見出し画像

「マモンの楽園」第1話

あらすじ

 近未来の日本にて。医療技術の発達により死産や流産の数は半減したが、代わりに十八歳までしか生きられない少年少女――マモンが誕生した。

 短命なマモンは社会的弱者として扱われ世間から同情されていた。だから多くのマモンは正体を隠して過ごすが、男子高校生のカズキはその空気に抗うべく、マモンであること隠さず生きていた。

 そんなカズキの勇気に心打たれた少女がいた。クラスの人気者である女子ユズは、自らもマモンであると明かし、提案する。

「ここに、マモンの秘密基地を作ろうよ!!」

 どうして普通の人は、弱者の幸せを認めないのだろうか。
 弱者の烙印を押されたマモンたちの、青春と反逆の物語が始まる。

本文

「ねえ、知ってる?」

 目眩、吐き気、倦怠感、頭痛――命が擦り切れていく感覚の中、彼女の声は透き通るように耳へと届いた。何度も鼓動が飛ぶせいで朦朧としていた意識が、ほんの少し鮮明になる。どんな特効薬よりも彼女の声は僕に響いた。

「昔の映画でね。余命僅かになった二人が、天国で海の話をするために、車を盗んでギャングと警察に追われながら海を見に行く話」

「知らないな」

 現代的なストーリーではないので、きっと何十年も前の映画だろう。今の時代でその映画を上映すると、不謹慎だという苦情が殺到するに違いない。
 この時代、余命・・という言葉はもっと繊細に取り扱わなくてはならない。

「なんかさ、その二人組は海に行くためにメチャクチャするんだけど、最終的には全部許されるんだよね。余命僅かになると色んなことが許されるのかな? だったら私たちも何かやってみない? 富士山を登るためにヘリコプターを奪ってみるとか」

 本当はそんなつもりないくせに思わせぶりな発言をするのは、きっと彼女の心が弱っているからだった。実際はただ単に不安を消したいだけなのだろう。でも彼女は気丈に振る舞いたいから、その感情だけは表に出したくないのだ。
 今更、そんなことしなくてもいいのに。
 僕たちは互いのことを理解している。だから、取り繕う必要なんてない。

「それが許されるのは最初の二人だけだよ。もし僕らが同じことをすれば、僕らは許されるかもしれないけれど、代わりに後に続く皆が疑われてしまう。『こいつもいつかメチャクチャなことをするかもしれない』ってね」

「そっか。……皆に迷惑かけちゃ駄目だね」

「うん。この世界に何万人といる、他のマモンたちに迷惑はかけたくない」

 真綿で首を絞めるような、拒否権のない哀れみの中で生きてきた僕たちは、せめて同類の皆には迷惑をかけないよう気をつけていた。

 僕たちは弱者だった。健康な人たちにとって、僕たちは同情に値する存在だった。
 一年前の僕はそんな境遇に耐えることができず、普通の人に反発することで自分を強く見せかけていた。でも、やがて彼らと向き合うことが本当の強さなんだと知って、それからは自分の気持ちを堂々と周りに伝えることにした。

 僕たちは弱者だ。でも、そんな僕たちの間にも、確かに青春と呼べるものがある。
 マモンという弱者の烙印を押された僕たちにも、尊くてかけがえのない、キラキラした青春を謳歌することはできるのだ。同情も憐憫も必要ないのだ。
 それを皆に知ってほしくて、僕は隣にいる少女と一緒に戦ってきた。

 戦いの末に、この世界はどう変わったのか。残念ながらそれを知る前に僕らは限界を迎えてしまった。でも、僕は自分の行動が間違っていないと確信している。

 せめて祈ろう。
 どうか、願わくばこの世界が気づいてくれるように。

 僕たちマモンも、幸せに生きることができるのだと――――。

 ◆

 映画を観に来たけれど、券売機の前に行列ができていたので帰るか悩んだ。
 いつどの映画を観るかは敢えて決めないことが僕の主義だったので、こういう状況にはよく陥る。きっと人気の作品が上映されたばかりなのだろう。映画館は普段よりも賑わっていた。

「いらっしゃいませ」

 仕方ないのでカウンターでチケットを買うことにする。受付の女性に近づくと、すぐに向こうから声をかけられた。
 適当に鑑賞する映画を決めて、タイトルを係員に伝える。係員の女性は慣れた様子でパネルを操作し、空いている席を教えてくれた。

「お席はどちらにします?」

「ここで」

「畏まりました」

 先にチケットがトレイの上に置かれる。
 僕はチケットを受け取り、そのまま立ち去った。

「お客さん! 料金のお支払いが!」

 女性の声が聞こえたので、左腕を掲げる。
 僕の左手首には銀色の腕輪が巻かれていた。一見、腕時計かと勘違いしてしまいそうな見た目だが、これはそうなるよう意図的にデザインされていた。

 腕輪によって僕の身分を知った女性は、顔を青白く染めて頭を下げる。
 まるで、言ってはならないことを言ってしまったかのような……見てはならないものを見てしまったかのような態度だった。

「見て、あの子。マモンよ」

「え、うそ」

 全身に視線が突き刺さった。指をさされ、話のネタにされている。
 だからどうした。僕は所有している権利を行使しただけで、後ろめたいことは何もない。堂々とすればいいのだと自分に言い聞かせた。

 突き刺さる視線を無視して目的の部屋に向かい、スクリーンの前に座る。まだ何も映されていない画面を見ながら、溜息を吐いた。

 西暦二〇三一年。日本は医療の発展により、死産と流産の数を半減することに成功した。免疫異常に効く薬や、染色体異常の根本的な治療法ができたからだ。

 だけど、そうして生まれた命は長くなかった。医療の発展によって死産や流産は確かに減ったが、全ての問題が解決したわけではない。
 それらの医療のもとで生まれた子供たちは、寿命が短かった。まるで神様が「運命からは逃がさない」とでも言っているかのように、彼らは長生きできない肉体で命を授かる。その寿命は長くても十八歳までだった。

 いつしか彼らはマモンと呼ばれるようになった。旧約聖書や新約聖書に現れる言葉で、不正な財を意味するそれは、確かに丁度いい名前だと思う。誰がそんな名前をつけたのかは知らないが、マモンという名はあっという間に人々へ広まり、そして差別用語として使われてはならない言葉となった。

 それから三十年ほど時が経ち、今は西暦二〇六四年。
 この世界には――たくさんのマモンが生きていた。

「ねえ。前に座っている子、マモンだよね?」

 映画が終わり、スタッフロールが流れている最中、背後からカップルの話し声が聞こえた。

「うわ、ほんとだ。無料で観てんのかな」

「いいな~」

 カップルは小声で話していたが、その内容は僕の耳にしっかり届いていた。
 マモンという言葉は差別用語とされているが、実際はこの通り多くの人が気軽に口にしている。彼らも悪気はないのだろう。マモンに代わる呼び名が定着していないのだから仕方ない。

 マモンは、公共施設をはじめとする多くの施設を無料で利用することができる。ただしその権利を使うためには、国が用意したマモンであることを証明するための銀色の腕輪をつけなくてはならない。
 死産や流産が減ったとはいえ、母体への負担がなくなったわけではない。特殊な生まれ方をした僕たちマモンは母親がいなかったり、母親とは離ればなれで暮らすことを強いられたりしていた。公共の施設をただで使えるのはそのための措置と考えれば妥当かもしれないが、多くの人はそこまで考えない。
 多くの人は、マモンが可哀想だからそういう仕組みになっていると思っている。

