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種火 〜契約12社、動いたのは一人だけ〜

桂川です。才流のコンサルタント兼パートナー戦略研究会の主宰者として活動中。2025年に出版した書籍『パートナービジネス戦略 基本と実践』は界隈の経営者やパートナーセールス、事業開発の方から必読書との声をいただき、著者冥利に尽きる思いです。

ビジネス短編小説、今回のテーマは、パートナービジネスにおける「オンボーディング」。

まずはあらすじを読んでみてください。気になったら一気読み!
1.2万字、気づけば読み終わっている没入感。ぜひお読みください。

――契約書の数だけ、火が灯るわけじゃない。 新規パートナー12社と契約したSaaSベンダーのパートナーセールス・早瀬航平、31歳。契約から92日、代理店からの紹介案件はゼロ。「次の契約はどうなってる」と迫る本部長に、早瀬は12社への公平な支援を捨て、たった3社への集中を賭ける。 40の商材に埋もれた自社サービス。カバンから出てこない完璧な資料。一人の若手営業の野心に火を灯す、90日の勝負が始まる。 最終章「熱狂の設計者」——最初の一人が売れた瞬間、組織は動き出す。ただしその熱の裏で、灯せなかった火がひとつ。


登場人物紹介

早瀬航平(はやせ こうへい)31歳 セイルポート パートナー推進部。クラウド福利厚生サービスの販売パートナー12社を担当する。前職は事務機メーカーの直販営業。胸ポケットに祖父の形見の銀のオイルライターを入れている。煙草は吸わない。

真壁敏行(まかべ としゆき)48歳 セイルポート営業本部長。中期経営計画で「パートナー網100社」を役員会に約束した。口癖は「公平に、面で」。15年前、ある販売代理店に深入りして事業を潰しかけた過去を持つ。

篠原拓海(しのはら たくみ)27歳 三雲事務機の営業。入社5年目。複合機とオフィス什器が主戦場で、40を超える取扱商材を抱える。同期の桐山が社内表彰の常連であることを、少しだけ気にしている。

城戸(きど)54歳 三雲事務機 営業部長。現場叩き上げ。「メーカーさんは最初だけ熱心」が持論。

柚木芽衣(ゆずき めい)25歳 セイルポート パートナー推進部。新卒3年目。早瀬の後輩。

白石(しらいし)55歳 白石商会 専務。社員60名の販売店を父から継いだ二代目。誠実な商売を信条とする。

第一章 九十二日目の静寂

四月十四日、月曜の朝。早瀬航平はディスプレイの数字を三度見直した。

三雲事務機、契約から92日。紹介案件、0件。

隣の列も似たようなものだった。昨年度に新規契約した販売パートナーは12社。そのうち紹介案件が出たのは1社、それも2件だけ。残りはきれいに、ゼロが並んでいる。

(配った資料は、どこへ行ったんだ)

早瀬は胸ポケットの上から、硬いものに触れた。

一月二十日、三雲事務機の応接室。三か月通った商談が、革張りのソファでようやく着地した。城戸部長が「うちでやりましょう」と言い、早瀬は深く頭を下げた。それから顔を上げて、言った。

「御社の商材ラインナップに、新しい火を灯します」

城戸は「頼みますよ」と笑い、担当になるという若手の篠原が、名刺を両手で差し出してきた。帰社して報告すると、真壁本部長も上機嫌だった。新規の合意は、中計の進捗として役員会に報告できる。数字になる前から、契約は数字の顔をしている。帰り道、早瀬は胸ポケットのライターの蓋を、カチンとひとつ鳴らした。祖父の形見だ。金物屋を五十年やった祖父は、店を閉める日にこれを孫に渡した。煙草を吸わない早瀬にとって、それは験担ぎの道具だった。商談の前に蓋を鳴らす。それだけで、少し背筋が伸びる。

