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カネ文学|社内コンプライアンスの緩め方

私たちおじさんの意見なんて、誰が聞きたいんだろうか。
いや、一定の需要はある。経験は便利だし、話もまとまっている。大きく外すことも少ない。
ただしそれは、あくまで「これまでの延長線の中での正しさ」に過ぎない。

ここで言う「おじさん」とは、年齢や性別の話ではない。
企業の文脈を内側から支えてきた側の人間、という意味で使っている。

いまの日本に必要なのは、その延長ではないはずだ。
どこかで、いままでの文脈を飛び越える何かが必要になる。

私はそのヒントが、若手の発言の中にあると思っている。
理由は単純で、まだ完全に社内の文脈に回収されていないからだ。

企業というものは、良くも悪くも文脈で動く。
過去の成功体験、前例、そしてその場の空気。
それらを丁寧になぞることで、安定を作ってきた。

それ自体は悪いことではない。むしろ、それがあったからこそ日本企業はここまでやってこられた。
ただ、その延長線の先に何があるかといえば、私はなだらかな衰退しか見えない。

大きな変化というものは、文脈の外側からやってくる。
そしてその起点は、往々にして「違和感」だ。

既存の側にいる人間は、その違和感を持ちにくい。
なぜなら彼らは、その文脈を作ってきた側だからだ。
いまのやり方に納得感もあるし、一定の成功体験もある。
だからこそ、そこから外れる必要性を感じにくい。

一方で若手は違う。
まだその文脈に完全には染まりきっていない。
「これって本当に正しいのか?」という違和感を、そのまま持っている。

本来であれば、その違和感こそが価値になるはずだ。

だが現実は逆だ。
その若手が、一番発言できない立場に置かれている。

将来の収入は会社に依存している。
評価は組織が握っている。
発言することによるリスクとリターンが、どう考えても釣り合っていない。

だから黙る。

そしてもう一つ、見逃せない構図がある。
同世代の経営者やインフルエンサーたちは、自由に発言しているという事実だ。

同じ年齢帯でありながら、片方は自由に語り、もう片方は沈黙する。
この対比は、いま組織の内側で働く人間にとって、決して他人事ではない。

多くの人が、どこかで羨ましいと思っているはずだ。
なぜなら、「発言できる」ということ自体が、すでに一つの価値だからだ。

ここに、構造的な歪みがある。

変化の起点になり得る層が沈黙し、
変化を起こしにくい側が語る。

これでは、大きな変化は起きない。

だから私は、社内コンプライアンスというものを少し緩めてもいいのではないかと思っている。
もちろん、何でも自由にしろという話ではない。そういう極端な話ではない。

ただ、「若手が会社名を背負って、自分の考えを語ること」を許容する方向に、
ほんの少し舵を切るだけでいい。

もしそれが実現したら、何が起きるか。

まず、就職活動が変わる。
企業の説明ではなく、実際に働いている人間の言葉が一次情報になる。
どんな仕事をして、どんな空気の中で、どんな葛藤を抱えているのか。
それが見える会社に人は集まり、見えない会社からは人が離れる。

次に、早期離職が減る。
入社前に現実を知っている人間は、入社後に裏切られない。
「思っていたのと違った」という、あの無駄なコストが確実に減る。

そしてもう一つ、大きな変化がある。
企業の中に閉じ込められていた思考が、外に流れ始めるということだ。

若手の発言は、会社名を背負う以上、自然と節度を持つ。
その中に残るのは、現場から滲み出るリアルな思考だ。

それはやがて、企業を超えて流通する。
「あの会社の若手はこう考えているらしい」
その断片が積み重なり、社会全体の知見になる。

私は、それこそがこれからの日本にとっての財産になると思っている。

会社は一社で存続しているわけではない。
一社がそれで利益を出せば、他社は必ず追随する。

空気は、競争で変わる。

そしてそのとき初めて、
若手の言葉が企業の資産となり、同時に社会の資産になる。

おじさんの意見も、もちろん無駄ではない。
ただ、それだけではもう足りない。

「未来を持たない側が、未来を決めてはいけない」
私はそう思っている。



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