「ちっ」

 舌打ちすると、背後のカップルたちが息を潜めたことが分かった。
 そうなることを期待していたくせに、僕の気持ちは晴れるどころか何故か沈んだ。胸がすくと思ったのに、自分でも意味が分からなかった。

 居たたまれない気分になって早足で映画館の外に出る。沈み始めた太陽の光を浴びながら、スマートフォンを取り出し時刻を確認した。
 今日は日曜日。明日は学校だ。
 面倒臭いけれど、行かなきゃならない。

 マモンが学校に行かなければ、体調不良ではなく心の問題だと思われる。
 僕はそれがたまらなく嫌だった。

 ◆

 翌朝。僕はいつも通り銀色の腕輪をつけて学校に登校する。
 僕が通う都立桜宮高校は、僕の家から自転車で行けなくもない距離だが、マモンは無料で電車に乗れるため電車通学にしていた。
 桜宮高校は駅から向かうと商店街を通り抜けねばならない。登校時はともかく下校時は特に人の目に触れやすい通学路だが、入学当初ならともかく、二年生になった今はこちらに注がれる視線の数は減っていた。

 マモンが公共施設などを無料で使うにはこの腕輪をつけなければならないが、実際にこの腕輪をつけて毎日生活しているマモンは珍しい。少なくとも僕は僕以外の例を知らない。
 この腕輪はよくも悪くもマモンであることを証明する道具だ。だから、腕輪をつけていれば周りから注目されてしまうし、裏を返せば腕輪さえつけなければ一般人のフリ・・・・・・をすることができる。ほとんどのマモンは後者を選ぶのだろう。

 マモンはこの国に一万人しかいない。たったそれだけだ。にも拘わらず堂々と腕輪をしている僕は、一時期この学校でとても有名になった。しかしそのおかげで周囲の関心が薄れるのも早かった。上級生と下級生にも噂が広まり、酷い時は廊下を歩くだけで辺りに静寂が生まれるほど注目されていたが、そのうち誰かが注意を促したのだろう。「話題にするのは不謹慎」という空気がやがて蔓延し、気づけば僕は無遠慮な視線から解放されていた。
 しかし代わりに、今度は誰も僕に関わろうとしなくなった。偶に「おはよう!」と元気よく挨拶されるが、大抵僕はその人のことをよく知らないし、その人も挨拶するだけで僕と仲良くなりたいわけではなさそうだった。そういう人は僕と話したいのではなく、相手がマモンでも臆することのない自分のかっこよさを周囲にアピールしたいだけだった。
 うんざりする。僕は肝試しの道具じゃない。

 教室に入り、鞄の中から本を取り出した。
 いつも通り読書に集中して外部の世界を遮断する。
 
「カズキ君はどう思う?」

 本を読んでいると、唐突に声をかけられた。
 同じクラスの女子が、僕の顔を上から覗き込んでいる。

「何が?」

「もう、聞いてなかったの? 文化祭の出し物について皆にアンケートを取ってるの」

「何でもいいよ」

 この女子は――皆からユズと呼ばれている少女は、僕のクラスで一番人望のある生徒だった。まん丸な瞳と少しふっくらした頬が特徴的な可愛らしい見た目で、髪は肩甲骨まで伸びている、元気な性格の同級生だ。彼女はいつもクラスの中心にいて、クラスメイトたちの意見をまとめていた。

 でも、僕はどうせこの女子も他の奴らと同じなんだと思っていた。マモンである僕にも臆することなく話しかけることで、自分の株を上げているのだ。

 今更そんなことに苛立ちはしないが、鼻につくには違いないので素っ気なく話を切った。人気者のユズにそんなことをしたら、本来ならクラスメイトたちから酷く憎まれるはずだが、僕は問題ない。
 何故なら僕はマモンだから。疎まれることはあっても、嫌われることはない。
 そういう空気を作ったのは僕ではなく、お前たちだ。

 いつも通り授業を受け、いつも通り昼休みが訪れた。
 教室を出て、購買でパンを買ってから校舎裏に出る。校舎裏のフェンスはその気になったら簡単に越えられる高さだった。近くには用務員が使う物置があり、僕はそこから小型の脚立を取り出してフェンスを超える。
 かれこれ一年以上こうして昼休みは学校の外へ抜け出しているが、今のところバレていない。この学校は防犯意識が低いのだろうか。

 学校の裏には小さな山がある。雑に舗装された坂道を上ると、その先には木造の小屋があった。僕はその小屋の中に入り、ガタガタと揺れる椅子に腰を下ろし、一息つく。

「ふぅ」

 昼休みはこの小屋で誰とも関わることなく過ごすのがルーティーンだった。どうしてこんなところに小屋があるのかは知らない。山の所有者が建て、そのまま放置しているのだろうか。僕以外にこの小屋を使っている人もいなさそうだ。

 偶に掃除しているので小屋の中は綺麗だった。とはいえ誰かを招くつもりはない。ここは外界と隔絶された僕だけの楽園だ。他者が存在しない、自然の静けさに溶け込んだ聖域である。
 そう思っていたのに、

「カズキ君」

 サンドウィッチを食べていると、名前を呼ばれた。
 そんなはずがないと思いつつ顔を上げる。
 目の前に、ユズが立っていた。

「昼休み、いつも教室にいないと思ってたけどこんなところにいたんだね」

「……いや、なんでここに?」

「追いかけちゃった。ごめんね」

 ユズは可愛らしく笑った。
 意味が分からない。混乱する僕に、ユズは楽しそうに再び問いかけてくる。

「どうしてここでご飯を食べてるの?」

「別に、なんだっていいだろ。一人が好きだからだよ」

「ほんとに? 同情されたくないだけじゃなくて?」

 急に踏み込んできたので、僕は目を見開いた。
 この少女はもっと距離感を大事にする性格だと思っていた。だから人気者だと思っていた。

 もしかして、僕がマモンだからその手間を省いているのだろうか。
 そう思ったら怒りが湧いてきた。

「分かったような口をきくなよ」

「分かるよ。だって私も同じだもん」

 乱暴な口調で告げた僕に対し、ユズは訳の分からないことを言った。
 ユズはスカートのポケットに手を突っ込み、中から銀色の腕輪を取り出した。

「ほら、これ。お揃いでしょ?」

 それは紛れもなく、マモンであることを証明する銀色の腕輪だった。
 ユズは満面の笑みを浮かべながら、僕と同じように左手首に腕輪を装着する。身分詐称を防止するために、腕輪を装着する際は持ち主の指紋でロックを解除しなければならないが、ユズはそれを極めて自然な手つきで解除してみせた。

 嘘だ。
 咄嗟に心の中でそう叫ぶ。
 でも、嘘だと決めつけられる根拠なんて一つもなかった。
 勝手に思い込んでいたのだ。クラスの人気者で、こんなに明るい性格の人が、まさかマモンのはずがないって――――。

「マモン、だったのか」

「そう。同情されたくないからずっと隠してたの。学校で知ってるのは先生だけ」

 ユズは腕輪を撫でながら言った。
 あまりつけ慣れていないのだろう。違和感があるようだ。

「だから、いつもカズキ君には勇気を貰ってたよ。私と違って自分がマモンであることを堂々と皆に示しているから。そういう生き方って凄くかっこいいなって思ってた。いつか二人で話してみたいと思ってた」