あの日灯したはずの火は、92日でどこへ消えたのか。

「新規12社。稼働は何社だ」

営業会議で、真壁本部長の声が飛んだ。会議室の空気が固くなる。

「実質、1社です」

「1社」

真壁は資料を置いた。音は小さいのに、部屋中に響いた。

「早瀬。中計は読んだな。パートナー網100社。今期の新規契約目標は20社だ。次の契約はどうなってる」

「動いていない12社を先に何とかしたいと考えています」

「契約はした。資料も渡した。勉強会もやった。あとはパートナーが売る番だろう」

「そのはずでした。でも売られていません。理由をまだ、僕は説明できません」

真壁は数秒、早瀬を見た。

「来月の会議までに説明しろ。それと、新規の商談は止めるな」

「動かない契約を増やしても、100社の計画が張り子になるだけでは」

「言葉を選べ、早瀬」

真壁の声は低かった。会議はそれで終わった。

会議のあと、給湯室で柚木芽衣が紙コップを差し出してきた。粉っぽいコーヒーの匂いがした。

「早瀬さん、12社って多いんですか。少ないんですか」

「多いか少ないかより、動いてないのが問題だ」

「勉強会、私も手伝いましたよね。皆さん、ちゃんと聞いてくださってましたし。反応、悪くなかったですよね」

「悪くなかった、か」

早瀬はコーヒーを一口飲んで、顔をしかめた。薄い。

反応の良さは、こちらの感覚で測っただけの数字だ。思い返せば、あの日アンケートの一枚も配っていない。誰の頭にどの客の顔が浮かんだのか、確かめないまま会場を片づけた。頷いてもらえた勉強会と、売れる現場のあいだに、何かが横たわっている。それが何か、机の前では一生わからない気がした。

「三雲さんに行ってくる」

「アポは」

「ない。だから行くんだ」

「本部長に聞かれたら、何て言えば」

「事実でいい。担当が、説明を現場に探しに行きましたと」

エレベーターの中で、早瀬はライターの蓋を鳴らした。祖父は言っていた。売れない品には、売れないだけの理由が棚にある。帳場で唸るな、棚を見ろ。金物屋の理屈は、SaaSにもたぶん通じる。

第二章 四十分の一

三雲事務機の営業所は、駅から歩いて八分の雑居ビルにあった。創業52年、社員120名。フロアの壁一面が、カタログ棚だった。

複合機、オフィス什器、UTM、LED照明、ウォーターサーバー、勤怠管理、電子契約——。

早瀬は棚の前で立ち止まり、数えた。40を超えたところでやめた。セイルポートのカタログは、下から二段目の端にあった。一部も減っていない。

電話を終えた若手が、こちらに気づいて立ち上がった。机の上には複合機のカウンター料金表と、栄養ドリンクの空き瓶が二本。

「早瀬さん、どうしたんですか急に」

篠原拓海が駆け寄ってきた。ワイシャツの袖をまくり、首から社員証を提げている。

「近くまで来たので。……篠原さん、これ全部、売るんですか」

「全部は無理ですよ」

篠原は笑った。屈託がなかった。

「朝礼で言われた今月のキャンペーン商材と、あとは複合機とオフィス什器。それで一日が終わります」

「うちのサービスは」

「あー……すみません、正直に言っていいですか」

「正直だけが聞きたいです」

「お客さんに聞かれたら答えます。でも、自分からは出せてないです。福利厚生って、聞かれると深いじゃないですか。非課税の枠とか、社会保険との絡みとか。生半可に触ると火傷しそうで」

奥の席から城戸部長が顔を上げた。

「早瀬さん。うちの営業に商品知識を求めなさんな」

「城戸部長、それは」

「悪気で言ってるんじゃない。営業38人、商材40個。全部覚えたら頭が破裂する。だからうちの連中は、覚えなくても売れるものから売る。複合機は触れば分かる。御社のは、触っても分からん」

城戸は湯呑みを傾けて、続けた。

「覚えられない商材はね、早瀬さん。提案されないんですよ。棚にあっても、ないのと同じだ」

帰りの電車で、早瀬は手帳に一行だけ書いた。

——うちは、四十分の一。

勉強会で全機能を説明した。資料は58ページ作った。完璧なつもりだった。だが38人の営業の頭の中で、セイルポートは四十分の一の棚に押し込まれ、そのまま埃をかぶっている。

問題は熱意ではない。記憶の椅子取りゲームに、負けているだけだ。

そしてこのゲームには、残酷な法則がある。椅子を増やす努力は報われない。38人の頭に、41個目の椅子は置けない。座ってもらう椅子を、一つに決めるしかない。

翌朝、早瀬は勉強会の資料ファイルを開いた。58ページ。三か月かけた力作を、フォルダごと書庫に移した。

第三章 カバンの中の遺跡

翌週、早瀬は篠原の営業に同行した。訪問先は市内の建材卸、社員45名。

商談は複合機の入れ替えが本題だった。

「月間モノクロ8千枚ですと、保守込みで月1万2千円ほど下がります」

篠原の説明はよどみなかった。数字が体に入っている商材は、言葉が軽い。先方の総務課長も頷いている。悪くない商談だった。ただ、45分のあいだ、福利厚生の「ふ」の字も出なかった。

