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「SNS」という暗黒大陸で、自分を守る方法

SNSを使い始めてから、もう10年以上たつ。
始まりは学生時代のFacebookで、フォロワーを伸ばそうとか、より多くの人に見てもらおうとか、そういう動機は一切なかった。リアルの関係の延長として始まった。

今日日、多くの人がSNSでの発信を日常としている。だが、大抵はインフルエンサーになることや、稼ぐことを目的としていない"軽い発信"がメインである。

稼ぐためのSNSと、好きで使うSNS、
つまりYouTubeで100万人を目指すことと、インスタのストーリーズで日常をシェアすること、それぞれ目的は違うように見えるが、「自分を世の中に打ち出していくこと」は構造として変わらない。

今日はこの観点から、現代人のためのSNS付き合い術について書いてみる。長らく僕を悩ませてきたテーマだ。

1対Nに向けてこれだけ気軽に発信できるようになったのは、歴史上はじめてのことだろう。そのせいのか、この病理への処方箋は、未だ世の中で共有も体系化もなれていない。皆が無防備のままSNSに突撃している。

その結果、自覚・無自覚を問わず、多くの人が病んでいる。(と僕には見える)。それは具体的にうつ病かどうか、という話ではない。SNSによって自分の人生に集中できなくなる。自分がよくわからなくなる。不安になる。焦る。エネルギーが下がる。大なり小なり、多くの人がSNSという暗黒大陸で心を痛めている。

まず最初に問いたいのが、

「SNSは等身大の自分を、ありのままに発信できる」

このイメージについて。

会社に縛られず、親の許可も上司の決裁も必要とせず、自由に好きに「私」を発信できる場所。

あそこは、そのような建て付けになっている。
しかし実際はどうだろうか。

まず、数字が可視化されている。SNSで投稿をしながら、数字を気にしないというのは、実質不可能ではないだろうか。それは「気にしていない」と言っているだけか、かなり無感覚な人であるか、そのどちらかが実態であろう。

「数字は気にしてしまうもの」
これを前提にSNSを考えたほうが僕はいいと思う。

その上で、強く心に留めてほしいのが、
「SNSに映る自分なんぞ、全くもって等身大の自分ではない」
ということだ。

等身大の自分をSNSに映すことなんて原理的に不可能なのである。冷静に考えてみればよくわかる。文字、画像、動画になっている時点で、たくさんのものが切り取られ、捨象されている。

SNSは、等身大の自分を写す場所ではない。

それは、フォロワーたちが「等身大の自分」を汲み取ってくれることも不可能であるのを意味する。フォロワーがバカだからではない。原理的、構造的に不可能なのだ。何かを発信するということは、必ず勘違いされて受け取られる、と言い換えてもよい。

インフルエンサーであるかどうか関係なく、SNSを使うすべての人にこの構造は課せられており、理解しておくべき原理である。思えばごく当たり前のことで、あなたが共に暮らしている家族、付き合っているパートナー、付き合いの長い親友。彼らはあなたのことを"等身大"で理解しているのだろうか。

家族なんかはとてもいい例だ。親が知らない自分の面なんて腐るほどある。パートナーもそう。暮らす時期が長くなればなるほど、全然お互いのことをわかっていなかったことが露わになったりする。そして、「こんな人とは思わなかった(ムキー!!」となる。笑

等身大の自分を受け取ってもらえる場所なんて、基本的にない

よって、それを他者に求め、担わせるのは要求として大きすぎるのだ。
SNSは勘違いがセットになって受け取られる場所なのである。

しかし、「ありのままの私を表現すること」、はSNSの心得として大事なものとされている。確かに、AIの台頭もあり、フォロワーや稼ぎを目的とした「よく似たような内容の発信」の価値は、今後ますます下がっていくため、ありのままの私を出すことは重要であろう。

しかし、ありのままの私、もう少し噛み砕いて言えば、私の本音やリアルを発信すればするほど、SNSでの評価が「等身大のわたし」の評価と密接になってくる。

SNSのポイズンな性質として、そこに数字があるからだ。

ありのままの私は、フォロワー20人。
ありのままの私の動画は、再生数57回。
その真横には、「ありのままの私」を出して、フォロワーが10万人の人間がいる。再生数が100万の人がいる。
それがSNSである。
これは実存的に大変な危機である。

「あくまでSNS上の数字だから…!」。

みんな頭ではわかっているだろう。けれど現実は残酷で、人間の脳は「比較」によって物事を認識する。自分のフォロワー50人という数字を、絶対的に評価することは苦手なのだ。何かとの比較によって、それがどれくらいの量なのか、何を意味しているのかを判断する。