 本当に、心の底から尊敬されているのだと分かるくらい純粋な眼差しを注がれた。
 でもすぐにその瞳は、罪悪感に満たされる。

「ごめんね。今まで黙ってて」

「……いや、いいよ」

 正直、まだ困惑していてそれどころではなかった。
 マモン同志で会話するのはこれが初めてだった。多分ユズもそうだろう。

 別に僕は、自分がマモンとして正しい振る舞いをしているとは思わない。むしろ客観的には僕よりもユズの方が正しいだろう。ユズはマモンなのに、皆に好かれている。僕とは正反対のような存在だ。

「僕は別にかっこよくないよ」

 ユズの勘違いを、僕は指摘する。
 指摘せずにはいられなかった。

「本当に堂々としているなら、こんなところに来ない。普通に教室で食べてる」

「じゃあ、どうして腕輪をつけてるの?」

 訊かれて、悩む。すぐに言語化できるものではなかった。
 でも、多少苦労してでも伝えてみたいと思った。何故なら目の前の女子は、僕と同じマモンだから――分かり合える相手かもしれないから。

「……空気に、抵抗したいから。マモンは、息を殺して生きなくちゃいけないっていう、暗黙の了解に一矢報いたいから」

 多分それが僕の本音だった。
 僕にとって腕輪を外すということは、マモンであることを隠し、普通の人のフリをして生きていくという決意表明だ。

 それはまるで、普通の人たちに頭を下げて、仲間に入れてもらうようなものではないだろうか。
 僕にとってそれはとても惨めなことだった。
 自分が弱者だと認めているに等しい行為だった。

「僕の方こそ、誤解させてしまってごめん。僕はただ、弱い奴だと思われたくないだけなんだ。ちっぽけなプライドに突き動かされているだけだよ」

 学校は疲れる。でもそれを周りに悟られたくはなかった。もし僕が皆の前で疲れた様子を見せたら、マモンだから何か辛いことがあったのかな? と思われるから。
 律儀に皆勤賞を守っているのも、学校に来なくなった時、マモンだから何かに悩んでいると勘違いされたくないからだ。

 己の罪を告白しているかのような気分だった。
 さぞや失望しただろう。そう思い、ユズの方を見る。
 しかしユズは、慈愛の込められた笑みを浮かべていた。

「でも、そのプライドのおかげで私は救われたよ」

 優しい声音で、ユズは言う。

「カズキ君。私ね、ずっとやってみたかったことがあるの」

 ユズは微かな緊張と共に告げた。

「マモンだけの秘密基地を作ろう!」

「秘密基地?」

「そう。マモンによる、マモンのための、マモンだけの秘密基地!」

 ユズはいたずらを思いついた子供みたいな顔で言う。
 その瞳は希望に満ちていた。

「マモンには、皆、例外なく生きづらさがあると思う。だからそれをマモン同士で分かち合えるような居場所があったらいいなって考えてたの」

 優しくて親しみやすい、教室でいつも見ていたユズそのものだった。
 ユズはマモンでもユズのままだった。

「カズキ君は例外だったけど、多くのマモンは正体を隠して社会に溶け込んでいる。でも正体を隠しているってことは、心の中では孤独なんじゃないかな」

 私みたいに、とユズは小さな声で呟いて続けた。

「その孤独を、少しでも和らげることができたらいいなって思うの。カズキ君が私にしてくれたみたいに」

「僕が?」

「カズキ君が堂々とその腕輪をつけているおかげで、私はいつも独りじゃなかった。この学校には、私と同じ人がいるんだって安心して過ごすことができた。その気持ちを、私は他のマモンにもお裾分けしたいの」

 少しずつ、ユズの言葉には熱が込められていった。

「孤独に苦しんでいるマモンに、寄り添える集まりを私は作りたい。だからお願い、カズキ君も協力して。カズキ君がいてくれたら百人力だよ」

 ユズは僕の顔を真っ直ぐ見つめた。
 僕なんかがいたところで力にはなれない気もするが、注がれる視線には、簡単に拒否できないほどの大きな信頼が込められていた。

 マモンには色んな悩みがある。僕だってそうだ。時にはその悩みを同じマモンに共有したくなる。ふとした時に感じる孤独もその一つだ。

 でも、そんなことすれば周りの皆に同情される。マモンだけで集まれば、普通の人たちから「あいつらは傷を舐め合っている」と思われる。それが嫌なのだ。
 ユズもそれが分かっているから教室ではなくこの公園で、二人きりになったタイミングで声をかけてきたに違いない。

 大人になれば達観して、こんなふうに周りの目を気にしなくても済むようになるのだろう。でも僕らは大人になれない。子供のまま死ぬのだ。
 僕たちマモンに、手本にできる大人はいない。
 だから僕たちは、子供なりに自分たちの考えを貫くしかない。

「いいよ」

 考えた末、僕は答えた。

「協力する。ここに、マモンだけの居場所を作ろう」

「ほんと!? やったーーー!!」

 ユズは飛び上がるように喜んだ。

「でも、他のマモンはどうやって呼ぶつもりなんだ?」

「あんまり目立っちゃうと秘密基地の意味がないから、それとなく噂を広めてみようと思うの。ここでマモンの集会が開かれているって感じで」

「そんな簡単に噂なんて広まるものかな」

「大丈夫。私、これでも顔が広いから。他校にも友達がいるし、バイト先でもたくさん言ってみる。SNSとかチラシも利用してみよっか」

 あらかじめ作戦も考えいたのだろう。ユズの提案は現実的で、効率的に感じた。
 僕は今まで、僕なりにマモンのことを考えて行動しているつもりだった。マモンは弱者だというイメージを払拭したくて、心を強く保っていた。
 でも、こうしてユズの話を聞いていると、僕よりも彼女の方がマモンについて真剣に考えているような気もした。

「いきなりここに呼ぶのはやめよう」

 気づけば僕は、目の前のユズと同じように頭を捻って意見を出していた。
 そうしなければ彼女の隣に立つことはできないと思った。

「そのまま噂を流すと関係のない人たちも来ると思う。だからまず、秘密基地の場所は近くの公園ということにしよう。そこで集まった人たちの中にマモンがいたら、本当の秘密基地であるここに招待する」

「そっか。マモンであることを証明するのは簡単だもんね」

 僕は首を縦に振った。目の前で腕輪のロックを解除してもらえばいい。

「これからよろしく、ユズ」

 敬意を言葉に込めて伝える。
 するとユズは目を丸くした。

「いきなり下の名前で呼んでくれるんだ」

「あ、いや、だって普段そう呼ばれてるから」

「そうだね。うん、そう呼んでくれたら嬉しいな。私もカズキ君って呼んでるし」

 ユズはちょっとだけ頬を赤く染めて頷いた。
 こうして、僕たちはマモンの秘密基地を――マモンだけの居場所を作ることにした。

 不思議と心が軽かった。
 誰かと一緒に何かをするのは、生まれて初めてのことだった。

 ◆

 とある公園でマモンの集会が行われているらしい。そんな噂を流して一ヶ月が経ったが、成果はまだ出ていなかった。

 噂を流して半月後、最初に噂を聞いてやって来たのはマモンではなく、興味本位でマモンの集会を覗き見しに来た二人組の一般人だった。
 予想した通りの結果だ。公園のベンチで仲間マモンを待っていた僕らは、彼らの玩具になることを避けるため、自分たちも覗き見しに来ただけの一般人であると嘘をついて解散した。僕はその時、本音を言うと腕輪を隠すことに抵抗があったが、それ以上にユズに迷惑をかけたくなかったのでポケットに手を入れて腕輪を隠した。

