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日本の受験の在り方を問うー塾バイトで会った中学生たち─【前編】

これは、私が一瞬だけ先生だった頃の話です。

3年半勤めた塾講師のバイトを辞めました。
突然ですが、私は日本の教育、受験という制度の在り方に対して強い違和感、憤りを持っています。正直、理不尽が過ぎると思っています。
そんな教育の下でも一生懸命にやっている現役の中高生たちを目の当たりにして感じたことを、ここでは綴っていきます。


バイトに応募した日

お金が欲しかったので、塾の先生のバイトをしてみようと思い立った。
なぜ塾講師かと言われると、なんとなく「先生」というものをやってみたいという野望と、自分が小・中・高で勉強してきた中で得られたものは誰かの役に立つのかもしれない、誰かに還元されるかもしれないという、ぼんやりとした期待であった。

実家から少し距離のある、受験受験とガツガツしていなくて、スーツを着なくて良い、保護者対応をしなくて良い塾をひたすら探した。
バイトの応募の電話をすると、ケータイの向こうから

ゴロゴロ……ピカーーーッ!!! 
ザーーーー!!!

という激しい雷鳴と大雨の音が聞こえ、その中から細々と男性の声が耳元にかすかに届いた。
私がバイトの電話をした時、塾長はちょうど長野の山中で暴風雨に見舞われていたのだった。

生徒との交流

面接に無事通り、塾のバイトにありつくことができた。教科は主に数学と英語、定期テスト前に限り、国・理・社も追加。生徒は小・中学生、高校生と幅広いが、いちばん多いのは中学生。
業務内容はただ一つ。生徒に勉強を教えること。覚えるべきポイントや、テストで出やすいところを教えたり、わからない問題を生徒にわかるように解説することが仕事だった。

この塾は、成績優秀な生徒を寄せ集めて鎬を削り合わせるような場所ではない。どちらかというと、毎度の定期テストで点数を確保し、推薦を貰えるように頑張ろうという方向性の生徒が多い塾である。
つまり、勉強を苦手とするタイプの子が多い。

自分より5歳以上も年下の生徒たちとどう関われば良いのか、最初はわからなかったし、不安に思っていた。せめて自分が気を付けられることは何だろうと考えた時に、辿り着いた答えは、生徒がどんなに理解できなくても、「なんでわからないの?」「さっきも言ったよね?」ということは絶対に口にしないようにしようということだった。勉強が苦手な子は、そのような言葉を何度も、うんざりするほど浴びてきているだろうから。
どんなに解説をわかって貰えなくても、平然とした顔を保ち、決して馬鹿にしたり笑ったりせず、趣向を変えて説明するように意識した。

中高生は特に、勉強本来の楽しさだけを味わっていられるような場合ではない。どうしたって成績や進路に気を揉まずにはいられない。多くの人にとって苦痛であろう勉強の時間が、せめて塾にいる時だけでも、できるだけ楽しいものであるように、変に先生ぶらず、大人ぶらず、教科書の中の文字列をできるだけ現実的に、身近にあるものとして感じられるように、友達に対するような態度でいるように努めた。なるべく楽しい話をして、関心を持って貰えるように。

ありがたいことに、生徒とは思いのほか仲良くなれた。

休憩時間に毎回話しかけてくれる子もいたし、ファッションデザイナーになりたくて、いつも服のデザイン画を描いている子もいた。年相応の生意気なガキみたいな子もいれば、お勧めの漫画を布教してくれた子もいた(その後、無事に「どうしてくれるんだ…、私もハマってしまったではないか……!」と泣きつくこととなった)。
あと、壁ドンでガラスを割るヤツはまだ令和にもいるんだと知って安心した。

過去の自分に似て、何を訊いても返事らしい返事がなく、静かに頷くだけの子も多かった。自分も昔は、接点の少ない大人に対して人見知りをしていた記憶があるので、怠惰なのではなく、彼らが本当にただシャイなだけなのだということがわかってしまう。そこで昔の自分と重ねて、懐かしい気持ちになることも多かった。
それでも、そういう子が少しずつ、「はい」という返事だけであったとしても喋るようになっていって、自らわからない問題の質問をしてくれるようになってくれるのが嬉しかった。

日本の受験の在り方:誰のための教育?