帰り道、駐車場で早瀬は聞いた。

「さっきの会社、若い社員さん、見かけました?」

「え。……考えたことなかったです」

「事務所の入口に、求人票が貼ってありました。日付は去年の九月でした」

「見てるんですね、そんなとこ」

「前職の癖です。ちなみに勉強会でお渡しした資料、今日は」

篠原は一瞬固まって、それからカバンを開けた。クリアファイルの奥から、58ページの資料が出てきた。角が折れていない。付箋もない。三か月前に渡したままの、きれいな遺跡だった。

「……すみません。持ち歩いてはいるんです」

「責めてないです。持ち歩いてくれてるだけで十分です」

嘘ではなかった。責める資格もなかった。58ページを商談の隙間で開けというのは、無理な注文だ。作った側の自己満足だった。

営業所に戻ると、城戸が茶を淹れてくれた。

「どうでした、うちの篠原は」

「複合機の商談、うまいですね」

「でしょう。あれで福利厚生も売ってくれたら言うことないんだが」

城戸は笑って、それから真顔になった。

「早瀬さん。あんた、足を運ぶだけマシですよ。ただね、メーカーさんはみんな最初だけ熱心なんだ。契約して、勉強会やって、三か月で来なくなる。うちの連中はそれを何十回も見てる。だから本気にしない」

「三か月で来なくなる、ですか」

「あんたは今、ちょうど三か月目だ」

痛いところを突かれた。だが不思議と、嫌な気はしなかった。この人は値踏みをしている。突き放すつもりの相手に、茶は淹れない。

湯呑みの茶が、少しぬるくなっていた。早瀬は残りを飲み干して、頭を下げた。

「城戸部長。もう一度だけ、時間をください。次に来るときは、58ページは持ってきません」

「ほう。何を持ってくるんです」

「篠原さんが明日から使えるもの、だけです」

第四章 十八番の設計

その夜、早瀬はオフィスに残った。ホワイトボードに書いた。

——覚えてもらうことを、諦める。

柚木が付箋の束を持ってきた。

「諦めるって、どういうことですか」

「38人に40商材は覚えられない。なら、考えなくても口から出るものを一個だけ作る。落語家の十八番みたいなものだ。ネタ帳を全部覚える名人はいない。でも十八番は、寝てても演れる」

「十八番、ですか」

「40は無理でも、一つならいける」

「でも、40分の1のうちが選ばれる理由って、あるんですか」

「風だ。働き手はこの先、今の八掛けまで減る。どの社長も、採用と定着の話しかしなくなってきた。食事補助の非課税枠も42年ぶりに動いた。風は吹いてる。うちはまだ、帆を張ってないだけだ」

「……帆、ですか」

「まず、フレーズだ」

二人は付箋にフレーズを書いては貼り、剥がしては捨てた。

「福利厚生をクラウドでまとめて導入できます」——説明であって、言葉じゃない。

「バックオフィスのDX、進めませんか」——却下。三日で誰の口にも飽きが来る。

「離職率、下げられます」——惜しい。率は人事の景色で、社長の財布の景色ではない。

「若手が辞めない会社にしませんか」——悪くない。ただ、聞いた翌日の行動につながらない。

日付が変わる頃、柚木がぽつりと言った。

「学生のときのバイト先、駅前の居酒屋なんですけど。ずっと人が足りなくて、店長がいつも求人サイトの請求書を見て、ため息ついてました」

早瀬はペンを止めた。

「それだ」

翌朝、ボードには一行だけ残っていた。

——求人広告、また出すんですか。

11文字。誰でも覚えられて、聞いた側の手が一瞬止まる。深い知識は要らない。この一言で相手が乗り出してきたら、あとは仕組みが受け止めればいい。

その仕組みが、二つ目の道具だった。エクセルのシミュレーションシート。初版で早瀬は入力欄を12個作った。社員数、平均年齢、離職率、採用単価、拠点数——。

篠原に見せると、三秒で突き返された。

「無理です。商談中にこんなに聞けません」

「どこまでなら」

「二つ。社員数と、去年辞めた人数くらいなら、雑談で聞けます」

早瀬は10個の入力欄を捨てた。精度は落ちる。それでも捨てた。商談で開かれないシートの精度は、ゼロと同じだからだ。

社員数と、昨年の退職者数。二つ入れると、採用コストに換算した年間の流出額が、大きな文字で出る。試しに、断られたある会社の数字を入れた。社員120名、昨年の退職12名。画面に年600万円と出た瞬間、柚木が小さく声を上げた。