 その後も見物目当ての一般人は何組か来たが、マモンと思しき人はいっこうに来なかった。一般人である彼らは僕らをマモンだと疑うことはない。彼らにとってマモンとは日陰の住人であり、こうして表だって集まるような人種ではないという先入観があるのだろう。だからこそ集会があると聞いて興味本位で訪れたのだ。

「なかなか来ないね」

「そうだね」

 この日も僕らは公園でマモンが訪れるのを待っていたが、今日は誰も来なかった。

「今日はもう遅いし、駅前の書店でも寄って解散する? ほら、カズキ君の行きつけの」

「なんで僕の行きつけを知ってるんだ」

「私はカズキ君のファンですから!」

 どう反応したらいいのか分からなかったので、僕は無視した。
 一ヶ月前、僕は自分が堂々としているのは虚勢を張っているだけだとユズに説明したはずだが、それでもユズは僕に対して尊敬の念を抱いているようだった。

 気持ちは嬉しいが、間違ってもこれを男女の恋愛的な感情だと受け取ってはならない。彼女はあくまで一人のマモンとして僕を尊敬しているだけだ。それでも分不相応ではあるが。

 駅前の商店街に向かい、その中にある書店へ僕とユズは入った。
 店内に僕らと同じ制服を着た学生が何人かいた。彼らを見た瞬間、ユズの表情が微かに強張った。

 普通の人・・・・の仮面を作ったのだ。
 ユズはいつも自然体だと思っていたけれど、こうして一緒に過ごすようになり、マモンとしての彼女を見れば見るほどそうじゃなかったんだなと気づく。会話が上手で、こんなに明るい性格のユズでも、一線を引かないと普通の社会には馴染めない。
 それでも、馴染もうとしない僕と比べると遥かに優秀だった。

「ユズは普段どんな本を読むの?」

「実はあんまり読まないんだよね。本よりは映画の方が好きかも」

「映画なら僕もよく見るよ」

「ほんと!? 私、昔の映画が好きなんだけど、カズキ君はどんな映画見るの!?」

「最近の映画かな。マモンなら映画館が無料だから」

 昔の映画ということは、多分劇場ではなく家で見ているのだろう。微妙に趣味の範囲がズレている気もしたが、これなら本屋よりも映画館に行くべきだったかもしれない。

 でも、それを提案するのは少し勇気がいることだった。異性と二人きりで映画館に行くなんて、まるでデートみたいだから。
 早く三人目のマモンは来ないだろうか。そしたら気軽に行けるのに。

「カズキ君?」

 誰かから声をかけられる。
 振り向いた先には、ユズと同じ制服に身を包んだ女子がいた。

「立花?」

 サラサラの髪をポニーテールにまとめた同級生の女子だった。色白で、大人しそうな雰囲気で、視線はいつも正面ではなく斜め下を向いている。

「カズキ君の知り合い? 同じ学校だよね?」

「あ、えっと、立花です」

「ども! 私はユズです!」

 立花は小さな声で「知ってます」と呟いた。
 まあ、知っているだろうな。ユズはうちの高校では有名人だ。勿論いい意味で。

 互いに自己紹介したはいいものの、特に話題はない。よく分からないけどユズが立花に興味を抱いているようなので、適当に補足しておくことにした。

「立花とは同じ中学校の出身なんだ」

「へ~! そうだったんだ!」

 教室にいる時の僕はあまり他人と会話しない。でも立花は違ったから、ユズは不思議に思ったのかもしれない。

「あの、二人はなんで、一緒に?」

 立花が僕らの顔を見て訊いた。
 どう答えればいいんだろう。悩む僕の隣で、ユズがいたずらっぽく笑う。

「秘密!」

「えっ」

 目を丸くする立花の前で、ユズが僕の手を引き「行こっ!」と店の外まで歩き出した。
 結局、本を一冊も買わないまま店を出た僕は、ユズの横顔を見つめる。

「なんか誤解されそうな気がするんだけど」

「されたらどうしよっか? いっそ誤解じゃなくて事実にする?」

「変なこと言うなよ」

 慣れない冗談を言われて少し動揺した。

「あの子、カズキ君のこと好きかもね」

「は? なんで?」

「だってさっき、何をしてるのじゃなくてなんで一緒にいるのって訊いてきたでしょ? 立花さんにとって、カズキ君が私と一緒にいるのは凄く気になることだったんだね」

 そんなのはこじつけだ。
 そう思ったが、一瞬だけその可能性を考慮してしまい、返事の機会を失ってしまう。

 立花とは少し複雑な関係だった。僕の方は特に何も思うところはないが、向こうがどうかは分からない。好意を向けられているとまでは言わないけれど、彼女はまだ僕にを感じているのかもしれない。

「じゃあカズキ君、また明日!」

「うん、また明日」

 駅のホームでユズと別れる。
 この一ヶ月、次の日が待ち遠しくなるような毎日を過ごせていた。

 ◆

 翌日の放課後も、僕らは公園に向かった。

「それじゃあ、今日も辛抱強く頑張ろっか」

「そうだね。頑張ろう」

 ベンチに腰掛けて、時折雑談しながら他のマモンが来るのを待つ。
 最初の一週間は、頑張ろうなんてお互いに言わなくても頑張っていた。しかし思ったよりも成果が出なくて、いつしか互いに励ます回数が増えていた。
 
「飲み物を買ってくるよ。何がいい?」

「紅茶! レモンの方!」

 気分を変えたくて、飲み物を買ってくることにする。
 近くにあった自販機が偶々マモンなら無料で使えるものだったので、ポケットから腕輪を出して装着した。腕輪の機能で飲み物を二つ買う。

 このまま誰も来なかったらどうしよう。
 もしかすると、この街には僕たち以外のマモンはいないのだろうか。……それならそれで悪くないかもしれない。マモンなんてそう多くない方がいいのだから。

 でも、もしそうならユズは残念に思うだろう。
 それはちょっと嫌だった。

「あ、やっぱりお前だったか」

 その時、背後から声をかけられた。
 背筋が凍る。振り返った先にいたのは、ジーンズをはいた厳つい雰囲気の男だった。大柄で、がさつそうで、言葉を選ばずに言ってしまえば不良っぽく見える。

「……誰?」

 間違っても知り合いではないその男は、僕の顔と、僕が今しがたつけたばかりの腕輪を交互に見て笑っていた。

 マモンをからかいに来たのだろうか。
 そう思って男を睨むと、男は不思議そうな顔をした。

「あれ、覚えてないか? 半月前に会っただろ?」

 男の発言を聞いて僕は「あ」と声を零した。
 そうだ。この男は確か、初めて公園を訪れた二人組の一人。興味本位でマモンの集会を覗き見しに来た奴だ。

「悪いな。正直、噂が本当か疑ってたから、前は一般人のフリして友達と一緒に来たんだ」

 そう言って男はポケットから銀色の腕輪を取り出した。

落合おちあいワタルだ。私立南尾みのお学園の三年で、お前と同じマモンだよ」

 男は――ワタルは、腕輪のロックを解除して、それを右腕につける。

 ◆

 ワタルがマモンであると明らかになったため、僕らは場所を公園から例の小屋に移し、この小屋こそが本当の基地なのだとワタルに伝えた。
 生きづらさを抱えたマモンたちにとって、少しでも居心地のいい集まりを作りたい。そんなユズの願いを聞いて、ワタルは深く頷き、仲間へ入ると誓った。

