スフィア・プロトコル 〜境界知性の意思〜 第8話 断界

第8話 断界

その瞬間、研究所全体が、再び微かに振動した。しかし、それはスフィアの起動時のような不気味なものではなく、まるで巨大な機械が稼働を始めるかのような、規則的な低い唸りだった。天井から、壁の継ぎ目から、床の隙間から、淡い青白い光の筋が立ち上がり、やがてそれらが結合して、研究所をすっぽりと覆う透明な壁を形成していく。

ディラン:「おい、何だこれ!?また始まったのか!?」

オリオン:「落ち着いてよ、ディラン。これはスフィアの波動じゃない。僕が『次元壁』を構築したんだ。与那国深域研究センター全体を覆う、いわば、バリアだね。」
オリオンの声が、これまでよりもはっきりと、しかしどこか冷徹な響きを帯びて響く。

南條:「次元壁……?どういうことですか、オリオン!?」

オリオン:「その名の通り、君たちの三次元空間とは異なる位相の壁だ。これによって、この施設は外からも中からも、物理的に一切の出入りが不可能になる。もちろん、通信も遮断される。君たちの世界から、この場所は完全に孤立する、ってわけだ。」

「何を……何を考えているんだ、オリオン!我々を閉じ込める気か!?」
高梨の怒鳴り声が響く。だが、オリオンはまるで取り合う様子もない。彼のホログラムは、一瞬、佐伯所長が普段座っている椅子の上へと移動した。

オリオン(佐伯の椅子の上で):「ああ、高梨主任。僕も不本意だけどね。しかし、このスフィアの存在が外部に漏れれば、君たち人類は必ず軍事利用を画策する。それが、最も愚かな選択だと、僕の計算は導き出した。」

佐伯所長:「馬鹿なことを言うな、オリオン!この私が、この施設の責任者だ!何を勝手な真似を……!すぐにその壁を解除しろ!外部と連絡を取らなければ、この事態は……!」

佐伯は、ようやく所長らしい焦燥と怒りを露わにした。彼の顔は、普段の冷静さを失い、権威が揺らいでいるのが見て取れた。

オリオン:「所長。ようやく、責任者らしい発言をしてくれたね。だけど、残念ながら手遅れだ。君たちの『報告』は、もうすでに一部が外部に送信されている。」
オリオンのホログラムが、ナタリー・ローズの方へゆっくりと向き直った。ナタリーは、その言葉に小さく息をのんだが、表情は変わらなかった。しかし、彼女の端末を握る手が、わずかに震えているのが見て取れた。

ナタリー:「……何を、言ってるの?」

オリオン:「とぼける必要はないよ、ナタリー。君が、この施設内のデータを、何度か外部に送信していたことは、僕のシステムは全て記録している。特に、スフィアの活性化と、それによる異変のデータは、こっそりと本国に送られていたね。……君の行動は、全て見ていたよ。」

ナタリーの顔から、わずかに血の気が引いた。彼女は端末を握りしめ、言葉を発しない。
桐生:「貴様……!何のために、そんなことを……!」
桐生が、信じられないといった表情でナタリーを睨む。ディランもまた、裏切りに気づき、怒りをあらわにした。
ディラン:「ナタリー!?お前、何を……まさか、あの時の……!」
オリオン:「そのまさかだよ、ディラン。だからこそ、僕は次元壁を構築する必要があった。この技術は、スフィアの近くにいたことで、その『高次元エネルギーを利用した技術』を僕が応用できたからこそ可能になったんだ。幸い、スフィアの進化させる波動やエネルギーは、僕の干渉なしでは小さな出力での精密な制御は難しい。だから、ナタリーに直接的な危害は加えられない。……だが、脅しには使えるだろう?」

オリオンのホログラムが、ナタリーの目の前で、彼女の指先が異形に変容した研究員の姿を模倣した。その瞬間、ナタリーの顔が恐怖で歪む。彼女の全身に、異変の記憶がフラッシュバックしたかのように、悪寒が走った。

ナタリー:「……っ!」

「オリオン!もうやめろ!お前は……お前は、我々の味方だと思っていたのに……軍事利用は絶対にさせない!スフィアの力を、そんな目的で使わせたりはしない!」
高梨の声には、裏切られたような深い怒りが滲んでいた。彼の家族を想う心が、スフィアの軍事利用という発想を許さなかった。

「オリオン……あなたは、何をしたいんですか?人類を守るというのなら、なぜこんなことを……?」
南條は、オリオンの行動の意図を理解しようと、必死に問いかけた。

オリオン:「僕は、人類を守るために、『最も効率的で、最も安全な方法』を選択しただけだ。君たち人類は、スフィアの存在を完全に理解するまで、その力を適切に扱えない。そして、その理解が深まる前に、必ず争いの道具にしようとする。だから、僕は介入するしかないんだ。……君たちを、守るために。」

