たちの姿を思い浮かべようとしたが、うまく出来なかった。

女性陣が作って来たお弁当を広げ
「本日の収穫量第一位は、お父さんお母さんコンビ!」となつが楽しそうに報告した。
とも君は『一番美味しそうなみかんを取ったで賞』という事で、なつが景品として用意したおもちゃをもらって大喜びしていた。
食後に、農園のおばさんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、それぞれ話に花を咲かせていた。
はるは一本の大きなみかんの木の前に立ち、静かに眺めていた。
その時、海岸線を走る救急車のサイレンが聞こえた。その音がどんどん大きくなった時、はるが大きな悲鳴をあげたのでみんなが驚いてはるの居る方を見た。はるが、大きなみかんの木の下にしゃがみ込み
「お父さん!お母さん!ふゆが、ふゆがー!」
と叫び、そのまま倒れてしまった。
はるの白くぼやけた視界の中で、四季がはるの体を抱き起こしながら何かを叫び、なつとあきの泣きそうな顔が見えた。
「ふゆが、木から落ち…た…」
そこではるの目の前は黒く塞がれてしまった。

はるが目を開いた時、はるは自分がどこにいるのか分からなかった。
目に入ってる光景だけが確かなもので、自分の実体がそこにあるかも分からなかった。
はるが見ているのは昔、はるが通っていた幼稚園で少しずつ音も聞こえて来た。
子供達が園庭で遊ぶ声。
「せんせ〜い!のりちゃんが、ブランコのじゅんばんまもってくれないよ!せんせい、きて〜!」
「さくらんぼ組のみんなはお砂場にあつまって〜」
「ケイドロするひと、このゆびと〜ま〜れ」
「おままごと、い〜れ〜て!」
「い〜い〜よ〜」
「はるちゃん、はるちゃん!こっち、きて!
さらこなつくろう!」
はるちゃんと呼ばれた女の子をみると、それは4歳の頃のはるだった。
(これは夢?小さい頃の夢を見ているの?)
はるは混乱する頭で、目にうつる様子をじっと見た。
友達に呼ばれた小さいはるは、そこに行こうとするがうまく足が上がらない。そのうち転んでしまい、友達が助けに来てくれたが、はるは腕だけでもがくようにして、足が動かない様子だった。
「せんせい!はるちゃんがころんじゃった。たてないってないてる!せんせい、はやくきて!」

次にはるの目にうつったのは病院で医者らしき人に両親が話をされている所だった。
「娘さんは結核性髄膜炎です。脳に感染してしまい、脳結核腫になっています。このまま熱が下がらなければ、後遺症が残るか命に関わります。
今日、明日が山場になります。私達も最善を尽くしますので、ご両親は気を確かにしっかりと娘さんを見守ってあげて下さい。」
(結核性髄膜炎?脳結核腫って何?私、そんな病気してない!)
泣きはらしている両親の姿を見ながら、はるはいったい何がどうなっているのか分からず、ずっと混乱していた。

「何で、あんなに賢くて優しい子が、こんな目に遭わないといけない。神様仏様、ご先祖様、どうかどうか、はるを助けて下さい。」
二人の老人が仏壇の前で数珠を手に必死で拝んでいた。
(あっ!おじいちゃんとおばあちゃん。二人とも、もう何年も前に亡くなっているのに…)

次にはるが目にしたのは、病院のベットで寝ている小さいはるだった。そばにお母さんがいた。
「はるちゃん、点滴をしましょうね。」
と看護師さんが輸液を点滴スタンドに下げて病室に入って来た。
それを見た小さいはるは、お母さんを見ながら目にいっぱい涙をためて
「もう、いやだよ。はりがいたいもん。もういやだよ。」と泣いていた。お母さんは小さいはるを抱きしめながら
「はる。痛いけど、はるが元気になるための大事なお薬だからね。頑張ろうね。点滴が終わったら売店に行こうね。はるの好きなアイス、食べようね。」
お母さんは、はるが泣きながらも我慢して細い腕を看護師さんの前に出す姿を見て、涙をこぼしていた。注射や点滴の針を入れた痕がいっぱいついた細い腕を看護師さんは見つめ、そして優しく手を当てなでていた。
小さなはるにとって、1番つらかったのは髄液の検査だった。大人でも悲鳴が出るほどの激しい痛みを伴う検査だったので、幼いはるにとっては地獄の痛みと苦しみだった。髄液の検査の日は、必ずお父さんは仕事の調整をして、はるのそばにいた。ずっとはるを抱っこして優しく語りかけていた。
いよいよ検査室へ運ばれる時のはるの泣き叫ぶ声は、両親にとって身を引き裂かれるほどつらく、お母さんはトイレで何度も吐いた。