「敬語も抜きでいいんですか?」

「ああ。だってここは、マモンによる、マモンだけの居場所なんだろ? だったらそれ以外の要素は捨てちまおうぜ。マモンなら誰でも平等な環境にしよう。その方が俺もやりやすい」

「分かった。じゃあ遠慮なくタメ口で話すね!」

 ユズはすぐにワタルのことを受け入れたが、正直、僕は少し不安だった。
 ワタルは二、三言話すだけでも分かるくらい豪胆な性格をしている。僕とユズが生み出したこの居場所が荒れていく懸念があった。

「二人は同じ制服だな。どこの学校に通ってんだ?」

「私たちは桜宮だよ」

「頭いいなぁ。それに二人とも真面目そうだ」

「ワタル君は不真面目そうだもんね。いかにも不良って感じ!」

「まあどっちかって言うと不良かもな。喧嘩はしねーけど授業はよくサボる。ていうか俺からしたらお前らの方が不思議だよ。マモンなのに、よくグレずに生きてこられたな」

「私たちは大人だからね~」

 大人になれないマモン流のジョークだった。
 それを普通の人相手にやると、とても引き攣った顔を見られるだろう。

「二人とも二年生なのか?」

「そう。今年で十七歳」

 ユズが間髪を入れずに答えると、ワタルは「そうか」と相槌を打ち、

「じゃあ、最初に死ぬのは多分俺だな」

 一瞬だけ、ユズが返答に困ったように見えた。
 だから代わりに僕が口を開く。

「一年なんて誤差だよ。どうせ三年後には誰もいない」

 僕が答えてみせると、ワタルは目を丸くして、それから激しく笑った。

「マモン同士の会話って、こんなに気楽なんだな」

「だね。一般人はマモンと話す時、地雷を踏み抜かないよう常に緊張している感じがするから」

「分かる。俺も親がまさにそうだ」

 その一言を聞いただけで、僕のワタルに対する警戒心が少し緩くなった。
 今みたいな話に共感してくれる時点で、ワタルはやっぱり仲間なのだろう。

「ワタル君が死ぬ時は、盛大にお見送りするからね!」

「おいおい、俺はもうちょっと長生きするつもりだぜ」

 ユズもすぐに調子を取り戻して会話に参加した。
 そうでなくちゃ困る。僕は本来、そんなに会話が得意じゃないんだから。

「二人とも、駅までか?」

「そうだよ!」

「じゃあ一緒に帰ろうぜ」

 ワタルと話し始めてまだあまり時間が経っていないが、そろそろ日も暮れそうなので解散することにする。僕らが秘密基地に使っている小屋は日当たりがいいため日中は問題ないが、照明器具がないため夜間は薄暗くなりがちだった。

 三人で駅に向かう。
 坂を下りながら、ワタルが手首に巻いている腕輪を外した。

「ワタル君も、普段は腕輪をしないタイプ?」

「まあ、目立つしな」

「ワタル君の場合、腕輪をしなくても目立ちそうだけどね!」

「はっはっは! 違いねーや!」

 腕輪を鞄に入れたワタルが、豪快に笑う。

「カズキはつけたままなのか?」

「うん。なんだか負けた気がするから」

「すげーな、その根性」

「意地になってるだけだよ」

 ワタルが感心したような目で僕を見てきたため、自嘲気味に答えてみせる。
 するとワタルは、神妙な面持ちで口を開いた。

「俺も最初は腕輪をつけたままだったんだけどな。親があんまりいい顔をしなかったから、やめたんだ」

 ワタルは小さな声で語る。

「外面を気にするタイプの親でな。俺がよくても親の方が駄目だったらしい。……マモンを生んだ親っていう肩書きが、キツかったみたいだ」

 マモンを生んだ親。
 社会的弱者を生んだ親・・・・・・・・・・

 まるでその肩書きを持っているだけで、自分も社会的弱者に落ちてしまいそうだ。ワタルの親はその感覚が耐え難かったのだろう。

「この見た目もさ、不良っていうより引っ込みがつかなくなっちまったんだよ。最初は行き場のない反抗心を吐き出していただけだったんだが、それが虚しいもんだと気づいた頃には周りのメンツがろくでもない連中ばかりになってて。今更やり直す時間もねーし、開き直ったんだ」

 とても、とても共感できる話だった。
 行き場のない反抗心を変な形で吐き出してしまうことも。今更やり直す時間もないから貫き通すしかないことも。僕にはその気持ちがよく分かった。

 ワタルの、何かを諦めたようなその顔には見覚えがある。
 毎朝、鏡の前で見ている顔とそっくりだ。

「分かるよ、その気持ち」

 僕は素直に感想を伝えた。ワタルと違って吐き出せるエピソードはすぐには思いつかなかったけれど、この気持ちは真っ直ぐ伝えるべきだと思った。
 僕もマモンだから分かる。マモンは、分かってくれるだけで嬉しいのだ。

「マモンの中でも、男同士だと更に話しやすいな」

「だね」

 ユズが「ちょっと、私もいるんですけど~?」と拗ねたので、僕らは笑った。
 ワタルと分かり合えた瞬間だった。

「仲間探しはまだ続けんのか?」

 ふとワタルが尋ねる。

「私は、もうちょっと続けたいな。まだ近くにいるかもしれないから」

「だな。俺の方でも噂を流してみる」

 思えば、最初はワタルのように噂を鵜呑みにせず様子見する人もいるのだろう。
 そういう人たちのためにも、僕らはもう少し仲間を探すことにした。

 ◆

 翌日。
 この日の放課後は用事があったので、先にユズだけが公園に行くことになった。今日からワタルも一緒に仲間探しをしてくれるため、心細くはならないだろう。

「あ」

 図書室で本を借りるためにカウンターの列に並んだら、偶々一つ前に並んでいた立花と目が合った。

 瞬間、二日前にユズから言われたことを思い出す。
 あの子、カズキ君のこと好きかもね。――そんなわけがない。ただの冗談だと分かっているのに、僕は立花から目を逸らさずにはいられなかった。

「カズキ君、図書室に来ることもあるんだね」

「まあ」

 幸い立花にこちらの動揺は伝わらなかったらしい。普通に話しかけられる。

 僕が普段通っている駅前の大型書店では、マモンなら月に十冊まで無料で本を入手できるキャンペーンを実施している。別に映画も本も大好きというわけではないが、高校生の僕にとって無料というのは魅力的だし、なんといっても一人で完結する趣味として読書は重宝していた。だからユズに行きつけと言われるくらいにはあの店に通っていた。

 今はシリーズものを読んでいるが、続きを読もうとしたら駅前の書店では売っていなかったので、仕方なく図書室に来たのだ。
 似たような理由で学校の図書室には何度か訪れており、その度に立花と顔を合わせている気がした。立花は本が好きなのだろう。もしかすると僕らは読書の話題で盛り上がれるかしれないが、僕は一人で完結する趣味を広く浅く持っているだけなので密度の高い会話はできそうになかった。

