素粒子の個数は局所的な隠れた変数ではない。つまり「素粒子」という実在は測定前に存在していない。
我々の体や身の周りのモノ全ては、電子やクォークなどの素粒子から作られています。日常の感覚だと、その素粒子はそのモノが特定の場所に実在していると考えがちですが、このような「局所実在性」という考えは、量子力学のベル不等式の破れの実験検証によって否定されました。衝撃的な事実ですが、素粒子は「そこに実在する」というモノではなかったのです。
もし素粒子が古典力学な実在であれば、それは「そこに在る」という局所的実在のはずですが、その場合の素粒子は「隠れた変数」と呼ばれる古典力学的な実在的なパラメータで記述されるはずです。ところが、量子もつれ状態におけるベル不等式の破れが、その隠れた変数の存在を否定したのです。現在では、素粒子から作られる多様な特徴をもつ全てのモノは、実在ではなく、量子情報として捉えることが自然なのです。
素粒子があるとかないとは、その素粒子の個数が特徴づけます。もし素粒子の個数が零であれば、それは真空状態を意味しており、「無」を意味します。もし素粒子の個数が1とか2とかあれば、それは「有」を意味します。また量子力学では、その真空状態と粒子状態の線形重ね合わせ状態が存在します。つまり「無」でも「有」でもない状態が、実際にあるのです。この素粒子の個数の量子的な重ね合わせを使って、ある空間領域Aと離れた空間領域Bにおける、素粒子の数が零の状態と有限個の状態で量子もつれを作ることが可能ですが、その状態では、「そこにモノが実在する」ことから要請されるベル不等式が破れているのです。これが意味するのは、測定前に素粒子の個数の値は決まっていない、更に言うと、そもそも素粒子の数の値自体が測定前に存在していなかったという、驚きの現実です。素粒子がそこに在るかないかという現象は、測定過程において創発するのであり、測定前には素粒子は、そこに実在していません。
そもそも、素粒子は「量子場」と呼ばれるものの励起です。空間の各点に付随した局所的な物理自由度が、この量子場です。たとえば量子的な電磁場の励起が、光子と呼ばれる素粒子です。
この量子場は、モニター上の各場所に配置された三原色の光を出す素子の集合に例えることができます。そして、電気信号が入力して光っている素子が、その場所の素粒子と見なされます。たとえば図1で光っているAとBは、その場所に存在した素粒子を指しています。

この光っている素子の場所を変更することが、空間内での素粒子の運動を表します。元の素子の電源を切ると同時に、隣接する1つの素子に電源を入れます。すると素粒子が隣の場所に移動したように見えるはずです。実際には、モノが運動しているのでなく、光る素子の数を保存させながら、点滅する素子の場所をプログラムで制御しているだけです。これを図1のAとBという「素粒子」に施すと、図2から図4のように、確かにAとBが動いていきます。これが量子場における素粒子のアナロジーです。



もしこの量子場自体が実在ならば、論理的にはその励起である素粒子も実在でなければいけません。ところがその素粒子の実在性が、量子もつれの存在によって、否定されたのです。従って元の量子場の実在性も、否定されるのです。モニター上で光る素子のたとえで言うのならば、AとかBとかの素粒子の局所実在性がまず否定をされたのです。そうだとすると、元々のモニターの素子自体も、そこに在るという実在ではなかったことになります。もし素子が実在ならば、AやBも実在であるはずですが、それが否定をされたので、素子自体も実在ではありません。
素粒子の集まりである我々の体にも、この現代物理学の事実は当てはまります。つまり我々の体も、そこに測定以前から実在するということではなかったのです。
現代物理学は、どこか遠い世界の面白い話ではなく、実に「我が事」の話であり、我々の存在そのものを、激しく揺るがします。ベル不等式の破れが意味する、この衝撃的な事実を知らない方々が多かったのも、『無とは何か』(堀田昌寛著, SB新書)を書いた理由の1つでした。
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