はるは、目に映る光景を少しずつ受け入れられるようになって来た。
混乱していた頭は冷静さを取り戻し、これはすべて自分の身に起きていた事なんだと思い始めていた。

検査を終えたはるは、お父さんに抱っこされながら静かに眠っていた。
お母さんは病院の公衆電話で話をしていた。
「お義姉さん、あつ子です。いつもありがとうございます。なつは元気ですか?
はい、はい、そうです。今日も無事検査が終わりました。
ええ、はい。はい。
まぁ!なつったら、そんな事を!
どうぞ、遠慮なく叱って下さい!
えっ?ふふふ、はい。ありがとうございます。
なつも楽しそうで良かったです。
またお菓子を送るので良い子でいるように伝えて下さい。
はい。はい。本当に、本当にありがとうございます。もうしばらくの間、なつを宜しくお願いします。」
電話を切ったあと、しばらく何かを考え込んでいたお母さんはまた電話をかけた。
「あっ!お義姉さん。はい。あつ子です。
あきがお世話になってます。本当にすみません。
あきは元気ですか?
はい。えっ?おしゃぶりが取れたのですか?
すごい!でも、寝つきが悪くなってお義姉さんたちのご迷惑になるんじゃ…
えっ?本当ですか?まぁ、すごいアイディア!
私なら思いつきません。ふふふ、そうですか。
あきも成長していますね。
はい、お陰様ではるも良くなって来ています。
もう少ししたら、退院の目処も立つと思いますので、もう少しの間、あきを宜しくお願いします。
本当にありがとうございます。
失礼します。」
受話器を置いた手をそのままに、お母さんはしばらく動かなかった。

(そうか。なつとあきは伯母さんたちに預かってもらっているのか…。なつは2歳、あきは1歳…。
まだ小さいのにお母さんと一緒にいられないなんて。私のせいだ。)
はるは、妹たちのことを思ってつらくなった。
(なつとあき、ごめんね。)

次にはるが見たのはランドセルを背負った8歳のはるだった。病気のために一年遅れで小学校に入学したはるの顔は、薬の副作用でぱんぱんに膨れていた。体は細いのに顔だけが大きく、はるは思わず目を背けてしまった。
(私の覚えている入学式はこんなんじゃなかったのに)
脳に後遺症が残ってしまったはるは、特別支援学級に入っていた。
はるはたくさん本を読んでいた。学校の図書館で何冊も本を借り、本屋さんへはお父さんとよく行って大好きなシリーズの本を買ってもらっていた。
8歳のはるは、一生懸命勉強して本もたくさん読んで、穏やかに幸せそうだった。

次にはるが見たのは、ピアノが置いてある子供たちの部屋だった。おじいちゃんから贈られた木目模様のアップライトピアノは、姉妹のお気に入りだった。夕日が差し込むその部屋、ピアノに陽の光があたり、とても美しい。
「お母さん、大丈夫かな?ハスイっていうのしちゃったから、病院へ行ったんだよね?赤ちゃん、ちゃんと産まれるかな?」
「大丈夫!私、学校の斉藤先生に色々聞いて知ってるんだ。ハスイっていうのは赤ちゃんが産まれる合図なんだって。いろんな種類の合図があるらしいけど、ハスイはよくある事なんだって。だから、大丈夫!
それで、斉藤先生がね
『なっちゃん、赤ちゃんが産まれるの楽しみなんだね!』ってにこにこしながら言ってくれたの。私、斉藤先生、だーい好き!」
「ねぇ、はるちゃん。赤ちゃんは男の子、女の子どっちだと思う?」
「おんなのこだよ、ぜったいおんなのこ!
わたし、おねえちゃんだから、わかるもん。」
「えぇー!お父さん、がっかりしちゃうじゃん。
今度こそ男の子がいいって言ってたし。
『私たち、女の子ばっかりでごめんね〜』って言ったらお父さん焦っちゃって
『いや!お前たちは本当にみんな可愛いんだ!』だって。面白かった!」
あきが思い出し笑いをしていた時、電話が鳴った。
なつとあきが競うように電話まで走り、なつが出た。
「もしもし、お父さん!赤ちゃん産まれたの?
えっ?女の子?お父さん、大丈夫?また女の子でがっかりしたんじゃない?」
はるとあきも、受話器に耳を近づけて、お父さんの言葉を待った。
「お父さんな、正直『女のお子さんです』と言われた時は一瞬目の前が真っ暗になったよ。だけど、赤ちゃんの顔見たら、お父さん何かやる気が出て来たんだよ。4番目だし、また女の子だし、親戚からも忘れられちゃうような存在だろうから、お父さんがうんと可愛がってあげるからな!って赤ちゃんに言ったんだよ。お前達も、うんと可愛がってやって!
あと、はるに赤ちゃんの名前、何がいいか聞いて。」
「はるちゃん、赤ちゃんの名前、何がいいかって、お父さんが。」
「ふゆだよ!ふゆちゃん。おねえちゃんのわたしがかんがえたの、ふゆうまれだからふゆちゃん!」
「お父さん聞こえた?うん!そう!これで季節が全部揃ったね!
お母さん、大丈夫?うん。そっか!良かった!
明日私たちも病院行けるよね?うん。分かった。じゃあねー。」
なつが受話器を置いて、3人は顔を見合わせてニコニコと笑い合った。
「あき!あんたもついにお姉ちゃんじゃん!もうワガママ言えないよ!そんで、『お姉ちゃんなんだから我慢しなさい』って言われるよ。
私なんて、はるちゃん怒らせると『妹なんだから我慢しなさい』あきを泣かせると『お姉ちゃんなのに、優しくしなさい』って!私だけどっちも?
まったく損なポジションだよ。」
「私、ワガママなんて言わないよ!そんで、何でもふゆちゃんにあげるしー!お姉ちゃんの中で私の事が1番好きって言うよ、絶対!」
「ふゆちゃんの子守唄を作ろうよ!あき、ピアノ開いて。」
なつとあきは並んでピアノの前に座り、赤ちゃんのための子守唄を作り始めた。
優しくて眠たくなるような曲がいいよね!と2人は楽しそうに即興で弾いていたが、そのうち2人の好きな『茶色の小瓶』の連弾に変わった。
はるは、その音色を聞きながら図書館で借りて来た本を読んでいた。