日本の受験の良いところといえば、裕福な人も貧しい人も関係なく、ペーパーテスト1枚で実力を図るという圧倒的な公平性である。金が無かろうとコネが無かろうと、懸命に努力してその場で結果さえ出せれば誰でも合格できるという最大のロマンである。

こういった代えの効かない利点もあるので、受験という制度自体を否定するつもりは全くない。問題は、受験制度を機能させていくことが最も優先されるべき目的と化していて、生徒一人ひとりの成長に対してどのような教育を注ぐかという問題が二の次になっていることである。

近年は都市部を中心に小学校受験、中学受験の勢いも過熱しているが、ここでは小学校6年、中学校3年、受験を経て3年間の高校生活に入る、というルートを辿る場合を想定する。
特に、高校受験を前にする中学校、大学受験という大きなイベントが控える高校のカリキュラムは、ほぼ受験のために組み込まれていると言っても過言ではない。それは、受験という制度を維持していくために作られたカリキュラムである。殆ど全ての生徒は受験というシステムによって篩にかけられる。教育が生徒の成長に合わせていくのではなく、生徒の方が受験というシステムに適合していかなくてはならない。

当たり前だが、人間の脳の成長には個人差がある。しかし、教室で大勢の子どもを相手に1人の大人が教育を施すとなると、多様な子どもたちの成長に合わせるのには限界がある。その成長を可視化するために"成績"というものがあって、その成績に基づいて生徒を成長レベル別に分けて進学させるのが受験である。
生まれた年を基準に一旦子どもを同じレーンの上に並べて、それから分けていく。このやうな画一的な手法では、学校の授業についていけない子どもは、徹底的に置いて行かれる。学校内での救済措置が整備されていないからである。

塾バイトで頻繁に目の当たりにしたのは、勉強を苦手とする生徒たちの自己肯定感の低さであった。

「自分、(学年順位が)下から数えた方が早いんですよ」
「もうこの先ダメだ」
「自分バカなんで」

そんな言葉を生徒の口から何度も聞いた。まるで、自分という人間はこの世の中ではこれくらいの価値もないのだと、自分の将来にはあまり期待しないほうが良いのだと、心の奥底から湧き上がった諦念をふつふつと醸成させているようだった。

とはいえ、実際の生徒たちは、彼らが言うほど価値の低い人間であるようには見えないのである。

たとえば、多くの友達に恵まれるほど社交性のある子がいる。YouTubeで雑学を色々学んでは私に紹介してくれる、知的好奇心旺盛な子がいる。絵を描くのが得意な子、バレエが得意な子、バスケ部のエースとして活躍している子、ポケモンが尋常でないくらいに強い子、勉強が苦手でも、わからない問題に対して静かにきちんと向き合おうとする努力家な子もいる。不登校であっても、足が速くて体育祭に出れば確実に徒競走で1位を搔っ攫ってくるという子もいた。
成績では測れない何物にも代えられない強み、各々の魅力を皆持っているのだから、それほど悲観的にならなくても良いと思うのである。

しかし、数年後の未来には受験という避けては通れない篩にかけられることがわかっていて、どんなに他に強みがあったとしても、学校という場所が評価する基準は結局"成績"であり、いちばん肝心なのは"成績"なのだと、生徒たちは知っているし、わかりすぎるほどわかっている。

全ての生徒が成績に基づいて、学年順位や偏差値という形で全ての生徒が序列化される。多くの人がそれを、自分という人間の相対的な価値だと勘違いしてしまう。それが自身の喪失につながる。

「自分はダメだ」「お先真っ暗だ」

そんな劣等感を持ち続けてしまう。
受験というシステムを維持するために、学校は生徒の学力をテストの点数、偏差値、学年順位などと数値化して、それを評価の基準にせざるを得なくなる。1日の中でも最も長い時間を過ごす学校の中で、ほとんど学業しか評価軸が無いとなると、子どもたちはそれを"自分という人間自身の評価"と思い込んでしまう。結局、「自分はダメなんだ」という劣等感を抱えてしまう。

「勉強できる子はいいんじゃないの?」という声もあるだろう。

もちろん私のバイトしていた塾にも、勉強が得意な生徒はいた。勉強が得意な子どもにとってみれば、テストの点数や学年順位、偏差値などの数字がもたらす印象は、勉強が苦手な子どもにとってのそれと正反対であろう。自分はできるのだ、という自己肯定感の向上につながり、友達と競争して切磋琢磨する余裕もあるかもしれない。

しかし、「"勉強ができるから"今のところ評価されている」のであって、途中で授業についていけなくなってしまったり、他者から「この子は勉強ができない」と認定されたりしようものなら、自分の立ち位置は即座に下落し、「優秀な生徒」という安全圏から爪弾きにされる。そんなプレッシャーを感じざるを得ない。それは、学校において生徒を評価する基準が、殆ど成績という数値しかないということを、彼らもわかっているからである。

何よりも、「勉強ができる人が上」「受験で勝った人が上」という価値観を刷り込ませることにつながりかねない。

勉強すること増えすぎ問題:生徒の負担、軽視されてない?

