【エッセイ】入れ歯を持ち去るネズミと計算の速い母
母は、薬を飲んだことをすぐに忘れる。 「さっき飲んだよ」と言うと、 「飲んでいない」と怒り出す。
入れ歯の置き場所も忘れる。 冷蔵庫の中から出てくることがある。 理由を聞くと、 「ネズミにとられるから」と真顔で言う。
そんな母なのに、計算だけは驚くほど速い。
テレビで芸能人が「八十五歳です」と言うと、 母はすぐに頭の中で計算を始める。 「昭和○○年生まれやね」と、 まるで昔からの癖のように、すらすらと言い当てる。
逆に、昭和の年号を聞けば、 「今は何歳になるんやろ」とまた計算が始まる。 その速さには、今でも感心する。
なのに、なぜ薬は忘れるのか。 なぜ入れ歯を失くすのか。 なぜ自分の居場所までわからなくなるのか。
できることと、できないこと。 残るものと、こぼれ落ちていくもの。 その境目が、老いの中では不思議なほど入り混じる。
母の頭の中では、 長い年月をかけて固まった回路だけが、 まだしっかりと光っているのかもしれない。
そして、今日もまた、 母はテレビを見ながら、 昭和の年号を軽やかに計算している。
母は今日も真顔で「ネズミに入れ歯を取られた」と言う。 その表情を見ていると、もしかしたら本当にネズミが持っていったのでは―― そんな気さえしてくる。
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※画像はAIで生成したものを使用しています。
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