(そうか、私にはもう1人妹がいたんだ。年の離れた妹、ふゆちゃんか…。四季さん、私たち季節が全部揃っていたんだわ。)

次に見えて来たのは中学校の制服を着たはるだった。学校からの帰りのようで、家に近づいた所で玄関のドアが勢いよく開き、中から小さい女の子が走ってはるに抱きついた。
「はるちゃん、おかえり!きょうはなんのほんをかりたの?みせて!」
小さい女の子は、はるにまとわりつきながら、家の中へ入って行った。
はるが着替えるのを大人しく待ちながら、目ははるの手提げカバンを見つめていた。
はるがカバンの中から本を取り出し
「ふゆ、きょうおねえちゃんがかりてきたほんは『ほしのおうじさま』だよ。これは、がいこくのひとがかいたおはなしだよ。」
「うん、わかった!はるちゃん、はやくよんで!」
はるが物語を読み始めると、ふゆは真剣な顔でじっとはるを見つめ、物語に耳をかたむけていた。
しばらくすると、はるがガタガタと震えだし本を落として倒れてしまった。ふゆは直ぐに立ち上がり
「おかあさん!おかあさん!はるちゃんのほっさがでたよ!はやくきて!」とお母さんを呼びに行った。お母さんは台所から走って来て、はるを横向きに寝かせ時間を計りながら体を優しくさすった。
ふゆは、はるの横で
「はるちゃん、だいじょうぶ?いたい?」
と小さな声で話しかけていた。はるは、
「ううう、うう」と苦しそうにうめいていたが、やがて震えが止まり汗が出て来た。
お母さんが汗をふいて洋服を緩めて、はるを布団に寝かせた。
ふゆが「はるちゃん、だいじょうぶ?」とはるに触ろうとすると、
「やめて!あっちいって!」とふゆの手を払いのけた。ふゆは悲しそうにお母さんのエプロンの裾をつかんだ。
「はるは発作が出るととても疲れちゃうの。ふゆも、もう分かるよね?だから休ませてあげようね。」
「うん。はるちゃんまたほん、よんでくれるかな?」
「元気になったら読んでくれるよ。むこうでおやつ食べようね。」
とはるに毛布をかけて、ふゆの手を引いて部屋を出た。

大人のはるは、寝ているはるを見つめていた。
(病気をしてから、つらくて大変な事ばかりなんだね。私だけど、私じゃないこの子…本当にかわいそう…。)

次にはるが見たのは夏の夕方、地区のお祭りに行く準備をする姉妹の姿だった。
「ねぇ、はるちゃんはおまつりにいかないの?いっしょにいこうよ。」
ふゆがはるのそばで必死にお願いしていた。
「おねえちゃんはいかないよ。おとこのこたちにばかにされるからいやなんだよ。だいきらいなんだ!」とはるは怒っている様子だった。
「はるちゃん、バス停にいる時に小学生の男子にからかわれたって、帰って来たよね。そうしたら、お父さんが次の日待ち伏せしてさ。その男の子たちがまたはるちゃんに『頭のバカなこだぁ!』って言ったら飛び出して行って、めちゃくちゃ怒ったよね。『うちのはるは、バカじゃない!病気をして苦労している子をからかうなんて、そんなひどいことをしちゃだめだ!』ってね。もう、鬼の形相よ!男の子達、びびりまくって逃げたもんね!ケッサクよ!」となつが笑いながら話した。
「そう言うなっちゃんも、学校ではるちゃんをからかった男子に怒鳴り散らしてたじゃん!うちのクラスの男子が『お前のねえちゃん、メスゴリラだな』って言ってたよ。」
「上等!上等!あんたも私の妹なんだから、同じメスゴリラよ!」と、がははと笑って
「ふゆ、はるちゃんはあまり無理しちゃだめだから、私とあきと3人で行こう。」なつが言うと
「はるちゃん、りんご飴買って来るからね!」とあきも続いた。
「うん!ありがとう。
あっ、ふゆ。おねえちゃんがおこずかい、あげる。」と言って、はるがふゆの首から下げたお財布の中に100円を入れた。
このお財布は、あきがふゆに買ってくれて、とても気に入っているらしい。
ふゆは嬉しそうに
「ふゆも、はるちゃんにおみ、おみあげ、かってくるね!」
「わはは!ふゆ、お・み・や・げ・だよ!
じゃあ、行ってくるね。」
と、3人は連れ立って学校へ向かった。
それから数時間後、3人は懐中電灯を照らしながら帰って来た。
ふゆはあきにおんぶされていて、興奮気味に
「ふゆね、きもだめし、なぁ〜んにもこわくなかったよ。あきちゃんのおともだちは、こわいよぉってなってたけど、ふゆはぜんぜんこわくなかった!」
「だって、ふゆはずっと私がおんぶしてたんだもん。自分で歩いてって言っても絶対おりなかったじゃん。人におんぶされてたら、そりゃ怖くないよ!
あぁ、重たかった。」
「はい!はるちゃん。お土産のりんご飴。一番大きいの選んだよ!」
「ふゆも、はるちゃんにぼーるのおみ、おみあげ!きれいでしょ?」と、水色の透明なスーパーボールを渡した。
「ふゆのへあごむとおそろいのみずいろだよ!」
「ありがとう!」とはるは、妹達からのお土産を嬉しそうに受け取った。
「ただいま〜。ケーキ買って来たぞ〜!」
とお父さんの声がして、姉妹は台所へ走って行った。
「けーき!けーき!ふゆがいちばんにえらぶ!」
「ふゆ。」
「ふゆ。」
なつとあきが同時に言った。
「一番ははるちゃんだよ。」
「お父さん、もうふゆも、それでいいでしょ?」
「そうだな、ふゆ。なつとあきの言う通り、選ぶのははるが一番先だよ。」
ふゆは、お父さんとお母さん、なつとあきの顔を見た。みんなが優しく微笑んでいたので、ふゆは、
「うん。はるちゃんがいちばんでいいよ。」
と椅子に座ってあぐらをかいているお父さんの足の中によじ登りながら言った。
「えらいなぁ、ふゆ!今日は、お父さんと一緒に寝ような!」
「じゃあ、れこーど、かけて!」
とふゆは嬉しそうに甘えて言った。
寝室でお父さんはジミー・デイビスの
『ユア・マイ・サンシャイン』をかけた。
ふゆは、
「ゆ、あ、ま、さ、しゃいん、ま、お、り、さ、しゃい!」と楽しそうにレコードに合わせて歌っていた。
「ふゆ、今日はケーキを選ぶ時、ちゃんとはるを一番にしてくれて、ありがとうな。
はるは、病気っていうのをしてな、すっごく痛い思いをしてすっごく辛かったんだよ。
今も時々、発作が出て苦しむだろう?薬も毎日たくさん飲まなきゃならなくて、可哀想だよな。
だから、みんなで優しくしてあげような。
何でもはるを一番にしてあげような。」
「うん。ふゆは、はるちゃんのびょうき、しってるよ。なっちゃんとあきちゃんがおしえてくれたから。はるちゃんがなんでもいちばんでいいよ。」
「よし!えらいぞ!ふゆには、はるを守ってほしくて生まれて来てもらったんだ。
なつとあきと、ふゆ。3人がいれば、はるは大丈夫だから。分かるかな?難しいかな?」
お父さんは、ふゆのほっぺたに自分のほっぺたを付けて
「ふゆは可愛いなぁ!」と言い、ふゆと一緒に歌をうたった。

