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61年前の番付と今の番付を較べる

私が中学に入学したのが平成元年。昭和天皇が崩御した朝も、四谷大塚の模試は自粛せずに行われて、私は東急世田谷線で四谷大塚に電車で向かって、その車上で「天皇陛下も死んじまったしよーーー!」って叫んで泣いている酩酊したおじさんがいたのを覚えている。その数週間後に中学入試をしてつまらない進学校に入った。

「進学校にはイジメは無い」なんていうのはまあまあ嘘っぱちで、私は当時は自分の発達障害性を学校内の社会に適応させることができなかったものだから、うまく馴染めず、わりと陰鬱な中学一年生時代を過ごしていた。

陰鬱な中1時代がそろそろ終わりかけている頃、春休みのちょっと前に、自分の人生を変えるものを目撃した。

記録によると、平成2年3月16日、午後6時ちょっと前のことになる。その日は部活がなく、自宅に帰っていたのだったか、なんのことなしにテレビに映っていた大相撲を横目で観ていた。

当時、相撲といえば大横綱千代の富士。優勝争いは常に千代の富士を中心に回っていた時代がそろそろ末期に差し掛かっていた頃ではあるが、それでもまだ千代の富士は無敵の大横綱だった。

その千代の富士を、筋肉質で細身の不器用そうな力士が思いっきり吊り上げて土俵の外に放り出しているのを、私は目撃した。

関脇霧島が、ずっと勝つことができなかった千代の富士を初めて破った一番。後で知ったことだが、この一番には千代の富士の通算1000勝がかかっていた。なんだこのかっこいい力士は。翌日から毎日大相撲を観るようになり、この場所の千秋楽(15日目・相撲の場所のラストデーであり、多くの場合優勝力士はこの日に決まる)には、霧島は13勝2敗で、何十年かぶりの3人での優勝決定巴戦まで勝ち残り、惜しくも優勝は逃したものの、場所後に大関に昇進した。31歳での大関昇進は、当時としては遅咲き、高齢での大関昇進だった。

霧島は、この前年くらいまでは、目立たない、幕内上位に上がると負けて、下がると勝つ、みたいな感じの普通の力士だったが、30になって突然覚醒したタイプの苦労人だった。上述のように、しんどい中学時代だったので、長いトンネルで苦しんだ上に開花した霧島と自分と重ね合わせた。

ともあれ、平成2年3月16日、午後6時ちょっと前の時間以来、今に至るまで私は大相撲ファンなのだから、あの瞬間に人生変わったというのは言えるだろう。長く観ているから追いかけている時期も、そんなに一生懸命観ていない時期もあったが、ずっと大相撲ファンだ。アメリカに住んでいるときも、夜中に無理やり起きて相撲観てた程度には大相撲ファンだ。

霧島についても、その後の大相撲と私についても、どこかで書く機会はあるかもしれないが、いくらでも書けてしまうのでまた別の機会に書くとして、それはさておき、良い時代になったもので、上掲のような当時の取り組みもYouTubeで観れてしまう。それだけではなくて、中学生当時にインターネットがあったらさぞかし楽しかっただろうというところで、見逃した取り組みもネットで観れるし、相撲について語り合える友人もネット上にいるし、昔の雑誌なんかも買えるし、そのへんの事情は昔とは随分違う。

そんなわけで、最近メルカリで、昔の番付表を購入した。番付表というのは、よく居酒屋とかに貼ってある手書きで書かれた大相撲のランキング表だ。これは、毎場所新しいものが作成される。この番付表は情報の宝庫だ。その時代の大相撲に関わるあらゆる情報が詰まっている。