「……あの店長のため息、こういう金額だったんですね」

数字は時々、言葉より先に人を動かす。それだけのシートに削った。

最後の一手は、道具ですらなかった。

「城戸部長。このシート、まず三雲事務機さん自身で使ってみませんか。御社の福利厚生に、うちを入れてほしいんです」

「うちが客になるのかい」

「はい。自分が使っていないものは、十八番になりません」

「それにもう一つ。導入の現場を、篠原さんに最初から最後まで見てほしいんです。設定でつまずく所、社員の方が喜ぶ瞬間。全部が、明日の商談の台本になります」

城戸は篠原の顔を見た。篠原が小さく頷いた。

城戸は渋い顔をしたが、総務課長が身を乗り出した。導入は三週間で終わった。月末、篠原が給湯室で早瀬に言った。

「コンビニ弁当が一食150円引きになるやつ、営業所で一番使ってるの、俺です。若手はみんな入れてます。……これ、俺、お客さんに言えますね。自分の会社で使ってるって」

フレーズ、シート、自社導入。三つ揃えて、早瀬は12社全部に配って回った。公平に、丁寧に、一社ずつ。

そして、ひと月待った。

数字は、ほとんど動かなかった。

第五章 三社への賭け

五月の連休明け。12社に配った十八番セットの利用状況を、早瀬は柚木と集計した。

シートを一度でも開いた形跡があるのは4社。商談で使ったと確認できたのは、三雲事務機の篠原を含めて3人。紹介案件は、1件。

「配っただけじゃ、駄目なんですね」

柚木の声が沈んだ。早瀬は首を振った。

「道具は正しかった。配り方が間違ってた。全員に同じ薄さで撒いて、誰の火も点かなかった」

(撒くんじゃない。灯すんだ)

早瀬は12社のリストを印刷し、赤ペンを持った。基準は二つ。うちの商材で本業が伸びる会社か。熱を持った個人がいるか。

複合機の先細りをストック収益で埋めたい三雲事務機。電話工事の谷間を埋める商材を探す波多野通信設備。地場の社労士事務所と組み、労務まわりに顧客接点を持つ成瀬ビジネスサービス。利害の一致は、熱量の燃料になる。

残ったのは、その三社だった。

翌日、早瀬は真壁本部長の席に行った。

「担当12社のうち、当面は3社に集中させてください。残りの9社への訪問は、いったん止めます」

真壁の眉が動いた。会議室に場所を移すと、真壁はドアを閉めて言った。

「9社を捨てる気か」

「捨てません。順番をつけるだけです」

「その言い分は15年前の俺と同じだ」

早瀬は黙った。初めて聞く話だった。真壁は窓の外を見たまま続けた。

「昔、総代理店に一社、全部を賭けた。向こうのエースに惚れ込んでな。三年は良かった。四年目に先方の方針が変わって、販路ごと消えた。事業部は解散。あのとき決めたんだ。公平に、面で。特定の誰かに深入りしない」

「その結果が、12社ゼロです」

言ってから、早瀬は唇を噛んだ。だが真壁は怒らなかった。

「……続けろ」

「公平に配って、全員動きませんでした。全部に等しく浅いのは、公平じゃなくてただの手抜きだと、今回思い知りました。深く入る相手を選ばせてください。一社への依存が怖いなら、三社です」