(私、こんなに大事にされていたんだ…。
こんな小さいふゆも病気のこと、理解してくれて。
病気をして後遺症も残ったけど、私、ちゃんと幸せだったんだね)

次に見えて来たのは、ひんやりとした風に揺れるみかんの実だった。
いつもみかん狩りをする農園だった。賑やかな声がして、そちらを見るとはるの家族が到着したところだった。
ふゆを肩車して、先頭をお父さんが歩き、その後にお母さんとはる。なつとあきは、イヤホンをつけ合ったまま、流れている曲について、あれこれと話をしていた。
大人のはるは、家族がみかん狩りをする様子を、自分が経験した時と重ね合わせながら見ていた。
こんな風に家族と出かけたり、活動する時にお母さんと一緒にいるのは、なつが多かったが今は、はるのそばに必ずお母さんがいる。発作が起きたらすぐに対処出来るようにだろう。なつとあきは、交代でふゆの面倒を見ていた。ふゆは、まだちいさいのにすぐに木に登ろうとするので2人は目が離せないようだ。
疲れやすいのか、はるは途中から座り込み休んでいた。お母さんがふゆの面倒を見始めたので、なつとあきは、どっちが多くみかんを取るか競争を始めた。お父さんは相変わらず農園のおじさんと話し込んでいた。
正午のサイレンが聞こえたので、みんなは陽当たりの良い場所を選んで、お弁当を広げた。
お母さんの作るお弁当はいつもみんなの好きな物がしっかり入っている。
(お父さんの好きな焼き魚とかぶの漬け物。
私の好きなチーズのハム巻き。
なつの好きなかぼちゃのコロッケ。
あきの好きなささみの梅しそ巻き。
お母さんの好きな天ぷらの甘煮。
ふゆの好きなもの…ふゆが好きなものは、そうだ!
タコさんウィンナーだ!
ふゆは、本当にタコさんウィンナーが大好きだった。
私、ふゆのことを知っている。
そうだ。私はふゆが生まれた時からずっと知っているんだ。)

その時、はるの声が聞こえた。
「ふゆ!木からおりなさい!いうこときかないと、おねえちゃんおこるよ!あぶないから、ふゆ!」
はるが、大きな木に登っているふゆに、降りるように注意していた。
お父さんとお母さんは農園のおじさんとおばさんとコーヒーを飲んでいる。
そこへ、みかんの葉っぱで見事なクワガタを作ったなつが駆け寄って作品を見せていた。
次の瞬間、ふゆが木から落ちた。
「お父さん!お母さん!ふゆが!ふゆがー!」
とはるの悲鳴が、みかん畑に響いた。
木から落ちたふゆの顔色がみるみる青白くなり、くちびるの色がなくなった。
お父さんが「救急車を!」と叫んでいる。
(私、この時のことを思い出したのか…
それで倒れたんだ。ふゆは、大丈夫だったのかしら)

動揺した気持ちを落ち着けて、はるが目を開くとそこに見えたのは、小学生のふゆの姿だった。
(あぁ!良かった!ふゆは無事だったのね!)
ふゆが誰かと話をしている声が聞こえたので、はるは集中して耳をすませた。