今回購入したのは昭和39年3月場所の番付表、私が中2のときに大相撲にハマったのは25年前の平成2年3月場所だから、そのさらに26年前、今から61年前の番付表だ。

ちょうど、今開催されている本場所は令和7年の3月場所なので、霧島が千代の富士に勝った場所も、今回番付表を入手した場所も3月場所、大阪で開催されている場所だ。3月場所は大阪、と決まっている。で、令和7年の3月場所の番付表もまた、私の手元にある。引退したばかりの照ノ富士親方から送付して頂いたものだ(後援会入ってるだけだけど)。

昭和39年春場所の番付
令和7年春場所の番付

そんなわけで、せっかく61年前の番付表と今の番付表があるので、見較べてみようと思う。

なんでそんなことをするのか、というと、この行為には2つの楽しみ方があるのだ。

1つは、61年前の大相撲がどんな状況だったのかに思いを馳せる。今とはどんな違いがあったのか、どんな相撲界だったのか。

もう1つは、61年前の相撲ファンになったつもりで、今の番付表を眺めるという楽しみ方だ。

大相撲ファンというのは、「10年後、誰が横綱になっているんだろう」とか、もっとコアなファンだと「誰が理事長になってるんだろう」なんていうことを妄想したり、酒の肴にしたりするものだ。

私は、100まで生きたりしない限り、61年後の相撲界を観ることはできないし、61年後の横綱の土俵入りを観ることもない。観れたら観れたで嬉しいけどたぶん無理だろう。

61年前、生きていたら今頃100歳の人が、同じようなことを思いながら番付表を眺めていたのかもしれないのだ。そんな、61年前の相撲ファンが夢見た61年後の「未来の番付表」が、いまここにあるのだ。なんて幸せなことなんだろう。

そんなわけで、番付を眺めながら、気づいた違いを観ていく。

紙質・サイズ

まず紙の質感が結構違う。昭和39年の番付表は、へにょへにょした和紙みたいな感じだが、令和7年の番付表は、ちょっとツヤがある。ただ、紙のサイズは全く同じだ。

真ん中の蒙御免ゾーン


左が昭和39年、右が令和7年

番付の真ん中を縦に貫くゾーンの一番上、最も目立つ場所には、今も昔も「蒙御免」と書いてある。これが、番付内で一番でかい文字なので、ある種、最も重要な情報だとも言える。で、これが何なのかというと「江戸時代に幕府から興行の許可を得ていた」つまり、「天下御免」の意味だ。

今やっている大河ドラマの「べらぼう」にも吉原が幕府公認の歓楽街だったことを指して「天下御免」というフレーズが出てくるが、今も昔も、時の国家権力が公認している興行ですよ、というプライドなのか、お墨付き感というか、国技としての矜持がここに現れているように見える(学者ではないので、1ファンの想像として「そう見える」だけです)。

この「蒙御免ゾーン」にはいろんな情報が詰まっている。

まず初日の日時、「昭和三十九年三月八日」と「令和七年三月九日」。61年前の人が今の番付を観たら「令和ってなんだよ」となるだろう。

そこから15日間興行が続きますよ、という文言や構成も変更になっているが、いまこれを書いていて、そこまで細かく比較しているといつまで経っても書き終わらないことに気づいたのでこのへんは省く。

あとは場所の名前昭和39年は、「難波府立体育会館」、令和7年は「エディオンアリーナ大阪」。ネーミングライツで名前が変わっている。あと、エディオンアリーナになる前は「大阪府立体育会館」だった気がするが、「難波」を冠している。

その下が、大相撲の審判である行司の一覧。多くの行司は伝統的な名跡を襲名する。特に、毎日の最後の一番=結びの一番を裁定するのは、原則として「木村庄之助」で、その次に続くのが「式守伊之助」というのは昔から変わらないので、2つの番付を較べても同じように庄之助と伊之助の名前がある(中の人? は当然代替わりしている)。

式守勘太夫なんかも襲名されて、両方に載っている。

審判委員ゾーン


左が昭和39年、右が令和7年

真ん中の蒙御免ゾーンの下部には審判委員ゾーンがある。テレビとかで相撲を観ていると、土俵の周りに紋付袴のでかいおじさんたちが座っているのを見ることがあると思うが、あの人たちは、行司に加えて、オブザーバーとして勝負の判定を行う、「審判委員」だ。

