夜 灯境
昼に歩いたはずの道だった。
石畳の感触も、
潮の匂いも、
覚えている。
それなのに、
夜の街は、まるで違う場所のように感じられた。
同じはずの建物は、少し距離を取り、
昼には賑わっていた通りは、
人の気配を失っている。
歩いているのは自分だけなのに、
「誰かに見送られている」ような感覚があった。
両脇に並ぶ店々は、どこも閉じている。
けれど、灯りだけは残っていた。
大小も、形も、国も異なるランプが、
道沿いに静かに置かれている。
強くは光らない。
呼び止めもしない。
ただ、
「ここは夜だ」と
何度も、確かめるように告げてくる。
その先に、扉があった。
昼に見た覚えは、ない。
けれど、不思議と
初めて見る気もしなかった。
扉を押すと、
音が、ひとつ消えた。
中は暗く、
天井から吊るされたランプの灯りが、
ゆっくりと空気を照らしている。
席は一人がけのソファばかりで、
深く、柔らかい。

腰を下ろすと、
体の重さを思い出す。
声をかける前に、
背後で、足音がした。
昼の店主とは、違う。
同じ店のはずなのに、
彼は、最初からそこにいたような顔で立っていた。
夜の空気のように澄んだ肌。
風に晒されたような髪。
年齢は分からない。

「……冷める前に」
それだけ言って、
マグカップを置いた。
厚みのある陶器。
両手で包むと、
温かさが逃げない。
中身は、ミルクだった。
けれど、昼の飲み物とは違う。
光を透かさない、
夜の色をしている。

ひと口飲むと、
味は、ほとんどしなかった。
甘さも、苦さも、
はっきりとは分からない。
ただ、
胸の奥に溜まっていたものが、
静かに沈んでいく。
「これは」
彼は、ランプの方を見る。
「何かを忘れるためのものじゃない」
揺れる灯りが、
マグカップの縁をなぞる。
「連れて帰らないための飲み物だ」
それ以上、何も言わなかった。
問いかけても、
引き留めても、
きっと答えは返らない。
そういう夜なのだと、
自然に分かった。
飲み干す頃には、
昼の街の輪郭が、
少しずつ曖昧になっていた。
店を出ると、
扉は、もう見当たらない。
ランプも、
いつの間にか消えている。
それでも、
胸の奥に残った温かさだけは、
まだ、確かだった。
昼と夜は、
同じ場所にある。
けれど、
同じ人が立つ場所ではない。
別れのための時間は、
静かに用意されている。
つづく
あとがき
昼に歩いた道と、
夜に辿り着いた場所は、
確かに同じはずでした。
それでも、
夜の街は、
まるで初めて訪れた場所のように感じられます。
同じ景色でも、
時間が変わると、
そこに立つ意味が変わる。
この島の夜は、
何かを始めるためのものではなく、
何かを置いていくための時間でした。
忘れるためでも、
切り離すためでもなく、
ただ、連れて行かないと決めるだけ。
そんな別れ方も、
あっていいのだと思います。
この物語が、
今日の終わりに、
静かに息を整える時間になっていたなら幸いです。