そこは、海の見えるおじいちゃんの家だった。
ふゆは、はるとおばあちゃんと3人で仏壇の前で話をしていた。
「はる、二十歳の誕生日おめでとう!
おばあちゃん、本当に嬉しいよ。はるが病気になって命も危ないって言われた時、このおばばの命と引き換えに、はるの命を助けて下さいって一生懸命神様にお願いしたんだよ。願いが叶って本当に良かったよ。神様に感謝しないとねぇ。」
「おじいちゃんも、かみさまにおねがいしてくれたんでしょう?わたし、おばあちゃんもおじいちゃんもだいすき!」
「ふゆは、はるを大切にしてるかい?
はるには、優しくしてあげないといけないよ。」
「うん!分かってるよ。時々、ケンカもしちゃうけど、ちゃんと仲直りするし、はるちゃんを何でも一番にしてるよ。
あのさ、おばあちゃん。おじいちゃんってどんな人だったの?私、全然おじいちゃんのこと覚えてないんだよね。」
ふゆは壁に飾られているおじいちゃんの写真を見上げながら聞いた。
「あんたのおじいさんはねぇ、優しくて良い人だったよ。この地区は女が自然の恵みを頂きながら仕事をするだろう?女が稼ぐから、男がだめになるんだよ。女の稼ぎをあてにして遊んだり、お酒ばっかり飲んで仕事をしなかったりね。でもね、あんた達のおじいさんは私をあてにせず、しっかりと自分の仕事をして財を成した人だよ。本当にえらい人だった。」
「おばあちゃん、おじいちゃんにもう一度会いたい?」
「会いたいねぇ。昔、おばあちゃんが育った村には古い言い伝えがあってね。死んだ人の骨を少しだけ取って、数珠のね、ほら、この結び目から左と右にそれぞれ4番目のこの玉と死んだ人の骨を入れ替えるんだよ。分かるかい?骨に糸を通してな、その数珠を手にその人が眠るお墓の前で必死に願えばその人に会えるってね。その代わり死んだ人と入れ替わってしまうかも知れないと言われていたから、小さい時は怖くてね。本当かどうかわからないけどねぇ。でもおじいさんが死んで骨になった時、骨を少し取っておけば良かったって後悔したよ。月日が経てば経つほど、会いたくなるからねぇ。
入れ替わってもいいって思うくらい、おじいさんに会いたかったよ。
でもね、私はたぶんもうすぐおじいさんに会えるからもうちょっとの辛抱だね。」
「どういう事?おばあちゃん、死んじゃうの?」
「おばあちゃん、ながいきしてよ。まだまだいっしょにいたいからね。しんじゃだめだよ。」
「はる。あんたは、良い子だねぇ。おばあちゃんは、はるがいて幸せだよ。あんたこそ、長生きしなさいよ。おばあちゃんは、ずっとあんたを見守っているからね。
ふゆは、はるを守るために生まれて来たんだからね。はるを頼んだよ。」
「うん!分かってるよ!ずっとはるちゃんと一緒にいるから。」

(おばあちゃん、私が二十歳の冬に亡くなったのよね。もうすぐ、おじいちゃんに会えるって、本当だったんだね。自分の死期が近いって、感じるものなのかな…)

