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仕事で満たされるとはどういうことか|相手の負荷を減らす仕事論、その先にある違和感

聴覚障がいを通して得た工夫や気づきを、日常や仕事に生かせる形で発信中。


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結果:「仕事ができる」とは何かを、能力ではなく周囲への影響から捉え直せるようになる。また、それだけでは埋まりきらない感覚の正体についても考えられる。
対象:仕事を通じて自分の人生を前に進めたい人
所要:8分


仕事をしていると、
「もっと成長したい」とか
「市場価値を上げたい」とか、
そういう言葉に触れる場面は、かなり多いはずです。

実際、自分でもそう思うし、そこに違和感があるわけではありません。

昨日より少しでもマシでいたいし、
どうせ働くなら多少なりとも前に進んでいたい。

そう思うのは、たぶんかなり自然なことだと思います。

ただ、その流れの中で、前からずっと引っかかっていたことがありました。

私は昔、スキルを高めれば、そのまま「仕事ができる人」に近づけるとわりと素直に信じていました。

でも、現実はそんなに単純ではなかった。

知識もあり、論理も通っていて、本人もちゃんと努力しているのに、一緒に仕事をするとどこか重い人がいる。

逆に、突出したスキルがあるようには見えなくても「あの人がいると助かる」と言われる人もいる。

この差は、単なる能力の違いだけでは、どうも説明しきれない気がしていました。




人は能力ではなく、「一緒に仕事すると楽かどうか」で相手を見ている

この違和感をかなりきれいに言語化してくれたのが、『仕事ができる人の頭のなか』でした。

本書が「仕事ができる人」を定義していたのが、次の一文でした。

仕事ができる人とは、相手の負荷を減らせる人である

ここでいう「負荷」は、
一般的にイメージされる作業量や時間ではなく、むしろ、考えたり、理解したり、判断したりすることにかかる脳の負担です。

たとえば、仕事を頼まれたときに、

  • 前提が整理されていて

  • 必要な情報がそろっていて

  • 次に何をすればいいかが見えている状態

だと、人はかなり楽に動けます。

逆に、

  • 話は聞いたけど論点が散らばっている

  • 前提が抜けている

  • 結局何をすればいいのか自分で組み立てないといけない状態

だと、それだけでじわじわ消耗する。

ここは、少し面白いところで、人は
「何もわからない状態」よりも、
「中途半端にわかる状態」のほうが疲れることがあります。

全部ないなら聞けばいい。でも半分だけあると、残りを自分で補完しないといけないからです。

この差は目に見えません。
でも、積み重なると確実に効いてきます。

だから、少し言い切ると、こうなる。

仕事ができる人は、スキルが高い人ではない。
相手の思考を前に進める人だ。

ここまで来ると、
評価の基準も少し見えてきます。

人は能力そのものより、

「この人と仕事をすると自分の頭がどれだけ楽になるか」

で相手を見ている。

少しドライですが、
たぶんかなり本質に近いのではと思います。


「ちゃんとやったのに評価されない」のはなぜか

この前提に立つと、
「ちゃんとやっているのに評価されない」
という現象も説明がつきそうです。

本書の言葉を借りると、
「言われたことだけをやるのは、まだ作業者である」。

これ、私も普通にやります。
頼まれた資料を期限内に返して、
「ちゃんとやりましたよね」という顔で終わる。

そこまでは別にいいんです。
問題はその先です。

そのアウトプットを受け取った相手が、

「で、どう判断すればいいんだっけ」

と考え直しているなら、負荷は減っていない。
処理がこちらから相手に移っただけです。

逆に、資料を見た瞬間に

  • 論点が整理されていて

  • 判断の材料が揃っていて

  • 次に何をすればいいかが自然に見える

こういう状態になっていれば、
相手はほとんど迷わない。

つまり、仕事の価値は
「何をやったか」ではなく、
「それによって相手がどれだけ迷わなくなったか」で決まる。

ここは頭で理解できていても、
実際にやるのはなかなか難しいんですよね。

だからこそ差になるのだと思います。