この「審判委員」、令和7年では「審判委員」だが、昭和39年では「勝負検査役」となっている。勝負検査役のほうが風情があって良いのに、なぜ変えてしまったのだろう。

審判委員というのは、力士を引退して日本相撲協会に奉職する親方衆がなるもので、現役時代に活躍した多くの親方が経験する「花形部署」であり、「出世コース」だ。

審判委員のラインナップ。昭和39年は一段に勝負検査役が圧縮されて書かれているので、ちょっと判読しづらいのだが、ぱっと見た感じ、「三保ヶ関國秋」、これは初代の増位山の三保ヶ関親方で、この番付のちょっと後に大横綱の北の湖を育てる。

あとは、「宮城野潤之輔」は、第43代横綱の吉葉山だ。白鵬の師匠の師匠に当たる。

「二子山勝治」は、栃若時代を築いた第45代横綱の初代若乃花。ふるなびのCMに出ている貴乃花の叔父さんにあたる。後の日本相撲協会理事長だ。この時代の現役横綱は第47代〜第49代なので、吉葉山や若乃花はちょっと前の横綱、若手親方が出世コースに乗ったくらいの立ち位置だろう。

令和7年春場所の横綱、豊昇龍は第74代横綱、審判委員には、第71代横綱の鶴竜(音羽山親方)と第72代横綱の稀勢の里(二所ノ関親方)がいるので、「その時の現役横綱の3代か4代くらい前の横綱が審判をやっている」みたいな構図は同じなのかもしれない。

面白いのが「錣山貞雄」さんがここにいることで、この人は元小結の若葉山。この人は誰あろう、令和7年の相撲界で人気を博している、大波三兄弟(若隆元・若元春・若隆景)のおじいちゃんだ。血縁系の話はこの後もメインの番付ゾーンでいくつか出てくるのだが、「大波三兄弟のおじいちゃんは、琴桜や王鵬のおじいちゃんの取組を審判として、吉葉山とか若乃花とかと一緒に土俵下で観ていた」ということがわかる。こういうのが非常に味わい深く、面白い。

あとはその下に、「日本相撲協会」の表示があるわけだが、その右にある表記は昭和39年は「財団法人」、令和7年は「公益財団法人」になっている。日本相撲協会は平成26年に公益財団法人に移行した。あと、「会」の字が昭和39年は「會」になっている。

メイン番付ゾーン・幕内

上が昭和39年、下が令和7年

番付表のメインゾーンともいえるかもしれない、幕内ゾーン、番付表の一番上の段で、右側が「東」、左側が「西」だ。大相撲においては、原則として「東」のほうが「西」より格が上となる。「東の横綱」がトップオブトップで、「西の横綱」はそれに次ぐ存在ということになる。

まず、パッと見て大きな違いに感じるのは「張り出し」の存在で、昭和39年当時は恐らく、横綱や大関(たぶん関脇・小結も)が各3人以上いる場合、基本的な枠の中には東横綱一人、西横綱一人、みたいな感じで東西に一人ずつ、みたいなルールがあって、3人目以降は「張出」扱いにしていたのだろうと思われる。何を言っているのかわからないかもしれないが、この、番付の左右に「ポコっと」飛び出している人たちのことを「張り出し」と呼ぶ。
令和7年においては、原則、「張り出し」はなくなっている。私が中高生だった頃はあったけど、最近見てない。

どのみち、平成7年春場所においては、横綱1人、大関2人、関脇2人、小結2人なので、昭和39年の基準でも「張り出し」は発生しないパターンだったと思われる。

昭和39年の東の横綱は、「巨人・大鵬・卵焼き」の大横綱である第48代横綱、大鵬だ。令和7年の番付、西の関脇には王鵬がいる。王鵬は大鵬の孫だ。

大相撲ファンは、わりと血縁を踏まえた妄想をする。たとえば、先日引退した第73代横綱・照ノ富士の息子のテムジンくんは、幼児であるにも関わらずなんかすごい強そうなので、将来力士になって照ノ富士を継いだりしないだろうか、とか、考えてしまう。