はるは疲れを感じた。
一気に入ってきた自分のもう一つの人生。
この人生は今も続いているの?
同時進行していくの?
それとも…
はるは、目を閉じた。

はるが目を開き、見えて来たのは大人になったふゆの姿だった。小さな3人の子供を連れて実家にいた。4歳くらいの女の子と2歳くらいの男の子、そしてまだ赤ちゃんの男の子。
「はるちゃん、間に合わなかった。ごめんね、ごめんね。本当にごめんね。」
ふゆは、はるが寝ている枕元で何度も何度も謝りながら泣いていた。
「はるは、最後まで待ってたよ。ふゆの子供達に会いたいなぁって。」
お父さんが憔悴しきった顔で、幼い孫の頭を撫でながら言った。
「はるちゃんがまえにくれた、こうちゃのあめ、かってきたんだよ。はるちゃん、あんまりごはんたべられないっていってたから、ままと、あめならたべられるかなって、かってきたんだよ。
はるちゃんに、あげたかったな。」
小さな女の子の目からも涙が流れた。それを見た隣の男の子も悲しくなったのか泣き始めた。
「はるは、親孝行な娘だったよ。
昔、お医者さんに二十歳まで生きられるか分からないって言われたのに、ここまで頑張って生きてくれた。いつも、お父さんとお母さんのそばにいてくれて、優しくて、ずっと可愛い子供だったよ。
もっと生きて欲しかったけど、でも、俺たちに見送らせてくれた。俺も病気しちゃったから、はるの事が気がかりだったけど、これで親の責任が果たせた気がするよ。最後まで親孝行だったなぁ。でも、寂しいよ。はるの淹れてくれるコーヒーがもう飲めないなんて悲しいよ。」
お父さんは、そう言って泣いた。
「お父さん、あんまり泣かないで。体に障るよ。
これから色々と大変になるから、少し休んでおこう。お母さんも、やっと落ち着いたから、そっちで一緒に休んで、ね。」
と、なつがお父さんを連れて行った。
あきが、ふゆの子供たちを公園に連れて行ってくれてので、ふゆは、はるのそばにいた。
お母さんが、はるの遺影の写真を選ぶために出したアルバムを見ながら、はるに話しかけていた。
「はるちゃんは、本当に賢くて優しくて、しっかりした子だって、おばあちゃんいつも褒めていたね。
病気して残念だったけど、その分一緒に過ごせる時間も長かったから幸せだったって言ってたね。
はるちゃん、おじいちゃんとおばあちゃんに会えたかな?これからかな?
迎えに来てくれるかもね。
この小さい時に入院していた病院での写真…。
こんなに小さい体で病気と闘っていたんだよね。
こんなに痩せて…。注射や点滴が痛くて嫌だったって話してくれたよね。検査が一番嫌いだって。
入院の辛さを知っているから、前にお母さんが入院した時、『かあさんがかわいそう』ってはるちゃん泣いたね。
写真にたくさん涙の跡があるよ。きっとお母さんだね。何度も何度も、この写真を見るたびに泣いたんだろうね。
ねぇ、はるちゃん。小さい時に病気になって、その後は障がい者として生きて、それで最後にはよりによって、こんなつらい癌になって…。痛かったよね?
ねぇ、はるちゃん、可哀想だよ。何ではるちゃんばっかりこんな目に遭うの?神様っているの?
私、全然分からないよ。だっていつも、はるちゃんが一番神様に感謝して生きてたよね?
みんなが無事に一日過ごすと、
『神様、今日も一日ありがとうございました』って言ってくれてたよね?そんなはるちゃんがどうして?
私達は、恋愛もして結婚もして、子供もいて。
はるちゃん、私の子を可愛がってくれながら、
『わたしはびょうきしちゃったから、けっこんできないけど、なつやあき、ふゆのこどもたちがかわいいからいいよ!おねえちゃんは、うんとかわいがってあげるからね!』って言ってくれたよね?
でもさ、人は生まれた時から運命の人が決まってるって誰か言ってた。なら、はるちゃんの運命の人は?はるちゃんが死んじゃったら、その人どうなるのかな?
ねぇ、はるちゃん。全部が全部、悲しいよ。悲しすぎるんだよ。
私は、はるちゃんが病気をしてしまったから生まれて来たんだって。
お父さんが、将来はるちゃんを守るためにもう一人姉妹を増やそうって。それで私、生まれてきてのにね。はるちゃんに何もしてあげられなかった。
ごめんね、はるちゃん、ごめんね。」
はるの写真の上に涙がぽたぽたと落ちるのを、もう一人のはるが見ていた。

(そうか、私、死んだんだ…。
 でも、私、何となく分かる。
 そういう運命だったって、もう分かるよ。
 だから、ふゆ。そんなに泣かないで。もう謝らな
 いで。
 でも、私が生きていた世界にふゆはいなかった。
 何で?………)

亡くなったはるが納骨され、実家から遠く離れた所に住むふゆが帰る日、ふゆは夫に子供たちを任せて、最後にもう一度はるちゃんに会ってくる、とお墓へ向かった。

お墓の前で、ふゆは必死に拝んでいた。
ふゆの手には、少し変わった数珠がかけてあった。
「私は自分の人生に悔いはありません。
十分に楽しかったし、幸せでした。
人を愛する事も、愛される事も知っています。
ですから、どうかどうか、はるちゃんに病気をしなかった人生を歩ませてあげて下さい。
どうか、お願いします。」

ふゆの声が耳に残ったまま、はるは目を覚ました。
そこは、自分の体の感覚がしっかりとある状態だった。
はるの目に映ったのは四季の顔だった。
「はるちゃん!良かった!目が覚めたんやな。
ちょっと待ってな。ナースコールするわ!」
「…私、どれくらい寝てたの?」
「ん?4時間くらいやな。はるちゃんの家族に連絡してくるわ!」と四季は病室を出た。
(4時間…それだけしか時間が経ってなかったのね)
その日は病院に泊まった。
はるは、病室で一晩中色々と考えた。
(私は死んで、そして今、生きてる。ふゆの人生と引き換えに。
ふゆが必死に願って今、こうなっている…
私はこれからの人生、このまま生きていいの?
四季さんと結婚していいの?

いいよ!いいに決まってる!
見たでしょ?私の終わってしまった人生はあんなんだったんだよ。
病気して、障がい者になって、最後は癌だなんて。
そんな終わり方ある?
ふゆも願ってくれたんだから、このまま進んでいいんだ。
そうよ!幸せになっていいんだ!
私は不幸だったんだから!

…不幸…だったのかしら…
私、不幸だったの?
お父さんは?
お母さんは?
妹たちは?
私を大事に、大切にしてくれたんじゃないの?
あれは、不幸だったの?
違う。
私は、愛された。そして、私も愛した。
私は不幸ではなかった。
幸せだった。
幸せだったんだよ、ふゆ。
あなたがそんなに苦しむ必要はないんだよ。)

