となりの億万長者【第7話】人に褒めてもらうための毎日を生きるな 自分のための毎日を生きろ
◆誰もいない公園で、ふと気づいたこと
ある日の午後。
近所の公園で、子どもを遊ばせながらベンチに座っていた。
いつも、公園で遊ぶのは30分と決めていた。
家の玄関を出るときには息子に「30分で帰るからね?」と言い聞かせていた。
だって時間は命と同じだから。
時間を無駄にするということは、命を無駄にすること。
だから、息子がもっと遊びたいとぐずれば
「もう時間だよ。帰るって約束したよね?どうして時間が守れないの?」と問い詰めていた。
今日は、特に帰る時間を決めていない。
私か息子が帰りたくなったら 話し合って帰ることにする。
それでいいと思った。
どうして「もっと遊びたいから遊ぶ」ことが「時間の無駄」と紐づいていたんだろう。
やりたいことを優先しない。やるべきことがあるよね?と どうして自分にも息子にも言い続けていたんだろう。
確かに時間を大切にすることは正しいことだけど、
時間を守ること・守らないことに ”誰かを裁いたり、優劣をつけるため”に時間を大切にするのなら、それは正しくない。
もう何年も、こんなふうに昼間からのんびりしている時間なんてなかった。
やらなきゃいけないこと、叶えたいこと、手に入れたいもの。そういうものがいっぱいあって、とにかくがむしゃらにいろんなことに手を出した。
それが 「すごいね」「行動力あるね」と みんなから褒めてもらえた。 それがうれしくて、もっと褒められたくて、がんばっていたのだと思う。
いつから 「やりたいからやる」と「もっとすごくなるためにやる」にすり替わってしまったんだろう。
取り組んでいても 結果が出ないようならすぐに飽きてしまうようになった。
人と比べて早く成果が出せるもの、高いクオリティで結果を出せるもの、得意なことばかり取り組むようになった。
「〇〇といえば君塚」と信頼を得るということ、専門家になるということ、プロになるということは そういうことだと信じて疑わなかった。
私にとって圧倒的に有利で勝てるところでしか勝負しないようになったし、
勝てる見込みが少ないところは 最初から手を出さない。
実にならないくだらない会合には行かない、学びや成長できない相手とは会わない。都合のいい人間になんかなるもんか。
・・・でも、それって 私がなりたかった私だったんだろうか。
◆ 結果にこだわりぬいた落とし穴
がんばった分だけ褒められたい。成果を出した分だけ、報われたい。
それはすごく自然な気持ちだったと思う。
だけど、その感覚に支配されていると、「報われなかったとき」に自分の存在そのものが否定されたような気持ちになる。
「やっても意味がなかった」
「もっと努力できたかもしれない」
「私には才能がないんだ」
──そんなふうに、自分を小さくしてしまう。
実は、成果を出していないときの自分も、何も変わっていない。
ただ、表に出ている結果が違うだけ。
それなのに、「全力を出して取り組んだにもかかわらず 結果を出せないということは そもそも才能がないっていうこと」という事実に打ちのめされていた。
できないということは 良いことであるはずがないし
うすうす『自分は何をやってもそこそこしかできない』と思っていたから
すごく すごく傷ついてしまったの。
よく考えたら できないくらいで
いちいち良いの悪いのと判断を持ち出すこと自体が意味ないし
特別な才能はなくても、何をやっても そこそこはできるのだから、そこを活かせば良いだけのことなのにね
◆ 見せたい自分と、見せたくない自分のこと
誰でも同じだと思うけど、わざわざ気分が悪くなるような話はしない。
そりゃあ、胸の奥にためていたものをぶちまけるのは 言った側はすっきりするかもしれないけど、聞かされた側にしてみれば 感情のゴミ箱にされたようなもんだ。
お互い様かもしれないけど、日常的には そういうことはあんまりしない。
華やかな人間関係、キラキラしている日常、楽しい仕事。
そういう順調に見える人だって、当たり前に誰にも見せられないような涙を流していたりする。
言いかけて飲み込む言葉もたくさんある。
そういうもんだ。
天気だって晴れの日や、雨の日があるように。
見せたい自分と、見せたくない自分。そのギャップを埋めようとして、さらにがんばって、また疲れるのは 多かれ少なかれ誰だって経験あるでしょう。
それだけのことなのだ。
よくある通常運転で、本気になって取り組むことじゃないのだ。
◆「人に褒めてもらいたい」は「自分を誇りたい」の裏返し
人に褒めてもらいたかったのは、自分を誇りたかったから。
「すごいね」って言ってもらえると、「ちゃんとできてる私」になれるような気がした。
”気がする”だけの、勘違いなんだけど。
自分を誇るのに、誰かの称賛なんていらなかったんだ。
苦しかったこと、情けなかったこと、全部ひっくるめて、それでも歩いてきた自分を──誇りたい。
自分を誇りたい、なんてことを考えるようになったのは やはりおじさんの影響なんだけど。
おじさんが しょっちゅう聞いてきたのは
「自分を誇れる?」だった。
自分を誇る・・・って あんまり考えたことない。
あんまりなじみのない日本語だし。
それでも おじさんは 何度も聞いてきた。
ずっと「よくわかんない」と返していた。
だけど、あるとき「自分に自信が持てないから 難しいと思う」と答えたことがある。
すぐさま(ほんとに 秒で。なんならかぶせ気味に)
「自信と誇りは関係ない!!」と言ってきたのよ。
「自信があるかじゃないよ。
自分を誇れるって、自分を愛してるかい?ってことだから!!!」
それはそれは
すげえ 衝撃だった。
私を愛したい。私を誇りたいなあ。
“自信”と“誇り”は違う。だから、私はもう「自信がないから挑戦できない」なんて言い訳しなくていいんだ。
今までどうだったかとか
何ができたのかじゃなくて
自分に愛されながら 私は自分のやりたいことをやるんだね。
◆自分を誇る、から始める
誇りとは、誰かに見せるものじゃなく、自分の中に持っている灯のようなもの。
結果が出なくても、誰にも気づかれなくても、今日も息子を起こして、ごはんをつくって、締め切りのある仕事に向き合っている。
それって、立派なことだ。
私の毎日は、誰かの評価のためじゃなく、私が私を愛するためにある。
「あなたはどうしたいの?」と、いつも私に問いかけてくれるあの公園のベンチに、今日も私は座っている。
◆そして人生は続く。これからの毎日へ
いつか、また疲れて、心細い気持ちにのみこまれてしまったら
誰かに褒めてほしくなる日が来るかもしれない。
でも、そのときも、今日みたいにベンチに座って、自分の声を聞いてみようと思う。
「どうしたい?」 「何が大事?」 「それ、本当にやりたいこと?」
褒められなくても、結果が出なくても、私が私の人生を愛して誇れるように。
自分のための毎日を、かけぬけていけばいいんだ。
──つづく。