 それに、最近は読書の頻度も減っていた。
 今の僕には気楽に話せる相手がいる。ユズと、それから昨日親しくなったワタルだ。彼らと話す時間が増える分、これから読書の時間は徐々に減っていくんだろうなという予感があった。

「カズキ君、最近明るいね。ユズさんと何かあったの?」

「別に、何もないよ」

 何もなくはないだろう。分かりやすい嘘をついてしまった。
 普通の人に、僕らの関係には立ち入ってほしくない。そんな気持ちが無意識に溢れ出たのだ。

 見え見えの嘘をつかれて、立花も何を言ったらいいのか分からない顔をしていた。この気まずい空気を作ってしまった責任を取るべく、僕は違う話題を捻り出す。

「立花。もう、前みたいなことはされてないか?」

 周りに聞こえない声量で、そっと尋ねた。
 立花は一瞬だけ嬉しそうな顔をしたが、すぐに恥ずかしそうに表情を落ち着かせる。

「うん。大丈夫。カズキ君のおかげで」

「ならよかった」

 取り敢えず、気まずい空気は解消できた。
 立花が本の返却と貸出を行い、僕は貸出だけを行う。
 図書室を出て、ユズとワタルが待っている公園へ向かおうとすると、

「あの、カズキ君! この後、ちょっとだけ時間いいかな!?」

 図書室の外で待っていた立花が、僕の顔を見るなり言った。
 立花にしては珍しく大きな声だったので、思わず足を止める。

「いいけど」

 何の用か気になったが、すぐには話してくれなかった。学校では話しづらいとのことなので、外に出てから切り出すとのことである。

「それで、話って?」

 校門を抜けて一分ほど駅へと歩いてから、僕は訊いた。
 図書室からここまで、立花はずっと緊張していた。ただごとではないことが窺える。

「実は、私もマモンなの」

 鞄を落としそうになった。
 どう返事をしたらいいのだろう。思いついた言葉はどれも不適切な気がして、口をパクパクと動かすことしかできなかった。

「腕輪は、あるのか?」

「うん」

 やがて僕の口から出た問いに、立花は頷いて鞄に手を入れた。
 鞄から取り出した腕輪を、立花は自分の左手首につける。
 マモンだ。立花も、マモンだったのだ。

「どうして、今まで黙ってたんだ?」

「それは、だって、言いにくくて」

 一番納得できる理由だった。
 ユズも同じ理由でマモンであることを隠しているし、あの大胆そうなワタルですら隠している。気の弱い立花が内緒にしていても全くおかしくはない。

「……立花。このまま一緒に来てくれないか? 会わせたい人がいるんだ」

 立花は無言で首を縦に振った。
 駅へと続く商店街を歩き、途中で角を右に曲がる。しばらく歩いた先にある公園のベンチに、見知った二人の男女が腰かけていた。

「カズキ君! ……と、あれ? 立花さん?」

 以前一度会っただけで、ユズは立花のことを覚えていたらしい。
 首を傾げるユズの隣でワタルはいち早く状況を察した。立花の左手首には腕輪が巻かれている。

「立花もマモンだった」

「えー! あの学校に私たち以外のマモンがいたんだ!!」

 立花が「私たちって……?」と驚くので、ユズは立ち上がって腕輪を見せた。

「私もマモンだよ!」

 何故か得意気に告げるユズ。
 しかし立花は、目をしばたたかせるものの、それ以上の反応はなさそうだった。

「あれ? あんまり驚いてない?」

「う、ううん。驚いてはいるんだけど、予想はしていたというか。……最近、駅前の公園でマモンの集会が行われてるって噂を耳にすることが多くて。それと大体同じ時期に、カズキ君とユズさんが仲良くなった気がしたから、もしかしたらって思ってたの」

「おぉ、探偵だ! カズキ君、探偵がいるよ!」

「いや、これは感心している場合じゃないと思うよ」

 僕はマモンであることを隠していないから問題ないけれど、このままだとユズとワタルがマモンかもしれないと勘づかれてしまう。これからはもっと周りの目を気にした方がいいだろう。

「立花。分かってるとは思うけど、ユズは自分のことを内緒にしてるから言わないようにね」

「う、うん。気をつける」

 念のため立花に釘を刺しておいた。

「立花さん、下の名前はなんて言うの?」

「えっと、アイカだけど」

「じゃあアイカって呼ぶね! カズキ君もそう呼ぼうよ!」

 え、と思わず声が出た。
 嫌だというわけではなく、単純に想定していなかったから。

「私たち皆、下の名前で呼び合ってるじゃん」

「……それもそうか」

 ユズ、ワタルときて、立花だけ名字で呼ぶ方が不自然かもしれない。

「じゃあ、えっと、よろしく。アイカ」

「うん、よろしく。カズキ君」

 夕陽の影響か、アイカの頬が微かに紅潮しているように見えた。
 またユズに言われたことを思い出す。あの子、カズキ君のこと好きかもね。――気にしないと決めたのに、頭が勝手に意識していた。

 ◆

 その後、アイカを秘密基地に案内してから解散となった。

「じゃあ皆、電車通学なんだな」

 駅に向かいながらワタルが言う。
 僕とユズが電車通学なのは知っていたが、ワタルとアイカも同じだったらしい。

「ワタルさんはどこに住んでるんですか?」

「ここから一つ離れた駅。だから本当は俺も桜宮に通いたかったんだよな。あと敬語は抜きでいいぞ」

「あ、そうだった」

 マモンという共通点さえあれば、それ以外の上下関係は一切ない。それがこの集まりのルールだった。アイカには既に説明していたが、まだ慣れるまで時間がかかりそうだ。

 昔からアイカは内気で臆病な性格だったので、ワタルと打ち解けるにはもう少しかかるかもしれない。でも、きっと大丈夫だろう。マモンという共通点があるなら、すぐに仲良くなれるはずだ。僕と同じように。

「しかし、こんな近くに四人もマモンがいたんだな」

「ね、私も自分とカズキ君しか知らなかったよ。先生たちもどこまで知ってるんだろ」

 僕やユズが通っている桜宮高校には、三人のマモンがいたことになる。
 こうして考えると、学校の先生はなかなかの役者だ。僕たちの正体を知ってなお、それを今まで隠し通してきたのだから。

「そういえばお前らって映画館とか行ったことあるか? マモンが無料になるやつ」

「僕はこの間、行ったばかりだけど」

「あれって実際どんな感じだ? やっぱマモンの割引使うとじろじろ見られんのかな?」

「正直、見られるね。でも券売機でチケットを買うならだいぶマシになるよ」

 こういうマモン同士でしかできない会話は本当にありがたかった。悩んでいたのは自分だけではないと知ることができる。ワタルも、ユズも、アイカもそうだろう。心地よくて落ち着いた空気が流れていた。

「次の電車、いつだったっけな」

 駅の改札を抜けたところで、ワタルがスマートフォンを触り出した。この駅は準急列車までしか止まらないため、場合によっては十分近く待つこともある。

 その時、アイカがぎょっとした表情を浮かべて僕に近づいてきた。

「アイカ、どうしたの?」

「ワタル君のハンカチに、血がついているような気がして」

「血?」

 静かに耳打ちするアイカ。僕はワタルの方を見る。
 ワタルのポケットから、赤茶色の汚れがついたハンカチがはみ出していた。スマートフォンを出す際にはポケットからはみ出してしまったのだろう。