塾のバイトで考えさせられたのは、今の中学生が私が中学生だった時よりも勉強することが増えているということだった。

それを特に顕著に感じたのは、英語であった。

生徒に英語を教えていると、大学受験をした自分でも初見の単語や熟語に出くわすことが何度もあった。
ある日には、中学3年生の英語のテキストに「消火器 fire extinguisher」という単語が載っているのに仰天して、

「え、ナニコレ"fire extinguisher"なんて初めて見たよ? 大丈夫! こんなの知らなくても大学受かるから!」

と、思わず中学3年生の女の子に謎の激励を送ってしまった。そして「今の中学英語難しいね~」と言って時間を稼ぎながら、発音がわからないので慌ててGoogleに頼るのである。

初見ではないにしても、私が高校生の時に習った単語の多くが、中学の勉強範囲に下りてきていると感じた。despite / inspite ofの違いに苦戦している中学3年生に教えつつ、

(それ私が高2かどっかで習ったやつなんだけどな……)

と、内心で現役中学生の労力を憐れんでいた。

私が中学生だった当時も、中学英語の難化については既に警鐘が鳴らされていた。しかし、自分が大人になった今の実態を覗いてみると、その難化はさらに進行していて、とどまることを知らない状態であった。

英語教育の早期化で、小学生も英語を勉強しているのを初めて見た時は衝撃だった。私は主に中学生の授業を担当していたので、高校生の実態はあまりよくわからない。しかし、2025年度の共通テストから「情報」科目が追加されているように、生徒の負担が増え続けているのは変わりないであろう。

カリキュラムは増える一方で、恐ろしいことに、一向に減らない。

さらに言えば、私の住む地域では高校受験の試験日が早期化していた。
私が中学生だった頃よりも、生徒たちは早く受験から解放されることになった。しかし、学内での定期テストの回数が変わらなかったため、テスト同士の間隔が狭くなり、生徒たちは目まぐるしいテストのインターバルに追われることとなった。

机に向かう中学生、高校生らを眺めながら、キャスター付きの椅子の上でよく考えさせられた。
よく寝て食べて動くべき、大人として体が作られていく人生の中でも最も大切な時期に、そんなに長時間椅子に座って勉強することがこの子たちのために本当に必要なことなのだろうか。
そもそもなぜ学校で勉強した後も、また塾で勉強しなければならないのだろうか。

日々変動が絶えず予測のつかない世界情勢の中で、これからの日本の発展のために、

「英語ができる人材が増えて欲しい」

「情報機器、ITに強い人材が増えて欲しい」

そんな大人たちの要求。これからの日本を担う子供たちに対して、大人が求めることが多すぎるのだ。あれもできて欲しい。これもできて欲しい。

その視点は子どもたちを「これからの日本を発展させるため」の"部品"として、"生産物"としてしか見ていないのではないか?
もちろん、国が発展しようとしなければ医療・社会福祉なども機能しなくなってしまうので、この視点が180度間違っているとは思わない。しかし、国の機能としては正しくても、子どもを"人材"ではなく、一人の人間として扱おうという視点に立つと、それは本当に正しいことをしていると言えるのだろうか。
だってここには、学校の勉強に追いつくのに必死な子、成績や将来に対する不安を抱えている子がいっぱいいて、自分を過小評価する子がたくさんいるのに。「眠い」「疲れた」「自分はダメだ」、そんな声がたくさん聞こえるのに。

現場を見ていれば、大人の過剰な要求ばかりが優先され、生徒の負担が蔑ろにされているのは明白である。

「学生は勉強が本分なのだからいいじゃない」

それで済まされる程度のものであろうか。「学生は勉強するものだ」という概念に全てが投じられ過ぎてはいないだろうか。学生は、労働をしない代わりに勉強する身分、存在、否。それ以前に、大人への成長過程にある人間の子どもである。

そんな子どもたちにとって本当に必要なのは、大量の課題を与えることよりも、長時間机に向かって勉強させることよりも、成長期に合わせた食事、十分な睡眠時間、体を動かす機会、色々な人と関わることから得られる学びではないだろうか。

ここまで(前編)のまとめ

10代の子どもたちにとって、本当に大切なことは何だろう。

殆どの日本の大人は、受験という制度に合わせてカリキュラムを組み込まれた教育を受けてきている。故に、そうでない形の教育を身をもって経験した人は数少ない。受験勉強を前提とした教育が当たり前過ぎて、それ以外の教育の存在を想像すらしたことも無い人だっているだろう。
誰もが1年かけて入学試験のために勉強をするという文化が、世界共通なものだと無意識的に思い込んでいて、それが必ずしも当たり前ではないということを17歳になるまで知らなかった、かつての私のように。

だからこそ、
「当たり前」「普通のこと」「みんなそうやって大人になった」
そういった認識で妥協してはいけない。

自分たちが受けた教育は、本当に正しかったのだろうか。
そこを疑ってみなければ、何も変わらない。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます!!
もう少し主張が続くので、気になる方は次回も見てみてください……!

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