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空気読み過ぎは最強の武器。教室の沈黙と「損な役回り」の先にあったもの。

学生時代、クラスの話し合いが止まり、時計の針の音だけがやけに大きく聞こえるあの時間。

誰も目を合わせようとせず、下を向いたり、筆箱をいじったりして「誰かが犠牲になる」のを待っている。

あの重苦しい沈黙が、私は何よりも苦手だった。

気がつくと、いつも右手を挙げていた。

心臓がどきどきして出そうになりながら、

「……じゃあ、私がやります」

グループリーダー、体育委員、みんなの意見をまとめる発表係。

決してやりたかったわけじゃない。

むしろ苦手。

ただ、空気が濁っていくことに耐えられなかっただけ。

でも私の一言で、教室に溜まっていた重たい空気がフワッと霧散していく。

クラスメイトの安堵したため息。

先生の満足げな顔。

それらを確認して初めて、私の心拍数もようやく落ち着きを取り戻した。

誰よりも早く空気が濁るのを察知して、自分を差し出すことでその場を収めてしまう。

そんな、いわゆる「空気読みすぎ」な生徒だった私が、大人になってようやく気づいたことがあります。あの頃の損は、今の私にとってどんな意味を持っていたのか。




その「損」が少しずつ色を変え始めたのは、中学生の頃のあるきっかけからでした。

担任に勧められて、なんとなく始めた生徒会。

最初はこれも、誰かがやらなきゃいけない役回りの延長線上に過ぎなかったのかもしれない。

でも、自分の些細な気づきが、学校行事を動かす力になる。

誰かが困っていることに先回りして動くことが、ここでは「損」ではなく「役割」として認められる。

あんなに気まずさを嫌っていた私が、いつの間にか、自ら進んで人前に出るようになっていた。

楽しかった。

自分が自分として、その場にいていいんだと思えた。

けど、だからといって、クラスの中での私が急に変われたわけではありませんでした。

教室に戻れば、相変わらず私は「空気を読みすぎる」生徒のまま。

話し合いが止まれば気まずさに耐えられず、結局みんなが嫌がる損な役回りを引き受けてしまう。

それでも、生徒会という別の居場所で「自分を役立てる心地よさ」を知ったことは、私の中で大きな光になりました。

教室で引き受ける「損」は変わらなくても、それを受け止める私の心持ちが、少しずつ、でも確実に変化していったのです。

だから、高校に入学してからも、迷わず生徒会に入った。

自分を役立てる心地よさを知ったから。

それは、誰かの役に立っているという実感が、私の過敏なセンサーを疲れから喜びに変えてくれた瞬間でもありました。

そんな風に夢中で過ごした時間は、私に一つの気付きをくれました。

振り返ってみれば、あの頃の私が必死に読み取ろうとしていた空気の正体は、誰かが抱えていた小さな困りごとや不安だったんだと思います。

生徒会で、誰かのために企画を練ったり、学校を少しでも良くしようと動いたりした時間。

それは、私が持っていた過敏なまでのセンサーが、初めてポジティブな方向に、そして誰かの笑顔のために発揮された経験でした。

そして今、私は看護師として働いています。

患者さんの顔色のわずかな変化。

ナースコールの向こう側に漂う、言葉にならない不安。

あるいは、多忙なチームの中で誰かが抱え込んでいる、目に見えない負担。

「あ、今、何かが違う」

その直感は、あの頃、教室の沈黙に耐えられなかった私が必死に磨いてきた、生存戦略のような繊細さから生まれています。

かつては自分を疲れさせるだけだと思っていたそのセンサーが、今は誰かの命や暮らしを守るための、大切な武器になりました。

……なんて、格好いいことばかりではありません。

正直に言えば、看護師になった今でも、私は相変わらず損な役回りを引き受けています。

会議で誰も手を挙げない時、ちょっと面倒な仕事が浮いている時。

誰も名乗り出なそうな気配を察知すると、気づけばまた「……私、やります」と言ってしまっている自分がいます。

でも、昔の私と今の私が決定的に違うのは、引き受けた後の気持ちです。

「気まずさから逃げるために、自分を犠牲にした」という苦い感覚ではなく、「この場の空気を整えるために、自分の力を少し貸そう」と、自分の意志で選んでいる。

そう思えるようになったのは、あの頃、生徒会で知った「自分を役立てる心地よさ」があったからです。

正直、昔の自分とやっていること自体は変わっていない。

でも、最近思うんです。

成長とは、性格が変わることではない。

そして、「断れるようになること」だけが成長でもない。

「つい引き受けてしまう自分の性質」を認め、それを誰かのために、あるいは自分の納得のために前向きに使いこなせるようになること。

それもまた、立派な成長のひとつではないでしょうか。

そう思えるようになってから、私の過敏なセンサーは、私を削るものではなく、私と誰かをつなぐ大切な武器になりました。

もちろん、一人で抱え込みそうになる夜もあります。

日記を開いて、ふう、と溜まった息を吐き出すこともあります。

でも、今の私は知っています。

あの時、勇気を出して手を挙げた私。

ドキドキしながらも、生徒会に入った私。

そんな過去の私がいてくれたから、今の私は、目の前の人の「声にならない声」に気づくことができるのだと。

「損な役回りばかりだったね。でも、本当によく頑張ったね」

そう心の中で声をかけて、私は明日もまた、誰かの小さな変化に気づくために、患者さんとスタッフの空気をそっと読み取っていく。

かつての私が守りたかった、あの穏やかな空気を取り戻すために。

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