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三浦芳聖伝 31、青年学校の名誉校長に就任(串呂哲学研究ノート№151)

青年学校の名誉校長に就任

1、傷痍軍人となり内地還送となる

黄河渡河戦で先遣決死隊の指揮を採り、敵の第一線陣地を占領して大殊勲を挙げた芳聖は、昭和13年(1938年)5月9日「タクトウ」の戦闘に於て、左の腹部に一弾を受け傷痍軍人となりました(盲管銃創、左腹を八寸切って弾丸摘出)。

芳聖は後年「前方の敵から撃たれたとは思えなかった。」と語っていましたが、弾丸がどこから飛んできたにせよ、この被弾は、明らかに皇祖神による天佑神助でした。

芳聖の所属していた第26師団(独立歩兵第11連隊)は、昭和19年秋、北支からフィリピン・ルソン島に転出し、ルソン島で米軍と交戦して全滅しているのです。

昭和19年秋、フィリピン・ルソン島に転出。一部はレイテ島に上陸して米軍と交戦の末、玉砕。連隊主力はルソン島で米軍と交戦し、ほぼ全滅に近い打撃を受けたまま終戦を迎えた。(独立歩兵第11連隊

また霊的には、芳聖の受けた腹部盲管銃創は、遠祖・尊良天皇が越前金ヶ崎城で御自害された、辛い人生の追体験でもありました。

詳細は、東山天皇(尊良) (№23)を参照ください。

傷痍軍人となった芳聖は、野戦病院から大同の陸軍病院、北京の兵站病院を転々とし、病院船にて内地還送となり、大阪堺の陸軍病院、豊橋の陸軍病院、名古屋の陸軍病院と転送され、

最後は小倉陸軍病院にて恩給診断を受け、昭和14年(1939年)8月、召集解除され、およそ2年ぶりに名古屋の中部国民道場へ帰宅しました。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文56頁)

2、荒木文部大臣が見舞に来院

芳聖が、名古屋陸軍病院に入院中の昭和14年(1939年)の初め頃の事です。何の予告もなしに文部大臣荒木貞夫氏が、陸軍大将の軍服を着て、勲一等旭日大綬章の略綬を吊って芳聖を見舞に来院したのです。

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荒木大将は、皇道派のカリスマで、性格が鷹揚であったため、皇道派の青年将校から好かれていて人気がありました。

荒木大将は、維新運動に邁進する芳聖とは、思想信条を同じくする皇道派の同志であり、芳聖に極秘で満州建国を依頼した仲でもあり、常に文通をしていましたので、黄河渡河戦で大活躍した芳聖を表敬訪問で見舞に訪れたのだろうと思います。

無名の下士官・三浦軍曹の為に、陸軍大将の荒木文部大臣が正装して見舞いに来院したので、病院関係者は勿論のこと、愛知県当局を首め、名古屋各界の人々は驚歎しました。

これまでの芳聖は昭和4年(1929年)以来、常に注意人物、危険人物として特高から監視されていましたが、この荒木文部大臣の見舞来院が機縁となって、芳聖は俄然、社会の上層に浮上していくことになるのです。

文部大臣・荒木貞夫(『ウィキペディア』荒木貞夫より)
日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。1938年(昭和13年)5月26日 - 1939年(昭和14年)8月30日まで第1次近衛内閣・平沼内閣の文相として国民の軍国化教育に邁進した。

3、青年学校とは

青年学校とは、戦前、中等教育機関(旧制中学校、高等女学校、実業学校など)に進まず就職した、12歳から19才までの勤労青少年男女の資質向上の目的で設けられた教育機関の事です。

普通科と本科と研究科があり、学習内容は、修身及公民科、普通学科、職業科、体操科、教練などで、女子は、教練は無く家事及裁縫科がありました。

昭和14年(1939年)4月26日の法令改正で、男子のみ普通科2年・本科5年の計7年が義務化されました。詳細は下記を参照ください。

4、青年学校の名誉校長に就任

昭和14年(1939年)4月26日の青年学校令の改正で、男子のみ普通科2年・本科5年計7年の就学が義務化された為、該当する勤労青少年を抱える企業は、これに対応して青年学校を設置する必要が生じました。