真壁は長いあいだ黙っていた。手元の湯呑みは、とうに空になっていた。それから指を三本立てた。

「90日だ。90日で数字にならなければ、全社均等に戻す。それと、新規契約の目標は一件も引かない」

「受けます」

会議室を出るとき、スマホが震えた。白石商会の白石専務からのメールだった。

「先日お話しした勉強会の件、六月あたりでいかがでしょうか。うちも御社のサービス、そろそろ本腰を入れたく」

白石商会は、絞った三社に入っていない。早瀬は返信の指を三度止めて、結局こう書いた。

「順次ご案内いたします。少しだけお時間をください」

送信してから、胸の奥に小さな棘が残った。柚木に頼めば、勉強会くらいは開けたかもしれない。だが半端に支援すれば、動かない契約がまた一つ増えるだけだ。

棘は、抜かずにおいた。

第六章 野心の在り処

90日の初日、早瀬は三雲事務機の駐車場で篠原を待った。同行は週二回と決めた。

移動の車内は、話す時間だった。

「篠原さんは、何になりたいんですか」

「急に大きい質問ですね」

「大きくていいです」

篠原はハンドルを握ったまま、少し考えた。

「……同期に桐山ってやつがいるんです。複合機で全社トップ。月初の朝礼で、いつも壇上にいます。月間MVP。俺、あの壇に一回も上がったことがなくて」

「上がりたい?」

「そりゃ上がりたいですよ。でも複合機で桐山には勝てません。あいつは化け物なんで」

「複合機で勝つ必要、あります?」

篠原がミラー越しにこちらを見た。

「表彰の基準、粗利ですよね。福利厚生は継続課金で、複合機より粗利率が高い。誰もやってない土俵なら、一番になるのは最初の一人です。篠原さん、福利厚生で三雲事務機の一番になりませんか」

信号が青に変わった。篠原はしばらく黙って車を出し、それから言った。

「……その話、部長の前でもう一回してもらえます?」

火が点く音を、早瀬は聞いた気がした。

その日から、90日の中身が決まっていった。週二回の同行。訪問リストは篠原の既存客から、社員50名以上の30社に絞った。複合機で付き合いの長い客先なら、雑談の三分がもらえる。三分あれば、11文字は言える。刺さったらシートに二つの数字。断られたら、理由だけメモして次へ。

城戸部長には月初に一枚だけ、数字の報告を入れると決めた。訪問数、商談数、断り理由の上位三つ。素っ気ない紙を、城戸は毎回、隅々まで読んだ。

早瀬は教えることを最小限にした。代わりに、隣で見た。篠原がフレーズを噛んだ日も、シートの数字を入れ間違えた日も、車の中で一緒に笑って、直した。

五週目までの成績は、訪問21社、商談化6件、受注ゼロ。断りの理由で最も多かったのは「今のやり方で困っていない」だった。移動の車内で、篠原が初めて弱音を吐いた。

「早瀬さん。俺、複合機に戻りたくなってきました」

「戻っていいですよ。90日が終わったら」

「……鬼ですね」

「断りのメモ15社分、読み返しました。困っていないと答えた会社の半分は、去年何人辞めたかを即答できていません。困っていないんじゃなくて、痛みが数字になっていないだけです。断られたら最後に一つだけ聞きましょう。去年、何名辞めました?って」

六週目、篠原はフレーズを自分の言葉に崩し始めた。

「社長んとこ、あの求人、まだ出しっぱなしですか?」

型は、崩れて初めて芸になる。早瀬は口を出さなかった。

夜、報告をまとめる柚木が言った。

「この90日間の作戦、名前つけましょうよ。社内で説明するとき、毎回長いんです」

早瀬はライターの蓋を開けた。親指でホイールを回す。小さな火が一瞬だけ点って、蓋で消えた。

「……たねび、はどうだ」

「たねび?」

「種火。最初の一人に点ける、小さい火だ。組織はいきなり燃えない。でも種火が一つあれば、隣に移せる。だから90日は、面じゃなくて点に使う」

「たねび」柚木は口の中で転がして、頷いた。「言いやすい。それでいきましょう」

柚木はホワイトボードの隅に、ひらがな三文字を書いた。消さないでください、と付箋を貼った。

月次の報告で、真壁が資料の隅の三文字を指でつついた。

「なんだ、この、たねびというのは」

「三社の一人目に火を点ける、90日の作戦名です。呼びやすいので」

「……型に名前がつくと、人が動きやすくなる。覚えておけ」

それだけ言って、真壁は次の議題に移った。

第七章 初めての火

70日目を過ぎても、受注はゼロのままだった。

商談化は増えている。シートを開いた瞬間の、相手の目の色も変わる。それでも決裁の一歩手前で、案件は止まった。来期に考えます。うちの社労士に聞いてから。断りの言葉はいつも丁寧で、柔らかかった。

