【短編集‐花の冠】第二〇話『風を運ぶ者(二)』
風を運ぶ者(二)―グラージュ―
本を手にしたとき、風の気配が変わった。
図書館の扉の前に立ち、本を胸に抱えて、ゆっくりと手をかける。
重たい扉が軋み、わずかに開いた隙間から、湿った空気が流れ込んできた。
血と、土と、鉄の匂い――
懐かしさよりも先に、皮膚がざらつく。
戦場の気配が肺の奥を刺した。
扉が開かれる。
風が吹き抜けたその瞬間、世界が反転し、景色が切り替わった。
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砂埃と荒れた地平。
遠くで響く馬のいななき。
日が沈む前、軍の野営地の音と匂い。
記憶が見せようとしているのは、俺とフェイルが出会った、あの夜だ。
あの頃の俺には、功績だけが積み上げられていった。
敵の首をいくつも取り、俺の名は自軍にも敵軍にも知れ渡っていた。
しかし、そこに敬意も温情もなかった。
ただ恐れと蔑みだけがあった。
滅ぼされた他国から連れてこられた奴隷。
敵を討つために仕立てられた、使い捨ての兵器。
戦場の外でも兵士は武具を持つが、俺にはそれを許されなかった。
俺の生きる場所は、常に最前線だった。
軍の中ですら、俺の顔や肌を見た者は、黙り込み、視線を逸らした。
便利で、危険な猛獣。首輪をつけられていないだけ、まだマシだった。
兵の輪に加わることも、焚き火を囲むこともなかった。
食事すら、地面に投げ置かれたものを拾った。
そんな荒んだ前線に、一人だけ、妙な男がいた。
フェイル。
領主の息子だという話だったが、それにしては身なりも粗末で、やたらと陽に焼けていた。いずれにせよ、変わり者だった。
その夜、フェイルは当たり前のように、俺の横に腰を下ろした。
「そこ、空いてるか?」
それが、俺たちの最初の会話だった。
「……座る場所なら、他にいくらでもある」
「あんたの隣がいいんだ」
返答はせず、俺は目の前の乾いたパンを口に運んだ。
フェイルは黙って隣に座ると、干し肉を取り出し、半分にちぎった。
「これ、なかなかうまいんだ」
俺は、そんな上等なものを口にしたことがなかった。
「……なにが狙いだ?」
「狙い? なんだそれ?」
そう言って、フェイルは干し肉の半分を自分の口に投げ入れた。少なくとも、毒ではなさそうだった。
俺は手を伸ばし、もう半分を受け取った。
夜が訪れ、焚き火がゆらゆらと揺れる。
風が吹く。どこか遠くから、死者の気配を運ぶような風だった。
その中で、俺たちはただ黙って、食事をした。
それだけの時間。それだけのことなのに、俺は久しぶりに「人」としてそこにいた。
「お前さ」
フェイルがぽつりと呟いた。
「笑うと、けっこういい顔すると思うぞ」
「……笑いなど知らぬ」
「人の心は生まれたときから笑いを知っているんだ。
別に今じゃなくていいから、今度笑ってくれよ」
「笑い方を知らんのだ」
「大丈夫だって。じゃあ、とっておきのネタを用意しておくよ」
焚き火に照らされた見えたフェイルの笑顔は、俺には眩しく見えた。

それは、確かに俺とフェイルが出会った夜だった。
さっきの風が、俺の記憶を運んできたのだろう。
そして、新たな風が吹いた。
それは、また別の記憶の扉を叩こうとしていた。
《続く》
