【東京エッセイ14】誰でも良い男 誰かが良い男
二元論。
この世には、二種類の男がいる。
誰でも良いと思う男と誰かが良いと思う男だ。
誰かが良いとは、特定の人が良いという意味だ。
特定とは、ひとりの人だ。
それが未だ見ぬ人の場合もある。
実際に存在していることもある。
架空の、想像上の、ということもあるだろう。
いずれにしても、誰かというのは、この人、と思い定めた人のことだ。
そしてもう片方の、誰でも良いというのは、文字通りの意味で、付加することはない。
とまあ、二元論で片付けると、こうなる。
随分と乱暴な整理の仕方だなあ、と思う。
と、ここまで書いて、僕は後ろを振り返り、テーブルの下を見た。
伯父さんの姿はなかった。
ここ最近、こんな風に書いていると、伯父さんがどこからともなく現れて、好き勝手言って、ふいと消えることがあったから、少し気にしていたようだ。
もう少しだけ、筆を進める。
類型化し体系化することは、物事の理解に役に立つ。
科学的論考も、その方法に従う。
ただ、なんとなく思うのは、線的面的な整理の仕方かなあ、と。
物事の整理はシンプルが望ましいけれど、そもそも整理できないほど複雑化して、多様化して、フラクタル化しているものを、ハイ、これはこう、ああ、ソレね、ソレは、こう、なんて一束にしていくのは、どうなのかな?と疑問が生まれる。
経験則というのがある。
経験に従って、物事を認識して理解して整理してすることだ。
人は多くの場合、そうして暮らしている。
大抵の場合、それで上手くいく。
ただ、大抵の場合だけだ。
大抵の場合上手くいくなら、それでいいじゃん。と、思う。僕も時々は与する。
ただなあ…それは心の貧困を惹起するように思うんだよね。
おっと、言葉がぞんざいになった。
失礼。
自らの経験や知識の限界をきちんとわきまえること、それが品のある態度のような気がする…ということなのかもしれない。
わきまえる、というのは弁えると書く。
物事に存する(潜んである)けじめを、これがそうだと見分ける。弁別する。特に、道理などを十分に心得る。
「身のほどを―・えない高望み」
礼節をわきまえる、というのもそうだろう。
ぷっ。
笑い声。
振り返ると伯父さんがニヤニヤして立っていた。