人気力士の引退式なんかで、よく、最後の相撲、なんていって、自分の子供にまわしをつけさせて対決したりすることがある。そういうのを見ると、「この子がお父さんが叶えられなかった夢を実現してくれるだろう」とか「お父さんの強い相撲を継いでくれるだろう」とか、夢を託してしまったりする。

で、そういう妄想はちょこちょこ具現化する。それの最たるものが、前述の初代若乃花の弟、大関貴ノ花の息子の、いわゆる「若貴兄弟」が2人とも横綱になって父を超えたことだったりするわけだが、昭和39年と令和7年の番付を見比べたときにも、それは起こっている。

それが大鵬の孫が令和7年の番付で関脇になっている、ということであり、もう1つ目立つのは、琴櫻だ。令和7年の番付で西大関となっている琴櫻のおじいちゃんは、第53代横綱。昭和39年の段階では、24歳の若手力士で東前頭五枚目にいる。令和7年の琴櫻は、後に横綱となったおじいちゃんの四股名を、昨年大関に就任した後に襲名した。

西の横綱は第47代横綱の柏戸。この時代は、大相撲の一時代である「柏鵬時代」ど真ん中だ。小兵ながら活躍した第49代横綱の栃ノ海が東の張出横綱。
後に第50代横綱となる佐田の山が東の大関。西の大関が北葉山、東の張出大関に栃光、西の張出大関に豊山。栃光は横綱の栃ノ海と同じ春日野部屋だから、当時の春日野部屋って、横綱と大関が1人ずついたんだなーとか、北葉山も豊山も時津風部屋だから、時津風も大関2人もいて、強い部屋だったんだなーとか。

昨年末に亡くなった、NHKの解説でおなじみの、後の第52代横綱、北の富士は東小結。そのライバルとなる、後の第51代横綱玉の海である玉乃嶋は、東の前頭十五枚目、幕内の一番下。幕尻だ。

その他知られている名前でいうと、今の出羽海親方(元小城ノ花)のお父さんの初代小城ノ花がいる。吊り出しで有名な明武谷が小結。双羽黒と喧嘩して破門にした後の立浪親方の羽黒山(安念山)、小錦の師匠だった富士錦、平幕優勝する若浪。私が中学生の頃にNHKの解説をやっていた出羽錦忠雄さんもいる。

そして、元関脇の鶴ヶ嶺の名前も見ることができる。この方は引退して井筒親方となる。昨年亡くなった元関脇寺尾と、鶴竜の師匠の元関脇逆鉾の兄弟のお父さんだ。そして、誰あろう、冒頭で私が挙げた、私が大相撲に没入するきっかけとなった大関霧島を育てることになるのがこの鶴ヶ嶺だ。

令和7年の番付に目を向けてみると、東小結の位置にその「霧島」がいる。この霧島は、私の中学生時代の信仰対象だった初代霧島の名を継ぐ2代目霧島で、一昨年大関に昇進した際に、師匠である初代霧島の四股名を継いだ。その初代霧島は定年で師匠を引退して、前述の逆鉾が育てた横綱である鶴竜の弟子となっている。

時空を超えた番付表には、そんな胸熱でしかない要素がそこかしこに漂っている。

そして、昭和39年の番付に較べて令和7年の番付は、何と言っても国際色豊かだ。
たくさんいるモンゴル勢に加えて、カザフスタン1名、ウクライナ1名。これらの国は、昭和39年当時はソ連の一部だった。ので、恐らく仮に番付に載っていたとすると、金峰山も獅司も安青錦も狼雅も全員「ソビエト連邦」出身とかになっていたのではないか。