80日目の夜、集計画面を見ていた柚木が言った。

「三社で商談23件。これ、普通にすごい数字ですよ。中間報告、しなくていいんですか」

「受注ゼロの中間報告に、何の意味がある」

言ってから、早瀬は自分の声の硬さに気づいた。柚木が黙る。謝るより先に、彼女が口を開いた。

「篠原さん、昨日も21時まで丸円食品さんの見積もりを直してたそうです。……先に折れるの、私たちじゃないですよね」

早瀬はライターの蓋を、二度鳴らした。

「悪かった。報告はする。ゼロは、ゼロのまま出す」

87日目の午後、早瀬のスマホが鳴った。画面に篠原の名前が出た。

「取れました」

声が上ずっていた。

「丸円食品さん、決裁下りました。社員74名、去年の退職6名。シートの数字、換算で年300万円って出たやつです。最後は社長が休憩室まで俺を連れてって、壁の求人チラシを指したんです。三年貼りっぱなしなんだよ、これ剥がせるかなあ、って」

早瀬は席を立ち、廊下の窓際まで歩いた。

「篠原さん。最初の一件、誰の力です?」

「え……早瀬さんと作った、あの型の」

「違います。フレーズを自分の言葉に崩して、退職6名って数字を雑談で聞き出したのは篠原さんです。忘れないでください。これは、あなたの初受注です」

電話の向こうで、篠原が洟をすすった気がしたが、確かめなかった。

90日目の営業会議で、早瀬は一枚だけの資料を配った。

三社合計。訪問延べ64社、商談化28件、受注2件、紹介パイプライン14件。三雲事務機・篠原、月間MVPノミネート。裏面には、断り理由の一覧を件数つきで載せた。都合の悪い数字を隠すと、次の90日が設計できない。

真壁は資料を長く見てから、顔を上げた。

「二件か」

「二件です。ゼロが、二件になりました」

「……波多野通信設備の一人目は誰だ」

「営業二課の女性です。育休明けで、時短の中で数字を作りたい人でした。移動が少なく単価が読める商材を探していた。うちと利害が一致しています」

「利害、な」

真壁は資料の余白に何か書き込んで、会議を締めた。廊下ですれ違いざま、早瀬にだけ聞こえる声で言った。

「90日の延長は、しない。だが止めもしない」

それが真壁流の合格通知であることを、早瀬は半年後に人事から聞かされることになる。

その夜、三雲事務機の駐車場で、篠原が自販機の缶コーヒーを二本買ってきた。

「一本どうぞ。初受注の恩人に」

「恩人じゃなく、伴走者です。……いただきますけど」

薄暗い駐車場に、プルタブの音が二つ鳴った。祝勝会は、それで十分だった。

第八章 現場の語り部

九月最初の月曜、三雲事務機の朝礼。壇上に篠原がいた。月間MVP、受賞。

早瀬は会場の後ろで見ていた。マイクを持たされた篠原は、明らかに緊張していた。

「えー、複合機じゃなくてすみません」

会場が笑った。桐山が一番大きく笑っていた。

「福利厚生って、俺もずっと避けてました。非課税枠とか言われたら逃げてました。でも今は、聞くのは二つだけです。社員数と、去年辞めた人数。あとはシートが喋ってくれます。俺が売ったというより、自分の会社で使ってて、シートが数字を出して、お客さんが自分で決めた。それだけなんです。……騙されたと思って、明日一件だけ、言ってみてください。求人広告、また出すんですか、って」

拍手が起きた。城戸が腕を組んだまま、深く頷いていた。

朝礼のあと、早瀬は城戸に呼ばれた。

「早瀬さん。次は誰にやらせればいい」

「もう決まってるじゃないですか。今、一番悔しそうな顔をしてた人です」

視線の先で、桐山が篠原を質問攻めにしていた。シートはどこにある。フレーズはそれだけか。最初の一件まで何日かかる。篠原はホワイトボードに何か書きながら答えている。教わる側だった男が、教える側の顔をしていた。