 アイカは怯えた面持ちをしている。ワタルは見た目が不良っぽいから、そこに血のついたハンカチを見て恐ろしいイメージを浮かべてしまったようだ。

 少し前までの僕なら同じようになっていたかもしれない。
 でも今は違う。今の僕は、ワタルを一人の仲間として受け入れて信頼していた。

「ワタル。そのハンカチ、汚れてない?」

「ん? あー、これか。一応言っとくけど血じゃねーからな」

 やっぱり血ではなかったようだ。
 では何の汚れなのだろう? そう疑問を抱く僕たちに、ワタルは難しい顔をした。

「説明するのは問題ねーんだけど。……皆、今からちょっと寄り道できねーか?」

 僕とユズとアイカは顔を見合わせ、それぞれ「大丈夫」と頷いた。
 乗る予定だった電車を見送り、ワタルの案内に従う。普通列車で一駅進んだら電車を降り、駅を出てからしばらく歩いた。
 やがてワタルは、ある建物に入る。

「絵画教室?」

 入り口の看板を見て、ユズが首を傾げた。
 多分、個人が経営している教室なのだろう。二階に上がると広い部屋があり、そこには何枚ものキャンバスが立てかけられていた。

「この絵、どう思う?」

 ワタルが一枚のキャンバスを手に取り、僕らに見せた。
 不思議な絵だった。森の中の風景であることは分かるが、木漏れ日が液体のように表現されており、それが川や動物、落ち葉と混ざり合ってスープのように描かれている。キャンバスの底には「自然の恵み」と記された紙が貼られていた。

「わ~、綺麗な絵だね」

 ユズの感想に、僕とアイカも頷いて同意を示した。
 繊細で、優しい筆遣いで描かれた絵だった。詳しくはないが、油絵というやつだろう。

「これ、俺が描いたんだ」

 え、と三人の声が重なった。

「なんだよ、信じられねーってか? こんなナリでも俺は画家志望なんだ」

 画家志望・・――。
 それは、マモンにはあまりにも似合わない発言だった。

「ハンカチについてたのは絵の具だよ。悪いな、怖がらせちまって」

 ワタルが笑う。しかしもうハンカチのことはどうでもよかった。
 ワタルは将来画家になりたいのだろう。でもマモンにはその将来・・が存在しない。ワタルは今、高校三年生で、もういつ死ぬか分からない状態なのだ。

 今、画家じゃないなら……もう無理だ。
 絶対に間に合わない。なのに、ワタルは堂々と画家志望だと告げた。

「凄いね」

 ユズが言った。

「凄いよ。そうやって、何かを成し遂げようする人……尊敬する」

 ユズの純粋な賞賛を聞いて、僕の胸中に渦巻いていた複雑な気持ちは霧散した。
 僕は今、勝手にワタルのことを気遣っていなかったか? ――なんて傲慢な考えを持ってしまったんだろう。僕は今、普通の人がマモンに対して抱いている感情と同じものを持ってしまったのだ。

 激しく自己嫌悪して、改めてワタルのことを考えた。
 後に残ったのはユズと同じ、純粋に賞賛したいという気持ちだけだった。

「アイカも、確か、頑張ってることがあるよね」

 隣に立つアイカを見て言う。
 話を振られると思っていなかったアイカは驚いていたが、僕が何を言っているのか察してか遠慮気味に頷いた。

「えっと、実は吹奏楽をやってて」

「えっ!? 凄いじゃん!」

「いや、でも、今はそんなに本格的じゃないの。昔、中学校の部活で何度か入賞したことがあるくらいで」

「いやいや! 充分凄いって!」

 賞賛するユズに対し、アイカはほんの少し気まずそうな顔をした。
 そういえば最近アイカが吹奏楽で結果を出しているという話はあまり聞いていない。昔の話を軽率にしてしまったか、と僕は内心で反省した。

「私なんか何もできてないよ。どうせ、芽が出る前に死んじゃうんだろうなって思ってたから」

 ユズが視線を下げて言う。僕も全く同じだった。
 だからこそ、二人のことは心の底から尊敬する。

「芽が出てほしいって気持ちもあるが、案外努力すること自体が楽しかったりするんだよな。アイカもそう思うだろ?」

 ワタルに見られ、アイカは怖ず怖ずと頷いた。
 努力すること自体が楽しい。その発想はなかった。芽が出るかどうかなんて彼らにはあまり関係のない話だったのかもしれない。

「まあそうは言いつつも、流石にそろそろ結果を残したくてな」

 ワタルは微かに唇を噛んでから、再び口を開く。
 一瞬、話すべきかどうか逡巡したようだ。

「来月締め切りのコンテストがあるんだ。俺はそこで入選を目指してる。……入選したらでっけー会場で作品を展示してくれるんだよ。俺はそこで、自分の名前を残すことが夢なんだ」

 ワタルは真剣な眼差しを、自身の絵画に注ぎながら言った。

「俺が死んでも、俺が描いた絵は残るからな。……俺は、自分が生きていた証がほしいんだ」

 ワタルの声には、劫火の如き強い熱が込められていた。触れるだけで焼けてしまいそうな強靱な意志が、僕の全身に叩き付けられた。

 マモンが、こんなにも強い意志を持つことなんてあるのか。
 未来や希望。そういったものとは無縁なはずのマモンが、こんなにも瞳を輝かせることなんて有り得るのか。

 僕は強く唇を噛んだ。
 そうしないと、涙が出てきそうだった。

 ◆

 絵画教室に残るワタルと別れた僕たちは、駅までほとんど無言で歩いていた。
 ワタルが吐き出した決意は衝撃的で、僕らの価値観を揺るがすほどのものだった。

 僕も、何か目指すべきだろうか?
 いや……今更、難しいか。

 そうやって諦めること自体がよくないのかもしれない。そもそも、こんなふうに悩んでいる時点できっと間違いだ。僕らには時間がない。悩む時間すら本来ない。

「子供を生むとかじゃ、駄目だったのかな」

 歩きながらアイカが呟いた。
 目の前を車が横切り、エンジンの音が響いた。

「自分が生きていた証を残したいなら、子供でもいいのかなって」

「マモンが子供を残せるわけないよ」

 アイカの方は見ずに言う。

「生むこと自体は可能でも、僕らはすぐに死ぬんだ。責任が取れないと分かっているのに、子供は作れないよ」

 アイカは少し困った様子で「だよね」と苦笑した。
 アイカも分かっているはずなのに、どうしてそんな質問をしたんだろうと思ったが、きっと言わずにはいられなかったのだろう。ワタルの決意がマモンとは思えないほど強靱だったから。

 十八歳で死ぬ僕らに子供を育てることはできない。成長を見届けることもできないし、いざという時に身を挺して守ることもできない。

 早く死ぬ。ただそれだけで、幾つもの無力が重なっている。
 僕はマモンだからという理由だけで見下されるのは嫌いだ。でも、やっぱり僕らは弱者なんだろうなと思った。

 ◆

 それから数日が過ぎた。

「やっほー!!」

「うぃーっす」

 先に僕とアイカの二人で寛いでいると、ユズとワタルが小屋を訪れた。
 あれからも仲間の募集は継続していたが、アイカ以降は新しいマモンが訪れることもなかったため打ち切ることにした。正直、この狭い小屋を使うなら四人が限界である。