その他出身地で言うと、昭和39年は、横綱大鵬をはじめとして北海道出身力士が多く幕内にいたが、令和7年では一山本のみ。

あとは、「福島」が昭和39年は「福嶋」と表記されている。常錦の出身地だ。

四股名に着目すると、昭和39年は「◯◯川」という「川力士」がかなりの数いる。廣川、前田川、宇多川、羽黒川、浅瀬川。ところが令和7年に至っては、「川」が全然いないというか、幕内においては一文字も入っていない。

メイン番付ゾーン・十両以下

上が昭和39年、下が令和7年。十両・幕下のみ。

幕内の下の十両ゾーン並びにそれ以下。さすがに知らない力士が多い。いや、知らない人ばかりだ。

面白かったのが、十両東11枚目の「代官山」。そんなおしゃれな名前の力士がいたのか。

昭和39年の番付は、令和7年より人数が多く、幕下以下の力士は文字が細すぎてなかなか判読できない。

東幕下四枚目に、後に優勝する関脇の長谷川は見つけることができた。あと、西の幕下五枚目に後の大関大麒麟の麒麟児。

このへんは情報量が多い上に、判読が大変すぎるわけだが、名も無き力士たちが61年前にもこんなにいて、ABEMAもBSもない、カメラが入っていなかった時代に戦い続けていたのだなあと思うと感慨深い。

親方ゾーン

上が昭和39年、下が令和7年。

番付表の一番下の段は、序ノ口力士と、審判委員以外の親方の一覧となっている。

昭和39年当時の日本相撲協会の役職構成はよくわからないのだが、理事ではなくて「取締」という役職があって、そこに名を連ねているのが時津風理事長、前人未到の69連勝を達成した伝説の大横綱、第35代横綱、双葉山だ。双葉山、理事長をやっていたのだ。

その横、令和7年の役職構成だと、事業部長にあたる理事長の横のポジションに立浪親方、双葉山の弟弟子にして、第36代横綱の羽黒山。その横の高砂親方は、時期を考えると第39代横綱の前田山だ。休場して野球観に行って引退した人だ。

あとは、第44代横綱の栃錦の春日野親方は既に理事に名を連ねている。令和7年の春日野親方(事業部長)は元関脇栃乃和歌だが、栃乃和歌の本名の下の名前の「清隆」は、栃錦の大ファンだった栃乃和歌のおばあちゃんが栃錦にちなんで孫の名前を「清隆」にしたというエピソードがあって、最終的にその子が春日野の名前を継ぐことになったので、番付上、全く同じフルネームの「春日野清隆」になっている。

忘れてはいけないのが、親方コーナーの最後から2人目の「参与」の部分に記載されている「陸奥一博」、この方が、誰あろう冒頭で言及した大関霧島その人だ。定年で協会の役職からは引退されているが、まだ番付には存在している。

そして、昭和39年の番付表には無く、令和7年にはあるものとして、呼出しや床山、若者頭や世話人といった日本相撲協会に所属するその他の方々の名前がある。こういう方々の名前を番付で見れるのはとても素晴らしいことだなと思うので、これは良い変化だと思う。


以上、趣味に走って長くなってしまったが、なるべく、大相撲を知らない人が迷子にならないように、この、新旧の番付を愛でて、比較するというこの上なく趣味的な時間の喜びが少しでも伝わるように書き綴ってみた。

大相撲はスポーツの一種であり、伝統文化だ。歴史ある伝統文化だから、こんな感じで変わらないフォーマットの印刷物が今も昔も変わらず存在して、見較べることができる。そこが大相撲の面白さであり、変わらず存在し続けていることの意味でもある。長年のファンをやる甲斐のある、一生の趣味たりえるエンターテインメントだ。

この相撲ハードコア気味の文章から、「なんか楽しそう」を感じ取って頂けると嬉しいけど、あんまり期待していない。