城戸が湯呑みを持ったまま、ぽつりと言った。

「早瀬さん。三か月で来なくなるメーカーの話、覚えてますか」

「忘れられません」

「あんた、八か月目だ」

それだけ言って、城戸は自分の席へ戻っていった。

翌週、早瀬は三雲事務機で、もう一度勉強会を開いた。一月のものとは、作りを全部変えた。

冒頭で早瀬は言った。

「今日のゴールは、覚えて帰ってもらうことじゃありません。終わったとき、皆さんの頭に一社でも、あの会社に言えるかも、という顔が浮かんでいたら成功です」

機能の説明は10分で切り上げた。残りは篠原の実演と、掛け合いに使った。

「食品卸で、パートさんが多めのお客様。いらっしゃいませんか」

要所で篠原がそう問いかけるたび、会場のどこかで手帳がめくれた。

終わりに配ったのは、設問が一つだけの紙だった。確度は問いません、今日ふと思い浮かんだ会社名をそのまま——。38人から、31の名前が集まった。

「アンケートって、感想を聞くものだと思ってました」

回収した紙をめくりながら、柚木が言った。

「感想は、次の会をよくする材料にしかならない。名前は、来週の商談になる。……勉強会はゴールじゃないんだ。通過点だ」

翌週から、名前を書いた営業と15分ずつの1on1を組んだ。あの会社にどう切り出すか。11文字のあとに何を聞くか。一人ずつ、隣に座って決めた。初回の相手は桐山だった。15分の持ち時間を、40分超えた。

一人の火は、31枚の紙に燃え移った。

セイルポートの側でも、早瀬は仕掛けを打った。パートナー向けメールマガジンの一面に、篠原のインタビューを載せた。企画名は「たねび」。副題に、一人目の90日、と添えた。メーカーの成功事例ではなく、売った本人の言葉だけで構成した。失敗談から載せた。フレーズを噛んだ話、シートの数字を入れ間違えた話。

配信の翌週から、問い合わせの質が変わった。「資料をください」が減り、「うちの一人目を選びたい」が増えた。履歴書まがいの紹介文で、一人目の候補を推してくる社長まで現れた。売った本人の言葉は、メーカーの資料より何倍も遠くへ飛ぶ。柚木が配信リストを眺めて言った。

「事例って、作るものじゃなくて、語ってもらうものなんですね」

120日目の集計を、柚木が読み上げた。

「三社合計、提案に立つ営業が1人から9人。三雲事務機さんの紹介、月14件。受注、累計5件。成瀬ビジネスサービスさんも今週、初受注です」

「よし」

「あと、その……白石商会の白石専務から、お電話がありました。折り返してほしいと」

早瀬の手が、一瞬止まった。五月の棘が、まだそこにあった。

「明日の午前、伺いますと伝えてくれ」

「アポ、取れるか分かりませんよ」

「取れなくても行く。四か月待たせた側から、行くんだ」

第九章 灯せなかった火

白石商会の応接室は、九月なのに冷房が効きすぎていた。

白石専務は、自ら茶を運んできた。湯呑みを置く所作が丁寧だった。60人の会社の専務が、来客の茶を自分で出す。そういう会社だった。

白石は静かに切り出した。

「単刀直入に言います。うち、福利厚生はクリアパスさんの一次店をやることに決めました。来月、契約します」

競合の名前だった。早瀬は膝の上で手を握った。

「……理由を、伺ってもいいですか」

「五月に、勉強会をお願いしました。お返事は『順次ご案内します』でした。悪いお返事じゃない。ただね、早瀬さん。待つ側には、順番が見えなかった」

白石の口調に、恨みはなかった。それが一番、堪えた。

「うちは60人の会社です。今期の数字は今期に作らないと、社員の賞与が変わる。三雲さんが伸びてるのは業界の噂で聞いてました。羨ましかった。うちにもあの型が欲しくて、御社に二度、声をかけた。クリアパスさんは、翌週に来てくれました」

「白石専務。順番をつけたのは、私です。御社を後回しにした判断も、私です。申し訳ありませんでした」

早瀬は頭を下げた。深く下げながら、言い訳の言葉を全部呑み込んだ。三社に絞ったから、篠原の火は点いた。それは事実だ。同じ理由で、この人の火は点けなかった。それも、事実だ。

沈黙が下りた。効きすぎた冷房の音だけがしていた。

顔を上げると、白石は少しだけ笑っていた。

「絞るのは正しいですよ。うちだって仕入先を絞ります。ただ、次に誰かを待たせるときはね、早瀬さん。いつまで待てばいいか、先に言ってあげなさい。待てる待てないは、待つ側が決めることです」

帰り道、早瀬は駅のホームでライターを取り出した。蓋を開けて、閉じた。火は点けなかった。

(灯した火の数だけ、灯せなかった火がある)