どんなに強い意識を持とうとも、
私はフォロワーが少ない人間」
そう認識させられる場所がSNSなのである。
(ポイズンでしかない。

だから僕は思うのだ。
等身大で発信するのはやめた方がよい。
それは、嘘をつこうという話ではない。
等身大で発信したところで、そのまま受け取られることはそもそも原理的に不可能なのである。これは先に説明した通りだ。

であれば、もう正確に言うなら、「等身大の私を出している」というイメージでやる必要は全くない。実際にありのままが100%受け取られることは構造的に不可能なのだ。百害あって一利なし。

そういった意味で、『ありのままの私』を前提にSNSをやるのをやめること。

「等身大のわたし」が、数字による比較の場に晒されるなんて今すぐやめてあげてよう。「等身大のあなた」がかわいそうじゃないか。等身大のあなたの価値は、そんな数字で測れるわけがないじゃないか。

フォロワー数やいいね数は、あなたの存在価値そのもの測る指標には全くもってならない。関係がない。ただの数字なのである。


したがって僕のおすすめは、
自分の一部としてSNSに参加することである。

感覚としては、自分の0.1%。
SNSに映っているのは自分の中の1000分の1。
これくらいである。もっとも、この塩梅はあなたがしっくりくるものを選べばいい。

「人は見たいものを見る」というが、YouTubeのコメント欄を見ていると本当にそう思う。「バカが多い」と言いたいのではない。表に出ている情報は常に一部であるため、その人の解釈が入らざるを得ない、という”構造”の話である。

等身大の僕からすれば、「おやおや...?」という解釈が山のようにある。それは好意的なコメントであってもだ。しかしそれを悲しんだり、真の理解を求めたりするのは越権というか、ほぼ不可能なのである。

等身大の自分でSNSに向き合うと、「なんで?」と怒りや悲しみが頻繁に湧いてしまう。

でも、自分の0.1%だったらどうだろうか。
ふーんである。だって、そもそも自分のことを100%理解してもらう必要はないのだから。

仕事のシーン、接客業なんかは特にわかりやすい。仕事というのは一つのロールである。 客に怒られたからといって、自分の人格そのものを否定されたことにはならない。怒られているのは、等身大の自分ではなく、「その店の店員」という役割を持った私である。よって、等身大の私は傷つかない。棄損されていない。

SNSもこの感覚でやるべきである。というか、構造としてそうなのだから、こっちの方が正しい現実理解であり、現実的な運用なのである。

最後にもう一度繰り返すが、
SNSでの数字と、等身大のあなたの価値は何の関係もない。
SNSでのあなたなんぞ、等身大のあなたの0.1%を切り取ったものに過ぎないのだ。
これは慰めとしての話に聞こえるかもしれないが、「結果を出す」という意味でも有効な態度と思っている。「完全には理解されることは起こり得ない」、と割り切れるのであれば、おおよそ求められることに対しても淡々と動いていける。

「大衆は愚か」
「求められることに迎合するのが苦痛」
発信者にその気持ちが起こるのは、等身大の自分としてそこに接しているから。多くの人が「仕事だから」と、普段起こる様々なクソなことに対して割り切って日々を運用できているのをイメージしてほしい。一つの役割としてSNSを運用できれば、結果を出すこともそこまで難しくはない。自我は叫ばなくなる。しかしそれは、自分を殺すことではない。

やっているのは、0.1%を切り出しているだけだ。
何かを抑えている感覚ではない。

SNSで演じることで病んでしまうのは、
「等身大の自分を出せない」
「等身大の自分はこうなのに、嘘をついている」
という構図のせいである。

だが、そもそも等身大の自分をSNSで表現しようとしていること自体に、根本の原因がある。そうではなく、 等身大の自分から0.1%を切り取った自分を、小出しにする場所。それがSNSである。

そう捉えれば、理解されない部分があるのも気にならない。自分の本音のすべてが、そこに反映されている必要もない。等身大の自分を理解してもらおうという態度は、相手に対して過剰な要求なのである。

以上のようなマインドセットであれば、SNSでもブレにくくなると思うし、発信者としてうまくいくことを目指している人も、淡々とやれると思う。
たかがSNSである。
SNSという空間は、等身大のあなたの魅力を0.1%も映し出せるものではないのだ。


P.S.

今回はSNSの話であるが、リアルの人間関係も実は同じ構造である。
等身大の自分を誰かに理解させようとする態度は、おおよそ泥沼へとつながっていく。
相手にとって過剰なのだ。
等身大の自分は、自分がわかっていればいい。
もしくは、大なる存在が見てくれている。それで十分ではないか。


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