スキルがあるのに重い人は、どこでズレているのか

この話で一番厄介なのは、
「スキルがあるのにズレる」ことです。

本書では、

  • 言語化力

  • 論理的思考力

  • コミュニケーション力

  • 対立しない力

  • 行動力

といった5つの力が挙げられていました。
どれも自己啓発本ではおなじみのテーマです。

でも、この本の面白さはそこから先でした。

大事なのは、
それを持っているかどうかではなく、
「相手の負荷を減らすために使われているかどうか」で評価される、
という話だからです。

例えば、

言語化力は、自分が賢く見えるためのものではなく、相手が理解しやすくなるためのもの。

論理的思考力も、自分の正しさを証明するためではなく、相手が判断しやすい形に整理するためのもの。

コミュニケーション力も、単に感じよく話す力ではなく、相手とのやり取りをなめらかにして、余計な摩擦や確認コストを減らすもの。

・・・と見たほうが自然です。

ここを取り違えると、能力はあるのに一緒に仕事をすると疲れる人になる。

話はうまいのに長い。
正しいのにめんどくさい。
細かいのに前に進まない。

そして、こういう人は評価されにくい。

人は「理解しやすい人」に安心し、
「考えなくていい人」に価値を感じるからです。

たぶん私も昔はその一人だったな、と普通に反省しています。
今も油断するとかなり怪しいですが。


自己成長が、逆に評価を下げることがある

ここで少し、自分の話を挟みます。

昔、「もっとスキルを伸ばさなきゃ」と思って、

いろんな本を読んだり、
プログラミングスクールに通ったりしながら、

意識的に学習量を増やしていた時期がありました。

今思えば、かなりシゴデキになりたい人でした。

今もたぶんそういう欲はあるんですが、
当時はもっと素直でした。

知識は増えたし、
アウトプットの精度も上がった。

自分としては前に進んでいる感覚がありました。

少し思い込みも入っていたかもしれませんが、
それでも愚直に取り組んでいました。

でも、結果は微妙でした。

評価が下がったわけではない。
ただ、「あの人がいると助かる」という感じにもならない。

要するに、
手応えと評価の間にズレがある状態でした。

今振り返ると、その原因は単純です。

その成長が

「自分の中で完結していた」

からだと思います。

確かにスキルは上がっている。

でも、それによって周りが楽になったわけではないし、チームが前に進みやすくなったわけでもない。

だから、傍から見ると、
思ったほど価値にはなっていなかった。

ここで初めて気づきました。

自己成長は、
放っておくと自分のための成長になる。

そして、それは必ずしも評価にはつながらない。


市場価値を上げたいなら、先に周りを楽にしてみる

今の時代に市場価値を意識するのは自然ですし、それ自体は正しいかと思います。

会社に尽くせば雇用の安定が保障される、
という前提が弱くなった以上、

自分の力をどう持つかを考えるのはごく自然なことだと思います。

ただ、現実として評価やキャリア機会を引き寄せるのは、「この人に任せると前に進む」と思われる人なんですよね。

なぜなら、
仕事は誰かの思考や判断を通して進むからです。

その負担を減らせる人は、それだけで価値がある。

どうせ市場価値を上げたいんだったら、
先に周りを楽にする側へ回ったほうがいい。

遠回りに見えますが、順番としては、
たぶんそのほうがいいかもしれません。

自分を磨いた結果として評価される、
というより、

周りを前に進めた結果として
信頼や経験が集まり、

それが後から市場価値に変わる。

ここを取り違えると、
努力しているのに報われない状態にハマってしまいそうです。


人は「意味」だけでは動かないのかもしれない

ここまでの話は、かなり実務的で、再現性も高いと思います。

仕事論としてはかなり強い。

ただ、それでも引っかかるんです。

正直に言うと、

「それだけで人は満たされるのか?」
という問いです。

今の働き方は合理的です。

仕事の意味を考える。
効率を重視する。
再現性のある力を持つ。

会社も会社で、
パーパスとか社会的意義とか、
ちゃんと意味を提示してきます。

頭ではわかる。
理屈も通っている。

でも、それで感情まで動くかというと、
別の話だったりする。

ここ、ありませんか?