電車を二本見送った。ホームの端で、五月に送った自分のメールを読み返す。順次ご案内いたします。丁寧なだけで、日付がどこにもない返事だった。

その夜、早瀬は報告書の最後に一行を足した。

——選ばれなかった側に、基準と順番を開示すること。次の設計に必須。

最終章 熱狂の設計者

十月の事業計画会議。議題の三番目に「パートナー施策の来期方針」があった。

早瀬が説明を始める前に、真壁が立った。

「先に俺から言う。パートナー支援の方針を変える。全社均等の面の支援はやめだ」

会議室がざわついた。均等の面支援は、真壁自身が15年守ってきた流儀だった。それを本人が畳んでいる。早瀬は息を詰めて見ていた。

真壁は構わず続けた。

「早瀬の90日で分かったことが二つある。一つ。道具を配るだけでは売れない。一人目に深く入って、初受注まで運ぶと売れる。二つ。深く入る相手を絞ると、選ばれなかった側との関係が壊れる。……壊したのは、うちの伝え方だ」

真壁は画面を切り替えた。「たねびプログラム」と題が出た。

「来期から、90日の伴走支援を四半期ごとに3社、公募制にする。選定基準は全パートナーに公開。選ばれなかった会社には、次にいつ順番が来るかを文書で示す。……公平とは、全員に同じ薄さで接することじゃない。機会の順番を、全員に見えるようにすることだ」

役員席の榊社長が口を開いた。

「真壁さん、15年前と同じ轍にはならんのか」

「なりません。あのときの私は、一社に惚れました。今回は、仕組みに賭けます。人は異動しても転職しても、型と順番は残ります」

榊社長は腕を組み、しばらく天井を見た。

「面白い。均等に撒いて全滅するより、順番を決めて延焼させるほうが、火の使い方としては筋がいい」

役員の何人かが笑った。

会議の最後、榊社長は早瀬に向き直った。

「数字を確認させてくれ。90日で受注2件、120日で5件。紹介は月14件。提案に立つ営業は1人が9人。……この増え方は、広告では買えんな。パートナーサクセス課を新設する。早瀬、課長をやれ。初仕事は、公募要項を書くことだ」

散会後、廊下で真壁が早瀬に並んだ。

「15年前の俺に足りなかったのは、深入りする勇気じゃなかった。深入りを設計に変える頭だった。……遅い授業料だったよ」

「授業料、回収を手伝わせてください」

「言うようになったな」

真壁が初めて、声に出して笑った。

「本部長。公募の一期目、推薦したい会社があります」

「白石商会か」

早瀬は驚いて真壁を見た。真壁は前を向いたまま言った。

「報告書は読んでる。あの一行が、今回の方針の半分だ。……クリアパスの一次店でも、うちの公募に出せない決まりはない。要項に書いておけ。競合を扱っていても応募できる、と」

エピローグ 火は、手渡せる

十一月、セイルポートのパートナー総会。登壇者の名札に「三雲事務機 篠原拓海」とあった。

壇上の篠原は、もう緊張していなかった。

「一人目って、特別な才能の人じゃないです。俺、40商材のうち39個は今も覚えてません。覚えたのは11文字と、聞くこと二つだけ。それが俺の十八番になって、気づいたら会社の型になってました」

会場の最前列で、桐山がメモを取っていた。三列目に、白石専務の姿があった。公募一期生の名札を提げて。

控室に戻った篠原に、早瀬は缶コーヒーを渡した。

「早瀬さん、これ、薄いやつじゃないですか」

「うちの給湯室よりは濃いです」

二人は笑った。別れ際、篠原が聞いた。

「次の一人目、どこの誰なんですか」

「白石商会の、若手の営業さんです。来週から90日」

「そっか。……その人、いいなあ。これから点くんだ」

早瀬は胸ポケットからライターを出し、蓋をカチンと鳴らした。祖父が店を閉める日に言った言葉を、初めて人に話した。

「祖父の受け売りですけどね。火は、分けても減らないそうです」

窓の外はもう冬の色だった。それでも、帰っていくパートナーたちの背中は、どこか温かく見えた。

たねびの90日が、また始まる。



ビジネス短編小説シリーズは、パートナービジネスとBtoBマーケティングの「型」を、組織のリアルな摩擦のなかで描く連載です。ほかの作品は、マガジン「BtoBのリアルな現場を描くビジネス短編小説」からどうぞ。



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桂川 誠 | パートナービジネス戦略 著者&パートナー戦略研究会主宰者 読んでいただきありがとうございます。拙い文章で恐縮ですが、日頃の気づきをシェアしていきたいと思っています。 サポートいただけると嬉しいです!