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ReStart:020 敬う心、神々はそこらかしこに

「あっ…」
「あ、いえ、、大丈夫です…」

「はい、ありがとうございます。」




長く使ったものに宿るという「付喪神」というものが日本にはいるという。
神とついているけど、妖怪でもあるらしい。

妖怪もまあ超越的な何かという存在でいえば
神様みたいなもので、、
それでいうと、世の中には神様が溢れていると言ってもいいのだろう。

長く物を使うほどに念がこもり、それ自体が神のような、妖怪のような。
そんな存在となり日常の中にあると感じる時がある。

ただ、現代は使い捨て、大量消費と大量生産の時代。
付喪神も立ち入るスキがなくなってきているのかもしれない。

食べ物だって、昔ほど捨てても残しても何も言われなくなった。
食べ物の神様もだいぶ寛大になったもんだ。

今の時代、食べ残してバチでもあてたら、
コンプライアンスの神に呼び出されめんどくさいことになるのかもしれない。神界も色々気にする時代なのだろう。


長く使う「物」に付喪神のような超越的な念のようなものが宿る。


信心深い方でも無いし、スピリチュアルとかパワースポットに、
そこまで興味があるわけでもないけれど、 
縁起担ぎという感覚は好きだし、困った時や悩んだ時の神頼みや、
自分の感覚の範疇を超える何かに対する興味や、そういった超越的なものを感じる感覚や思考は大事にしたいなと思っている。

自然が作り出した景色、山々や川、渓谷などに感じる畏怖の念。
農作物や漁、畜産などの食べ物の恵みへの感謝。
太陽や雨、風、雷など、自然そのものへの仰望の感覚。


日常の神様は身近にあって、いろんなところに見いだせる気がする。
まぁ、神を宿らせるのはそれぞれが好きにすればいいってことなんだけど、

なにか、神様を人間が宿らせるっていう感覚の、根本がある気がしている。

神様が宿ってるから、神様になるんじゃなくて、
人間が宿らせるから神様がそこにあるんじゃないかな。
漠然と、そんなことを考える。

神様を宿すって、
それそのものに対する、全面的な「敬い」の投影なのかもしれない。

そんなことを、ふわふわと感じている。

そう、ふわふわしている。
ジョッキで4杯目、いい気持ちだ。

今、目の前にある、お手拭きだって敬って使えば
そこに、お手拭きの神が宿るのだ。

「ありがとう、お手拭きさん」心の中でそっと伝える。

壁にかかったメニュー表をみながら、
居酒屋の神様に聞いてみる。

今日の当たりのメニューはどれですか?

こころに念じると、「枝豆が間違いないね」
と声が聞こえる。
そりゃそうです、神様ありがとう。

神様は冒険をしない、常に間違いのない答えを下さる。

のかもしれない。


「お客様は神様です」という言葉が揶揄されるが、
あれだって、敬いのこころで接するということだ、
その逆もしかり、お客さんの立場でみたら店員さんだって
敬って接すれば神様ということになる。

敬うという行為は、人間関係という以上に大事な概念なんだろうな。
そんなことを感じた。

目の前で、焼き鳥を焼く、焼き鳥屋の店主は、物腰はやわらかだが、威風堂々と、まるで神のようだ。
このうまい焼き鳥を焼く姿には尊敬しかない。

これは、もはや何かの啓示なのではないか。
いや、至極当たり前のことに改めて、この歳で気が付いたのかもしれない。

神様は敬いの心をもてば、あらゆる”物”に宿っていく。
そして、その行為は、自分と世界のあらゆるものの接点となり、
”自分”という存在が世界の中に”敬われていく相互の関係性”を築けていけるのかもしれないな。そんな風に感じた。

何か暖かい気持ちになって、ジョッキをもう一杯頼む。

隣の奥さんは、ウーロン茶を飲みながら天井にぶら下がったテレビを見ている。

カウンターの向こうでは、鶏が部位に分けられて、串に刺され並んでいる。
感謝の念を送り、その光景に敬いの気持ちを感じる。

そして、取り皿を見遣る。
おれは、居酒屋の取り皿が好きだ。
この取り皿には、取り分けた食材やソースなどが折り重なっている。

そこには、俺だけの世界、俺だけの時間が詰まっている。
そして、皿への敬いの気持ちが神を宿すのだ。


愛おしい。
少し遠くにおいてこの皿を眺めてみよう。




「あっ…」
「あ、いえ、、大丈夫です…」

「はい、ありがとうございます。」


気の利いた店員さんがやってきて、取り皿を新しいものと変えていく。
気の利いてる神のような店員さんは、動きも機敏だ。
見まがうことなく、私の皿の神は、神の店員に美しく合祀された。


おれは、先ほどまでの皿の神へ感謝の念を込め。
そして新しい皿を、敬いのこころで見つめている。

隣の奥さんは、相変わらず、壁にぶら下がったテレビを見つめていて、
店員さんは神のような動きをして、注文をとっている。
店主は神のように焼き鳥を焼き、そのわきで
鶏たちはその命を燃やし、我々に喜びと感謝の念を芽生えさせている。


「ねえ、なんの番組やってんの?」
「え?なんかパワースポットのお寺だって、ここいってみたい」


すべてが敬いの世界なのだ。


ある、夜更けの、路地の傍らの小さな話である。


明日も良い一日でありますように


あとがき

たまに行く、お気に入りの焼き鳥屋でふと考えた神様という概念。感謝の気持ちは大事だが、そのもっと上流の根源的な源流とは何かと考えて、「敬い」という感覚があるなあと、ふわふわと考えてみた。
あくまで、個人的な感覚だし、人にとってはどうでもいい話なんだけど、何かこれからの自分にとって大事なことのように思えて、日記にしてみた。
敬いの心をもって接することは、心を豊かにするような気がする。
ちなみに、これまでも敬いという心は持っていたけれど、それを日常使いするまでにはいたっていなかったと思う。日常使いができればいいなと思う。
ちなみに、神々の物語である古事記では、神々同士がそれぞれに敬っているようには思えない。神々は勝手であるが、やはり神様だから仕方ない。

トピック

  • 日本には付喪神という思想文化がある

  • 神様は「宿っている」のではなく「宿らせている」

  • 神々が集う路地裏の片隅で、敬うことに気が付く


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