頭では納得しているのに、体があまり動かない感じ。

正しいと理解したことと、心が動くことは、
どうも別らしい。

一度立ち止まると、
記憶に残っているのは別の時間だったりします。

無我夢中で取り組んだ時間だったり、

結果がどうなるかわからない中で全力を出した瞬間だったり、

誰かの真剣さに引っ張られて自分も本気になってしまった場面だったり。

そういう時間って、
あとから思い返すと妙に残るんですよね。

逆に、効率よく、きれいに終わった仕事は大事だけど、感情の記憶としては薄かったりする。

この差は、やはり少し引っかかるのです。

あくまでも仮説ですが、
人が本当に求めているのは、「意味」そのものというより、

自分が深く入り込んでいた感覚なのではないか

と思うことがあります。

ちゃんと関わって、
ちゃんと消耗して、
結果が見えなくても
自分の時間や気力をそこに注いでいた、

あの感じです。

損得や効率で眺めているときではなく、
自分が中に入っていたときの感覚、

と言ったほうが近いかもしれません。


なぜ、その感覚に入りにくくなったのか

ただ、今の働き方は、
この「入り込む感覚」に入りにくい構造になっているようにも感じます。

目的や理由をあまりにも考えすぎると、
衝動で動く余地が減ります。

「それって何の意味があるのか」
と考えること自体は大事ですが、

その問いを先に通しすぎると、
まだ意味になっていないものに手を伸ばしにくくなる。

効率を重視しすぎると、遊びや遠回りが消えます。

遠回りにはムダもありますが、
そのムダの中でしか見えないことも本当はあるはず
です。

さらに、常に一歩引いて考えることに慣れると、没頭すること自体が難しくなる

俯瞰する力は大事です。でも、ずっと外側に立っていると、中に入る感覚は弱くなる

これも少し認知科学っぽい話ですが、

人は自分を観察しているときと、
自分が没頭しているときとで、

意識のモードがかなり違う気がします。

常に「今の自分はどう見えているか」を気にしている状態だと、うまく中に入れない。

つまり、便利なメタ認知が、没頭の邪魔をする。

皮肉ですが、たぶんそういうことはある。

どれも必要な力です。そこは否定できません。

むしろ、社会人としては身につけたほうがいいものばかりです。

でも、それらが全部そろうと、

人は「全力で入り込む状態」から少し遠ざかってしまうのではないか

とも思います。


だから、最後は態度の問題になる

ここまでいっておいてなんですが、
これといった解決策はありません。

理性も必要だし、
効率も必要だし、
俯瞰も必要です。

全部捨てるわけにはいかない。

その上で、
それでもやると決めるしかない場面がある。

意味も理解している。合理性もわかっている。
それでも、あえて飛び込む。

ここはスキルの問題ではなく、
ほぼ態度の問題なんだと思います。

うまく説明できるからやるのではなく、
説明しきれなくても自分を入れる。

そういう選択が、ときどき必要になる。

たぶん、仕事ができる人になることと、
満たされることは、少し違う課題だと思います。

でも、その両方を考え続けること自体には意味がある気がしています。


仕事は合理で回る。でも、人はそれだけでは満たされない

ここまで考えると、
この本が教えてくれた「周りの負荷を減らす」という仕事観と、
そこでは埋まりきらない感覚は、矛盾しているようでいて、
実は両立するのではないかとも思います。

仕事では、周りを楽にする側に回る。
これは外さないほうがいい。

かなり強いし、再現性もある。

でも、人生全体で見ると、
それだけでは少し乾いてしまう。

だから、ときどきは
自分が没頭に入っていく時間も必要になる。

日常は、基本的にはグレーでいいと思います。

毎日が充実している必要もないし、
いつも何かに燃えていなければいけないわけでもない。

ただ、その中に
「あのときは本気だった」と言える時間がいくつかあるかどうか

それだけで、
仕事の見え方も、人生の受け止め方も、少し変わるのではないでしょうか。

少なくとも私は、今のところそう考えています。

まだ途中ですが、このテーマは、もう少し考え続けると思います。



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