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「読まれる記事」を考える

noteには、読まれる記事の書き方がたくさん出てきます。 「誰かの悩みを解決しましょう」 「検索で引っかかるタイトルにしましょう」 「冒頭で結論を言いましょう」 「共感を集めて、最後に学びを渡しましょう」

なるほど、よくできたテンプレートです。 でも、あれを読んで思ってしまうんです。「それ、僕がやる意味ありますか?」って。

たとえば、「こんなことで悩んでいませんか?」と書き出す記事。 あれ、だいたい“自分が悩んでたこと”じゃないですよね。 「こうすればラクになりますよ」と言っているその人は、 実際は“それでラクになった”というより、“そう言った方が読まれる”って思って書いてる。

いや、別に悪いとは思いません。 ちゃんと読者を想像して、求められるものを差し出すのはすごいことです。 でも、それって「読まれるために自分を組み替える」ってことでもあると思うんです。

僕には、それができなかった。 やろうとしたことはあります。 きちんと読者の立場に立って、 「誰かの役に立ちたい」みたいな顔をして、文章を書きました。

でも、気づいたら自分の声が消えていたんです。 “書いた”というより、“配置した”感じでした。 書き終えても何も残らなかった。「誰が書いたんだこれ?」とすら思った。 それが誰かに読まれても、なんだか空っぽの拍手を受け取っているようで、 ちっともうれしくなかったんです。

それでようやくわかりました。 僕は、「読まれる記事」を書きたいんじゃない。 「僕が書きたい記事を、ちゃんと読まれたい」んだと。

それはたぶん、とてもわがままなことなんでしょう。 世の中には、ちゃんと読者のことを考えて文章を作ってる人がたくさんいます。 そういう人たちが評価されていくのは当然だし、僕もそれを否定するつもりはありません。

でも、自分の中身をいじってまで届きたいとは思わないんです。 僕が僕として書いたものでなければ、届いたって意味がない。 だったらいっそ、届かなくても構わないとさえ思ってしまう。

……と、強がって言えるほど、達観してるわけじゃありません。 やっぱり、読まれたいんです。読まれたいに決まってます。 スキがついたらうれしいし、感想をもらえたら天にも昇る。 読まれなくて悔しい日もあるし、自分の文章に自信が持てなくなる日もあります。

それでも、書き方を変えたくないんです。 その“変えなさ”の中に、ようやく残った自分がいるから。 読まれるために言葉を磨くのはいいと思う。でも、 読まれるために“何を書くか”を曲げるのは、僕にはできません。

noteが教えてくれる「正しい書き方」は、 ある意味では“あなたの書きたいものに価値はない”と言っているようにも聞こえます。 「読者の悩みに答えろ」って? そんなの、答えられる悩みにしか届かないですよ。

それに、誰かの悩みにピッタリ寄り添える言葉なんて、 そうそう都合よく出てくるもんじゃないと思うんです。 その代わりに僕が出すのは、“自分が悩んだ言葉”です。 それを誰かが「自分のことみたい」と感じてくれたら、それがいちばん自然な共感じゃないでしょうか。

僕は、誰かの悩みを解決するnoteは書けません。 でも、自分の中で引っかかったことを、引っかかったまま書くことはできます。 その引っかかりを、誰かが自分の中のトゲと重ねてくれるかもしれない。 そういう形でしか、共感なんて生まれない気がしているんです。

だから今日も、読まれるためじゃなく書きたいから書きます。 でもそれを、読んでほしいと思ってます。 都合のいいことを言ってるのはわかってます。 でも、その都合のよさを、自分で引き受けたうえで、文章を書いているつもりです。

だから、もしこのnoteを最後まで読んでくれた人がいたら、 本当にありがとうございます。 あなたに何も解決は渡せないけれど、 僕の文章を、読んでくれたという事実だけで、今日はちゃんと書いてよかったと思えます。


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皮肉屋ジョー🎭世の中まぜるな危険 牛乳を買います

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