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深海の雫は、太陽に焦がされていく#32 俺も、行く

第7話「水の都へ」 #32  俺も、行く


三月の休暇に入ってすぐ、アルフォンスは、フェルドラクの邸に戻った。
執務室へ続く長い廊下には、歴代当主の肖像画が並んでいる。鎧の男。剣を提げた男。その誰もが、笑っていない。フェルドラク家は、帝国の盾だった。剣ではなく、盾。守るために在る家の当主たちは、額縁の中からも、背後の何かを守るように前を見据えている。

その廊下の突き当たりで、父は待っていた。

「アクアニアへ、行きたいと」

侯爵エルハルトは、書類から顔を上げずに言った。ハンスを通して先に届けさせた申し出を、父はすでに読んでいた。

「遊学の名目で。三月のあいだ」

「許可しない」

即答だった。感情のない、冷徹な声。それから父は、ようやく顔を上げて、理由を三つ順に並べた。

「一つ。名目がない。フェルドラクの嫡男が、時節のよくない隣国へ渡る遊学など、どの筋に対しても説明が立たない。二つ。嫡男の分を越える。お前の身はお前のものではない。この家と、この家が守るものに属している。三つ。危険だ。あちらの水は、帝国の魔導の常識の外にある」

反論は、できなかった。
どれも、正しかった。名目の話も、分の話も、危険の話も——当主として、父として、何ひとつ間違っていない。理屈で挑めば、十のうち十、父が勝つ。それが分かるくらいには、アルフォンスは、この家の嫡男として育てられていた。

「……理由を、聞かん」

父が、書類へ視線を戻しながら言った。

「どうせ、口にできる類のものではないのだろう」

図星だった。あの子が行くから。それだけの理由を、この執務室で通る言葉に翻訳する術を、アルフォンスは持っていなかった。
理由なら、実は、もうひとつあった。あって——それこそ、口にできる類のものではなかった。
半年前、旧図書室へ続く廊下でのことだ。聞くつもりのなかった言葉を、聞いてしまった。あの国の王家が、長いあいだ何を欲しがってきたのか。誰を、欲しがってきたのか。立ち聞きだった。
だから父に言えず、本人には、なおさら言えない。言えない理由が、胸の中で二枚、重なっていた。

沈黙が、落ちた。

暖炉の火が、静かに燃えている。この部屋の火は、いつも正しく燃える。はみ出さず、揺れず、決められた薪を決められた速さで。
その火を見ながら、アルフォンスは、口を開いた。

「……許可を、いただきに来たのではありません」

父の手が、止まった。

「決めたことを、申し上げに来ました。——俺も、行く」
俺、という言葉がこの執務室で出たのは、初めてだった。敬語の鎧が、その一言だけ、剥がれた。誰が行くから「も」なのかを、父は問わない。問わないまま、長いあいだ、アルフォンスを見ていた。

「……理屈では、私が正しい」

やがて、父は言った。

「分かっていて、逆らうか」

「はい」

「フェルドラクの名に、傷をつけるな。それから」

父は、視線を書類へ戻した。

「戻ったら、話がある」

それだけだった。許しでは、なかった。黙認とも、違う。ただ、父と自分のあいだに細い線が一本、入ったのが分かった。折れてはいない。割れてもいない。でも、確かに入った線だった。
一礼して、執務室を出た。廊下の肖像画たちが、笑わない目で、それを見ていた。

正規の手続きで渡る道は、ない。名目のない嫡男に、船も通行証も出ない。
その手配を整えたのは、ハンスだった。

「渡りは、つけてございます」

学院へ戻る馬車の中で、ハンスは、一枚の文を差し出した。港の名と、三日後の夜明けの刻限と、船の名。そして、手配人の署名。

——ゼノ・フェルシーア。

忘れるはずのない、名前だった。
夏の、麦畑の家。水路の見回りから、土まみれの手で戻ってきた、緩く束ねた金茶の髪の男。気軽に片手を挙げながら、その水色の瞳だけは、一拍で人を測り終える目をしていた。抑えることをやめた水の魔力が、夕方の空気をちりちりと騒がせていた。あれは強い弱いの話ではなく、格の話だった。あの目に測られたとき、自分の背筋が勝手に伸びたのを、アルフォンスは覚えている。

あの男が、なぜ。
妹のためか。それとも、あの夕方の続きで、まだ何かを測っているのか。考えても、答えの出る相手ではなかった。

「なぜ、この男が動く」

「……さて。手前にも、分かりかねます」

ハンスの返事は、そこまでだった。分からないまま、乗るしかない船だった。

「ハンス」

「はい」

「お前は、残っていい」

「——お供いたします」

即答だった。何もしない、と言った日の主の返事と、同じ速さだった。見れば、馬車の荷台には、もう二人分の旅支度が積んであった。

あの子の船は、明日の朝、発つ。
こちらの船は、三日後の夜明け。同じ水の都へ、別々の航路で。

あの子は、知らない国へ行くのだと思っている。たぶん、そうではない。あちらは——あちらの水の国は、あの子を知っている側なのだ。そう言い切りそうになって、アルフォンスは言葉を途中で仕舞った。

アルフォンスは、革手袋の上から、自分の右手を一度だけ握った。
理屈では、父が正しい。それでも行くと決めた自分を、正しいと言ってくれるものは、まだどこにもない。ないままで、行く。

窓の外を、春の近い野が流れていった。






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