当時名古屋市の「日本碍子株式会社」の村田八束常務取締役が、荒木文部大臣の秘書官をしていた親友の菅原裕氏(明治27年生まれ元東京弁護士会会長、著書多数)に、名誉校長になる教育家の紹介を依頼した所、

不思議なめぐり合わせというか、菅原裕氏が荒木文部大臣と共に芳聖の見舞に同行していたご縁で、村田常務が荒木文部大臣の紹介状を持って、入院中の芳聖を訪ね、青年学校の名誉校長就任の依頼をしたので、芳聖は「日本碍子株式会社・日本特殊陶業株式会社」の青年学校の名誉校長に就任することになりました。

*コラム・超世志のここだけの話
 諺文学では、日本碍子(日本ガイシ)を日本外史(日本ガイシ)と読み替える事が可能です。芳聖は正史には出てこない、内伝の天皇の嫡皇孫ですから、日本外史(日本ガイシ)だと言うわけです。
 ここからは私の蛇足ですが、校長(こうちょう)は、高長(こうちょう、たかなが)で尊良(たかなが)天皇に通じるのではないでしょうか。

以下は、名誉校長就任に関する芳聖の著書からの引用です。

 それで当時「日本碍子株式会社」の常務取締役をやって居られた「村田八束」と云う人が、たまたま青年学校を作らなければならないと云う事で、文部大臣の秘書官をしていた親友の菅原裕氏に、誰か立派な教育家を一人紹介して、名誉校長になって貰いたいと頼んだところ、
 菅原氏は『何も東京あたりから連れて行かなくても、名古屋に大物があるではないか、荒木文部大臣がよく知っていられて、今名古屋陸軍病院に内地送還になって、入院して居られ、つい先日「荒木文部大臣」には態々お見舞に参られ、
 私もお供していってお目にかゝったが、もう傷もすっかり癒えて近く召集解除になれるだろう、と言っていられたから、此の方に名誉校長になって頂くとよい。「荒木文部大臣」とは極めて親懇な間柄の様に見えたから、紹介状を貰ってやろう。』と云うことで、その紹介状を持って陸軍病院にやってこられた。
 そして私に名誉校長をやってくれと云うことでありましたので、私は長らく社界と離れていて状勢も解らないしするから、外ならぬ「荒木文部大臣」の紹介状を持って来られたのであるから、これを引き受ける事にして、
 四月、私の部隊の事務を取扱っているのが小倉の第十四聯隊だと云う事で、恩給診断の為に、又々「小倉陸軍病院」へ転送され、漸く昭和十四年八月、傷痍軍人となって召集解除され、満二ヶ年振りに名古屋の「中部国民道場」兼自宅へ皈りまして、早速「日本碍子青年学校」と「日本特殊陶業青年学校」の名誉校長となって通勤する事になりました。
(三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』序文57頁)

5、誇り高き名誉校長の矜持

この青年学校の名誉校長時代の逸話として記憶しているのは、名誉校長である芳聖が、全生徒を前に講話をするに当って、学校の設置者たる会社の代表者(社長)が、出席していなかったので、断固としてその出席を求めて、社長が来るまで講和を始めなかった事がありました。

「給料を貰うために名誉校長になったのではない。国家の非常時に当たり、国策に基づいて青年教育を実施するために名誉校長になったのである。その名誉校長が全生徒に講話するに当たり、学校設置者たる会社の代表者(社長)が出席するのは当然の事ではないか」という訳です。

芳聖は、荒木貞夫文部大臣の紹介で、請われて名誉校長に就任しただけに、その辺りのけじめはしっかり付けたのです。戦後の日本から忘れ去られようとしている誇り高き矜持の世界です。戦争で死線を超えて奮戦した直後だけに気合が入っていました。芳聖が数えの36才の事でした。

連絡を受けた社長が、びっくりして飛んで来て平謝りに謝った事は言うまでも有りませんが、損得抜きであくまで筋を通したこの逸話は、芳聖の見識、人となりをよく表していると思います。


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情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖の伝記及び三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。
 三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

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串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

(出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。)
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