 僕らはいつものように小屋に集まった。数ヶ月前までは僕しかいなかったはずなのに、今やこの小屋にいる時は常に賑やかな空気が流れている。木でできた椅子が二つとテーブルが一つしかなかった小屋も、気づけばパイプ椅子が二つ追加されていたり、座りやすいようにクッションが用意されていたりした。キャンプ用のランタンも置いてある。

 今日は、ワタルが大きな荷物を持ってきた。
 布製の鞄からワタルが取り出したのは、一枚のキャンバスだ。

「道具、持ってきたんだ」

「駄目だったか?」

「いや、好きに使っていいよ。というかこの小屋、僕が建てたわけじゃないし」

 床がボロボロだし狭いので、あまり絵を描く環境として向いているようには思えないが、ワタルがいいなら何も言わなくていいだろう。

 もし、小屋の持ち主が僕らに気づいて出て行くよう言ってきてらどうしよう。そう思ったが、その時は普通に他の場所へ移動すればいいだけだ。大事なのは場所ではない。僕らはもう本当に欲していたものを手に入れている。

「あれ、前の絵と違うんだ?」

 ワタルのキャンバスを見て、ユズが首を傾げた。

「ああ。こっちがコンテスト用の絵だ」

「へ~。進捗は?」

「八割。締め切りがギリギリで危ないんだけど、もうちょっと細部と背景をこだわりたいんだよな」

 ワタルは絵を描き始める。
 見た目にそぐわない研ぎ澄まされた集中力に、僕らは圧倒された。ワタルが描いているのは公園の絵だった。自然が好きなのだろうか、以前見せてもらった絵と同じように木々の枝葉や落ち葉が精緻に表現されている。

「なんだよ、喋ってくれないとやりにくいだろ」

「いや、邪魔しちゃ悪いというか、素直に魅入ってて」

「それはそれでやりにくいな」

 ワタルが後頭部を掻きながら笑った。
 どうか、ワタルの努力が報われますように。そう祈らずにはいられなかった。神様が実在するならそもそもマモンなんて存在しないはずだけど、今の僕には神様に縋ることくらいしかできそうにない。

 そんな僕の、安易な神頼みを――神様は気に入らなかったのだろうか。
 ワタルの身体が傾く。最初は僕の視界がおかしくなったのかと思い、目を擦った。でもワタルの身体は、少しずつ右側に傾いていって――。

 大きな物音と共に、ワタルが倒れた。

「ワタル!?」

 慌てて倒れたワタルに近づく。
 顔は青褪めており、尋常ではない量の汗が出ていた。それに、口からは真っ赤な血が飛び出ている。

 明らかに緊急事態だ。
 僕はすぐにワタルの腕輪を見た。確かマモンの腕輪には、いざという時のために緊急通報機能が搭載されているはずだ。

「腕輪の通報機能を――」

「やめろ!!」

 腕輪に手を伸ばした僕を、ワタルは必死に睨んだ。
 その目は、怒っているというよりも懇願しているようだ。

「大丈夫だ、すぐ落ち着くから、誰にも言わないでくれ。……これがバレたら、病院に閉じ込められる」

 一分くらいかけて、ワタルはゆっくり椅子に座り直した。
 荒れていた呼吸が元に戻っている。確かに多少落ち着きはしたようだ。しかし、この雰囲気はもう元通りにはならない。僕らの注目を浴びて、ワタルは観念したように口を開いた。

「半年くらい前から、兆候はあったんだ。毎日大量に薬を飲まねーと、すぐに全身が痺れて動けなくなる。視界もぼやけてきたし、鼓動が飛ぶ頻度も増えてきた。頭痛や全身の倦怠感もある。典型的な末期のマモンってやつだ」

 何の兆候かは、訊くまでもない。
 マモンの行き着く先は、皆同じだ。

「だから」

 絞りだそうと思った声が途切れる。
 こちらを見たワタルに、僕は恐る恐る訊いた。

「だから、焦ってたのか。コンテストで入選したいって」

「ああ。もう時間がないからな」

 ワタルはあっさり肯定した。――肯定してほしくなかった。

「ここで絵を描くことにしたのも、教室で倒れたら親に告げ口されて止められると思ったからなんだ。両親は俺を療養させたいみたいだが……冗談じゃねー。まだ俺は、俺が生きた証を残せていない」

 掠れた声で、ワタルは己の執念を吐露した。

「なんで、そんな状態でも絵を描けるの?」

 アイカが震えた声で尋ねる。
 僕もマモンだから、末期の状態については何度も調べていた。ワタルは今、耐え難い苦痛の中で生きているはずだ。それでも絵を描く理由は何なのか。

「治らないからだ」

 短く、ワタルは答える。

「じっとして治るなら、多分、何もしなかったと思う。でもそうじゃない。これはマモンなら誰にでも訪れる、避けられないものなんだ。……自分は特別不幸なわけじゃない。そう思ったらやるしかないだろ?」

 ワタルは笑みを浮かべる。
 それが無理矢理作られた表情であることは、誰が見ても分かった。

「世の中には、マモンなのに凄い奴らがたくさんいる。……アイカもその一人だ。俺が言うのもなんだけど、マモンなのに何かに打ち込めるなんてすげーよ」

「私は別に、そこまで頑張ってるわけじゃ……」

「そんなわねけーだろ。努力したから成果も出たんだ」

 アイカを真っ直ぐ見つめながら、ワタルは言った。
 それからワタルは、僕とユズの方を向く。

「自分がマモンであることを隠さないカズキも、マモンの居場所を作ってみせたユズも、俺にとっては凄い奴だ。皆、マモンという運命と戦いながら、必死に生きている」

 僕も、きっとユズも、そんなことないと心の中で返事をした。でも僕らの気持ちなんてワタルには関係ないのだろう。

 ワタルの中で僕らは尊敬に値するらしい。その意思が揺らぐことはない。
 それは僕にとって、この上なく誇らしいことだった。

「お前らと出会えて、それが分かってよかったよ。だから俺も必死に生きてみせるんだ。……先達として、かっこいい背中を見せなきゃだしな」

 そう言って、ワタルは一枚の絵と向かい合った。何事もなかったかのように。
 静かな小屋の中で、キャンバスを撫でる筆の音だけが聞こえる。

 その背中を見て、僕は形容し難い感情に突き動かされた。何でもいい。ただ何かをしなくちゃいけない。ここで黙って突っ立っているだけなんて、絶対に嫌だ。

「何か、私たちに協力できることはある?」

 拳を握り締めたユズがワタルに訊いた。
 見れば分かった。ユズも、ワタルが発する熱にあてられたのだろう。

「教室にいくらか画材を置いてきちまってな。取ってきてもらってもいいか? この調子だと、移動するだけでもしんどくてな」

「お安いご用だよ!」

 頷くユズの隣で、僕も口を開く。

「僕も手伝うよ。ここに篭もるんだったら食事とか必要ない?」

「欲しいな。肉が食いてー!!」

「買ってくるよ。あんまり量は用意できないかもだけど」

 話し合った末、ユズが画材の調達を、僕が食事や生活用品の調達を担当することになった。アイカはここでワタルの様子を見ている。さっき倒れたばかりなのだから、誰か一人はワタルを見ておかなくちゃいけない。

 ワタルは腹を括っていた。
 僕らにできることは限られていた。

 だから、僕らも腹を括るしかない。
 この誇り高い先輩を、最後まで支え続けるのだ。



#創作大賞2023 #恋愛小説部門


いいなと思ったら応援しよう!