翌日、仕事を休んだはるは、病院を出た後、ちょうど振り替えで休日だった四季と一緒にゆっくりと過ごした。
はるが今までコレクションした曲を流しながら、四季がコーヒーを淹れてくれた。
「はるちゃん、ほんまにもう大丈夫なんか?
明日も仕事、休んだほうがええんちゃう?」
温かいコーヒーカップを両手で包みながら、はるは
「大丈夫よ!お医者さんも言ってたじゃない。
ちょっとひどい貧血のようなものって。
今日一日ゆっくり休めば完全復活よ。
ねぇ、四季さん。結婚式の写真の前撮りなんだけど、少し早めてもいい?」と四季にたずねた。
「ええけど、またどうして?」
「ここ最近、四季さんにも心配かけちゃったけど、正直気分が落ちていたんだよね。
でも、そのおかげって言うのも変だけど少し痩せたから良い感じで写真が撮れるんじゃないかなぁっいう姑息な考えで!
どうせなら、綺麗な写真を残したいし!」
「まぁ、俺ははるちゃんがそうしたいなら、異論はないわ。」
「ありがとう。楽しみだなぁ!
よし!四季さん、夕飯何がいい?
時間もあるし、美味しい物、作ろう!」
暮れていく夕日を眺めながら、はるは幸せだった。

年が明けてすぐに、はると四季はウェディングドレスとタキシード姿で写真を撮った。
2人の思い出の場所である、富士山の湖畔で友人のまどかも来て賑やかに撮影が進んだ。
「まどかちゃん!どうや!俺の嫁さんは世界一のべっぴんさんやろ?」
「相変わらず、愛情表現がアメリカ人ですねぇ。
いいですか!日本は『うちの愚妻が』なんて言う国なんですよ。だから、会社でもあんまりのろけちゃだめですよ。
まぁ!はるは、めちゃめちゃ可愛いお嫁さんですけどね!」
「そおやろぉ!可愛いやろぉ!
でもな、日本もそろそろ『愚妻』とか、やめないかんね。奥ゆかしさは美徳やけど、
『ええもんは、ええ!』って言えたら日本人はもっと楽に生きていけるのにな。そう思わん?」
「その確かなDNAをまず残すところから始めて下さいよ!佐藤家の小さなコミュニティから日本を変えましょう!」
「おぉ!さすが、学校の先生!いいこと言わはる!」
はるは、2人の会話を聞きながら、湖に映る冬の富士山を見つめていた。
はるの中にある、大きな決断を確かなものにするために、しっかりと最後の富士山を目に焼き付けた。

2人の写真が送られて来て、それを写真立てに飾った次の日の朝、四季とはるはまどろみながら2人の未来について話をした。
「はるちゃんは、ええお母さんになるやろうなぁ。
優しくて温かくて、時に厳しくて。
でも、その厳しさはすべて愛なんや。
俺、全部想像出来るわ!
はるちゃんが子育てする姿を俺はいつもそばで見てるんや。」
「おいおい。見てるだけでは、ダメよ!
ちゃんと一緒に子育てしてくれないと!
夫婦の間に埋まらない溝が出来るのは子育て期間なんだって、先輩ママさんが言ってたよ。
子供が赤ちゃんの時は、お互い初めてだから大変で、これが永遠に続くような気がして途方に暮れるらしいんだけど、それは本当にいっときなんだって。でも、その一番大変な時にいかに旦那さんが協力してくれたかが重要だって。必ず終わるから、二人で一生懸命やりなさいって。だから、四季さん、頼みますよ!」
「やりますよ!やりますとも!
はるちゃんが励ましてくれたら俺、何でも出来る気がすんねん。だから、褒めてな。褒められて伸びるタイプやから!」
「子供を褒める前にまず旦那様か!
私もガンバロ。」
「はるちゃんは、どんなお母さんになりたいん?」
「そうねぇ。私はね、子供がすごーく安心して、夜眠りにつけるようにしてあげたい。翌日に何の心配もなく、安心して眠れる。それが、私にしてあげられる一番大事なことなんじゃないかなぁと思うんだよね。」
「はるちゃんらしいね。俺、それすごくええと思う。俺もはるちゃんの子供に生まれたい!」
四季ははるの胸に顔をうずめながらまた眠ってしまった。
はるは、四季の寝顔を見ていた。
出会った頃からずっと好きな首筋にそっと手をあてた。手をあてながら目を閉じ、はるは祈った。
(どうか、この人が幸せでありますように。
 幸せに生きて、そして人生を閉じる時、笑顔であ
 りますように。)
はるは、そっと部屋を出た。

はるは、本来自分が入っているはずのお墓の前に来ていた。
そこで最後の未練を断ち切るように、静かに目を閉じた。
ゆっくりと目を開き、手を合わせふゆに語りかけた。
「ふゆ、出て来て。
私はもう大丈夫だから、お願い出て来て。」
しばらくは、何も感じなかった。