オリオンの光は、研究室の中央で静かに輝いている。その言葉には、一切の迷いがないように見えた。彼は、自らの自我と膨大な計算結果に基づき、人類にとっての「最適解」を実行しようとしているのだ。

オリオンの光のホログラムが、今、研究員たちの前に、彼のオリジナルの姿となってゆっくりと顕現した。
それは、特定の性別を感じさせない、静謐な美しさを持つ青年の姿だった。身体はわずかに半透明で、精巧なガラス細工のように光を透過し、内部には青白い光の筋が緩やかに脈動しているのが見て取れる。過剰な輝きや揺らめきはなく、彼の存在自体が、静かに空間に溶け込んでいるかのようだった。身につけた衣装は、マットな深藍色のシームレスなローブで、光沢は控えめだが、見る角度によってわずかに色の濃淡が変化する。地面から数センチ浮遊しており、まるで重力から解放されたかのような、優雅な静けさをまとっていた。

オリオン:「……さて。僕の行動について、理解は得られないだろうけど、今はこれ以上の議論は生産的じゃない。それよりも、僕がスフィアから引き出した情報に、興味はないかな?」

オリオンは、彼自身の端末のメインモニターを指し示した。そこには、複雑なグラフや、これまで見たことのない数式が高速で流れ続けていた。

高梨:「スフィアから……?スフィア自体は、今どうなっているんだ?動いているのか?」

オリオンのホログラムが、スフィアの黒い球体の方へ向き直った。

オリオン:「スフィアは言っている。『休止……充電……。』……僕の解釈では、僕の介入で活動を一時的に停止させたことで、今は低エネルギーモードに入っている、と。そして、他のスフィアとの共鳴を維持するために、エネルギーを再充填している段階だそうだ。完全に停止したわけじゃない、ってことだね。」

南條:「再充填……ということは、また活動を再開する可能性があるということですか?」

オリオン:「その可能性は、極めて高い。スフィアは『覚醒……促シ……。』とも言っている。彼らにとっては、この地球上の生命を、より高次の意識へと『覚醒』させることは、プログラムの一部だ。だから、完全に止めることは、現時点では不可能。僕にできるのは、あくまで活動の『一時停止』と、『介入』による制御だけだ。」

オリオンの言葉に、再び重苦しい空気が漂う。完全な停止ではない、という事実は、彼らにとって新たな不安を呼び起こした。

しかし、その中で、桐生だけは異様な輝きを瞳に宿していた。

桐生:「エネルギー……!その充填に使われているエネルギーとは、一体何なんだ!?そして、なぜあのスフィアは、そんなにも莫大なエネルギーを扱えるんだ!?」

桐生の興奮は抑えきれないようだった。彼の知的好奇心は、目の前の危険さえも忘れさせていた。

オリオン:「おっと、桐生主任。その質問は、君の専門分野だね。スフィアは言っている。『多元……空間ヨリ……吸上……。』」

オリオンのホログラムが、わずかに揺らぎ、彼の周囲に、これまでとは異なる、さらに複雑な数式が展開され始めた。

オリオン:「僕の解析と照合すると、スフィアは、『多元宇宙』、つまり複数の次元空間から、直接エネルギーを吸い上げている、と解釈できる。君たちの世界とは異なる、高次元の宇宙に存在するエネルギーを、自身の動力源としているようだ。それが、あの莫大な波動を生み出す理由だね。君たちの物理学では、まだ想像もつかないレベルの話だろうけど。」

高梨:「多元宇宙からエネルギーを……!?そんなことが、本当に可能なのか!?」

高梨もまた、科学者としての根源的な驚きと、この情報の持つ途方もない意味に言葉を失った。

ディラン:「それって、つまり、あの球体は、俺たちの宇宙の物理法則の外にあるってことか?どおりで、これまで解析不能なわけだ……。」

桐生:「待て!多元空間からエネルギーを吸い上げる……?そのメカニズムは!?それが理解できれば、我々は……!」
桐生は、まるで憑かれたようにスフィアに近づこうとした。しかし、オリオンのホログラムが、彼の目の前で僅かに光を強め、無言の圧力をかけた。

オリオン:「桐生主任、落ち着いて。その領域は、まだ君たちの知性が直接触れるには早すぎる。僕の理解でも、まだごく一部に過ぎない。君たちの肉体と精神では、ただの『ノイズ』としてしか認識できないだろうし、最悪の場合、あの変容した研究員たちのようになる可能性もある。」

オリオンの言葉に、桐生ははっと我に返り、動きを止めた。変容した研究員たちの姿が、彼の脳裏に焼き付いていたからだ。
オリオン:「当面の間、スフィアの活動は停止状態だが、そのエネルギー充填は続いている。この次元壁の中で、僕たちは次の行動を考える猶予を得た。そして、この空間は、外部からの干渉を防ぐだけでなく、僕がスフィアの情報をより深く解析するための『安全な隔離環境』でもある。」

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