小説【檻のベッド】(第3話) 『ララ君とプリンセス』
ナースステーションを後にした私は、そのままの足で、同じ階のラウンジに向かった。
病室のベッドの上でじっとしているよりは、窓から外の景色でも眺めている方がマシだと思ったから。
退屈が苦痛なだけではない。
これからもっとつらいのは、空腹だ。
私の病気の治療も、あの檻の中の子と同じく、口から固形物を食べないこと。いわゆる絶飲食が基本となる。
少なくとも炎症反応が下がるまでは何も飲めず、食べられず、点滴で栄養を補うことになる。
炎症による発熱や、たまにくる吐き気より、何よりもつらいのは、実は「お腹すいた……」だったりするのだ。
ラウンジに入る。
いつもなら付き添いのお母さん方が何人かいるのだが、珍しく誰もいなかった。
窓際のテーブルを確保し、窓を開ける。
ふわっと、5月の風が頬を撫でた。
目を閉じて、耳に意識を向ける。
車の音や、工事の音。河川敷の方からは野球でもしているのだろうか、笑い声や歓声が聞こえた。
外にはそんな、『普通』があった。
私は、これまで何度も『普通』に近づいたけど、こうして何年かしたら『こっち側』に戻される。 それがもう悲しみではなく、当たり前になっていた。
いつの頃からか、私は『普通』にしがみつくのをやめていた。 投げやりにではなく、ただ、自然に。
薄く窓を開けたまま、椅子に座る。
ラックに挿してある病院のパンフレットを取り出して、去年のより新しくなっているな、なんて思いつつページをめくる。
そうして、ゆるく時間が過ぎていった。
午後5時の検温のため、病室に戻った。
朝は何もなかった向かいのスペースに、ベッドが置かれ、昼間に会った子がいた。
相変わらず、ちょこんと大人しく座っている。
──残念。入室シーンを見逃してしまった。
私は、カーテンを向かい側だけ見えるように半開きにした。
看護師さんが来て、順番に検温表をチェックしている。付き添いなしの子は事前に検温できていないので、この場で看護師さんが測っていた。
頷いたり、はにかんだり。人を怖がっていない。
なんだか少し、落ち着きさえ感じる。
看護師さんが退室して、私は我慢ができなくなっていた。
「こんばんは。覚えてる?」
お互いベッドのまま、声をかけた。
私の声に、可愛い子は「なあに?」という感じで首を傾げた。
私はスリッパを履き、そろりと寄った。
「あ、おねえさんだ」
一瞬、足が止まった。
初めて聞いた声は、雰囲気そのままの、甘く優しい声だった。
それで、急に泣きそうになる。
こんな子が、病気で絶食だなんて。
「こんばんは」
私の気など、どこ吹く風のふわりとした挨拶。
「お返事できて偉いね。お名前なんていうの?」
訊くと、子は慣れない感じで答えた。
「……アリスだよ」
「すごく可愛いお名前だね」
うふふ、と笑う。
『可愛い』は、わかるみたい。
「私はルカだよ。よろしくね」
アリスは、私の名前より、違うものに目が移っていた。目線を追う。
私の肩にかけているポーチ。
「……これ?」
指を差す。
アリスは頷く。
それは、ポーチにつけていたクマのマスコットだった。子どもの頃から持っている、相棒のララ君。
欲しいのかな……?
どうしようかなという思いは、不思議と薄かった。
私はポーチからララ君を外した。
高い柵の上から手を入れ、渡してみる。
むにむにと手で感触を確かめ、上から、下から、さながら鑑定士のように探る。
査定が終わると、ララ君を片手に持ったまま、もう片方で自分の人形を持って、向かい合わせた。
お人形遊びが始まっちゃったかな……。
微笑ましい絵に、昔の自分を重ねていた。
きっとアリスも、始まったら止まらない子なのだろう。不思議と、そう感じた。
ララ君と向かい合わせている人形──人魚姫。
アリエルだ。『リトル・マーメイド』の。
アリエルに、アリス。
プリンセス同士がお友達なんだ。
そんなとき、肩越しから声がした。
「もう仲良くなったの?」
振り向くと、上田先生がいた。
「あ、先生。もう回診ですか?」
「お邪魔なら後にするけど?」
上田先生は、いつもこんな感じだった。
ボソッ、ボソッと話す言葉の一つ一つに、味があるというか、演劇の台詞のような。
私が5歳の時に上田先生は確か30代半ばだったから、もう45歳くらいだろうか。細身で飄々とした雰囲気と顔付きはあの頃のまま。変わったのは少し耳元に白髪が目立つようになったくらい。
「お邪魔ですけど、どうぞ」
私が言うと、眉を上げて、やれやれという顔で病室に入ってきた。
少し遅れて、看護師さんも入室した。
順番に回診が進む中、アリスの番になった。
カーテンは開けたまま。
私はベッドの上からなんとなく、それを見ていた。
先生がアリスのお腹をトントンと叩く。
平気そうな顔。
「痛くない? ここは?」
「そろそろ食べても大丈夫かな」
「明日から、水分から始めてみようか」
そんなやりとりを聞いて、きゅっと拳を握った。
赤の他人の私なのに、ホッとしていた。
回診が終わり、9時の消灯となるまで、結局ララ君は返ってこなかった。
お気に入りになっちゃったのかな。
消灯後も、アリスのカーテンは開けたままだった。
いつでも、巡回する看護師さんが見守れるように。
大丈夫ですよ。いつでも私が代わりにナースコールを押しますから──。
そんな意気込みをしてみたが長くは続かず、眠気の中に消えていった。
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