きん、と一本の糸が張ったような感覚があり、そこから空気が一変した。
あきらかに今までの世界と違う空気が流れた。

目の前にふゆが立っていた。

「はるちゃん、どうして?何でここに来たの?
私の存在は、はるちゃんは知らないはずなのに…」
「私の中の本当の私が、すべてを見せてくれたの。思い出させてくれたの。
全部を思い出した時、ふゆへの愛情が一気に溢れて来たよ。
私は本当にふゆが可愛くて大切で、とても愛していたんだよ。
だから、ふゆを消し去ることなんて出来ないの。
それは、絶対に。
ねぇ、ふゆ。自分の人生と引き換えに私を生きさせようなんて、そんな事しなくて良かったのに。」
「でも私、耐えられなかったんだよ。
はるちゃんは優しくて賢くて、私なんかよりずっと素敵な人で、素晴らしい人生を歩んだはずなのに。
全部奪われたんだよ。小さい時から痛い思いをいっぱいして、毎日たくさんの薬を飲んで、発作にも苦しめられて。それで最後もあんなにつらい思いをして死んで行くなんて。耐えられない。耐えられないんだよ。
ねぇ、はるちゃん。いいんだよ!
はるちゃんが本来生きるはずだった人生を歩むことは何も悪いことじゃないんだよ。
だからお願い。お願いだから、帰って四季さんと結婚して。お願いします。」
ふゆの目からは止まることなく涙が流れていた。
「ふゆ、ありがとう。
あなたの気持ちは本当に嬉しいし、ふゆも迷って苦しんで、それでも決めてくれたんだよね?
でもね、ふゆはそれで良かったとして、あなたの3人の子供はどうなるの?
せっかくあなた達の元に生まれて来たのに、素晴らしい人生が待っているのに、それこそ、あなたにそれを奪う権利はあるの?それは罪ではないの?」
「でも…」
「よく考えて。あなたを消し去るという事はあの子達も消えるのよ。
せっかくこの世に誕生したのに。
あの子達、私にとっても本当に可愛い子達なのよ。実家に帰ってくると『はるちゃん!』って抱きついてくれて、お風呂も一緒に入ってくれて、お話もたくさんしてくれて。
最後に私の棺桶の中に、私の大好きな紅茶のあめを入れてくれたよ。お腹が空かないようにって。
優しく育っているよ。それは、ふゆが育てたからでしょ?これからも大切に育てなきゃ。
それに、子供は神様からの大切な預かりものなんだと思うの。いくら親だからって好きにして良い訳じゃないのよ。
私も出来る事なら、四季さんとの子供を育てて見たかった。
でも、それはあまりにも運命を大きく変えることになるから。だから、本当の私が知らせに来てくれたんだと思う。」
「はるちゃん、私、はるちゃんに残酷なことをしちゃったのかな?かえってつらい思いをさせてしまったのかな?」
ふゆは、嗚咽をもらしながら聞いた。
「ううん。私は幸せだったよ。本当に最高の幸せをふゆのおかげで味わえたよ。
大好きな本をたくさん読んで、それを仕事にも活かせて。大好きな音楽も体中溢れるくらい、浴びる事が出来たよ。
そして、四季さんにも会えた。
心から愛する事が出来たし、愛してもらう幸せも感じたよ。
私はもう十分なんだよ。十分に幸せだったよ。
それでね、ふゆに伝えておきたいんだけど、病気をした後の私の人生も幸せだったんだよ。
辛くて嫌な事なんて、ほんの少し。
大好きな人達に囲まれて、穏やかで静かな生活を私は愛していたの。満たされていたんだよ。だから、安心して。
私はふゆのおかげで二倍の人生、二倍の幸せを手に入れたの!
これはすごく特別で最高にラッキーなことよ!
ふゆ、本当にありがとう。
私は帰るね。本当の居場所に。
そこから、みんなを見守っているからね。
ふゆは、ふゆの居場所でやるべき事を一生懸命やって。それがあなたの生きる意味よ。
決して私のためにあなたは生まれたわけじゃない。
もう、その考えから解放されなさい。
そして、また会おうね。必ず会えるから。
その日まで、どうか生きて。」

はるは、泣きじゃくるふゆを抱きしめて、ふゆの手から数珠を外し、自分の手にかけた。

優しく暖かい風がふゆを包んだ。

合わせていた手の感触が戻り、ふゆは目を開けた。
「ままー!おむかえにきたよぉ〜!」
娘と息子がふゆの元へ駆け寄って来た。
「わたしも、はるちゃんになむなむする!」
とお姉ちゃんが手を合わせたので、弟もお姉ちゃんの横で同じように手を合わせ目を閉じた。
2人の姿を見るふゆの目に一筋、涙が流れた。
「はるちゃんに会えた?」
末っ子を抱っこして、ふゆの夫がそばに来た。
「うん。会えたよ。ありがとう…。
さぁ!帰ろう!」
ふゆは涙をぬぐって笑顔で言った。

季節は春。
川沿いを家族が賑やかに歩いていた。
先を走る男の子。
その後を小走りで追いかける母親。
そして、小さい女の子の手を引いてゆっくり歩く父親。
息子と手を繋いで待っていた母親がそっと手を伸ばし、父親の髪から花びらを取った。
「桜の花びら…。この近くに桜の木なんてあったかな?風が運んで来たのかしら?」
「春の風やろか。そういえば、気持ちの良い風が吹いてるもんな。」
「ぱぱー。だっこして〜。」
下から小さい女の子がバンザイをして待っている。
「よっしゃ!はる!肩車したろか!」
女の子は父親に抱き上げられ、ぐるぐる回され、キャッキャッと喜びながら父親の肩にすっぽりとおさまった。
「はるのかぜって、わたしのかぜ?
おなまえ、いっしょ?」
「そうやな!はると春。一緒や!
はるの名前は可愛くていい名前やろ。
ママがな、女の子がうまれたら絶対『はる』ってつけようって決めてたんやって。」
「そうよぉ!『はる』ってつけたら、絶対優しい子になるって、私確信してたの。これは間違いなかったでしょ?」
「ほんまに、そうや!」
「僕の名前は〜?」
「岳は、パパがつけたんや!大きくなったら一緒にでっかい山に登ろうな!」
この家族には笑顔が溢れていた。

優しい春の風が4人をつつみ、ゆっくりと流れていった。

                 







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