見出し画像

ベル不等式の破れの実験的な検証は、本当に哲学の形而上学になれるのか?

『数理科学』という雑誌に、科学哲学者のアブナー・シモニーが提唱をしたとされる「実験形而上学」の紹介記事を書いた、木村元さんの発表を視聴しました。ベル不等式の破れの実験は、実在性と局所性、そして観測者の自由意志の3つが同時に成り立つことがない実証的な証明であり、「実在性」などの、個々だけではそれぞれ実証しようのない形而上概念を組み合わすことで、初めて実験で検証できる「実験形而上学」を、そのベル不等式は切り拓いたという趣旨の内容でした。

その話の中で、木村さんが挙げた形而上学の例は、「世界5分前仮説」でした。哲学者バートランド・ラッセルが提唱した懐疑論的な思考実験です。この仮説は、我々が知覚する世界や記憶、歴史が、実は5分前に突然存在し始めたものかもしれないというものです。つまり、世界は5分前に、すべての記憶や証拠とともに「創造」された可能性があり、それ以前の出来事は実際には存在しなかったかもしれない。そしてこの仮説はどんな実験や観測をしても、論理的には永遠に、そして誰にも否定できないという主張です。つまり、実証科学がどんなに頑張っても証明しようがない仮説は存在しています。これは木村さんも認めていました。

木村さんは、この「世界5分前仮説」と同じ形而上学的なレイヤーに置かれる「実在性」が、同じく形而上学的概念である「局所性」と「自由意志」と一緒にすることで、形而下の学問である物理学のベル不等式実験で実証できたと主張をしています。しかし、個人的には違和感を強く感じる主張でもあります。これについては、既に下記のnoteを書いております。

木村さんの発表では、実証科学である物理分野に、「形而上学」という用語を安易に導入し、それを広めようとする彼の姿勢が、まず気になりました。形而上学は、メタフィジックス(meta physics)とも呼ばれます。「メタ」とは「超えた」というニュアンスであり、メタフィジィクスとは、形而下の象徴である「物質」、そしてそれを扱う学問である物理学(フィジクス)とは異なる、その上位の理想的対象を扱う哲学分野の学問です。実際の自然界と切り離して論じることが可能な数学などは、この形而上学に分類できます。しかし、「実験」を基礎とする自然科学自体は、形而上学とは本来異なると考えるのが、今のコンセンサスだと思います。その二つを組み合わせて敢えてシモニーは「実験形而上学」というキャッチーな名前を付け、そして木村さんは、そのシモニーの方向性に強く同調していたように、その発表でも見えました。

数学では、プラトンのイデア界のように、純粋理想としての概念や道具の定義や理論の公理を、自己矛盾が起きない範囲で自然界から離れて、自由に設定ができます。ところが自然科学である物理学では、たとえば「粒子の位置」や「粒子の速度」のような物理量も、限られた人類の経験から暫定的に実験と整合するように決められた足場のようなものに過ぎず、それは数学や形而上学の結果のように未来永劫変わることのないものではありません。明日の実験や観測で、これまでの概念を提唱してきた物理モデルが否定をされ、更新をされる可能性は永遠に付きまとうのです。

たとえば、ニュートンが考えていた絶対時間、絶対空間という概念は、光速度は不変な定数であるという実験結果によって、物理学としては破棄され、新しく相対的な概念の「時空」という考えが生み出されます。「絶対時間」や「絶対空間」は形而上学的な数学概念だったわけですが、それが物理学の実験によって否定をされたので、シモニーの言い回しに乗っかれば、「実験形而上学」の例だと思われます。では、形而下の物理学では、これは永遠不滅の結果だと言えるでしょうか?

たとえば、絶対時間や絶対空間の否定の重要な論拠の1つである「光速度不変の原理」の実証実験が未来に高精度化して、実は少しだけ光速度は場所や物質によって変化することが観測される可能性は、物理学としては零ではないのです。もちろん、光速度不変であることが確認され続け、また相対性原理などの他の根拠も実験で正しくあり続ければ、その時点の物理としては「絶対時間」や「絶対空間」を否定しつづけることは可能でしょう。しかし、未来の実験や観測はそのようなことを保証しません。永遠不変の真理を語るべき「形而上学」の哲学的な主張を、多くても所詮は有限回数の実験や観測が実証するという考えそのものが、おかしいのです。

物理学では現象を説明するために数理モデルを構築し、そのモデルの理論的予言と、現実の実験や観測との結果を物理学者は日々比較しています。この数理モデル自体は、数学概念であり、その意味で形而上学的でもあります。しかし、もし実験と合わない結果が出た場合には、自然界の記述として、そのモデルは破棄されます。そして説明ができる新しい数理モデルが構築されますが、それも将来の実験や観測で検証されていくものです。ですから、物理学という学問が、未来永劫に絶対不変な形而上学的主張を成すことはあり得ません。その意味でも「実験形而上学」という用語はナンセンスだと、私は考えています。シモニーは、永遠に更新され続ける自然科学としての物理学というものを理解できていないのではないかと、私は感じるのです。

また木村さんのベル不等式の発表でも(そして彼のこの話を聞くときにはいつも感じている)違和感があります。量子力学でも「実在」はあるのだけども、それは非決定論的である可能性は否定できないし、それはきちんと物理学者が考えるべき、抜け穴(ループホール)だとしている部分です。

たとえば、離れた場所に居る二人の実験者のアリスとボブが、ベル不等式の実証実験を行うとします。このとき隠れた変数理論において、ある物理量の測定で先にアリスが得た結果が、ボブがこれから行う実験で測られる物理量の確率分布を変化をさせるということは、相対論的に今でも許容されているという主張です。これは「出力独立性の破れ」と呼ばれます。アリスとボブは空間的に離れているため、ボブはアリスが得た結果そのものを知りようがなく、そのためこの機構を使ってアリスとボブの間に超高速通信を行うことができないとされるためです。

しかし、この「出力独立性の破れ」が今も生き延びているという話は、やはり相対論的には変だと、私は考えています。実在論としての隠れた変数の理論では、アリスの結果をボブの確率分布の変化に繋げている隠れた変数λ自体も、実在として扱われるはずです。そのλも本当に「実在」であるのならば、形而下の学問である物理学の実験で、その実在性が検証できなくはいけません。その隠れた変数の実在性は、今では達成できていない量子重力の超高エネルギー実験で未来に確認できるとしても、今の前提では、その見つかったλにも相対論的因果律を課さないと、「出力独立性の破れ」の論理の一貫性が失われます。しかし、未来の実験においてボブがλの測定ができるとして、その結果もボブが使えば、アリスとボブの間の超高速通信が実際には可能となるでしょう。また、「出力独立性の破れ」が本当にあるのならば、それは未来の事象が過去の事象に影響を与えることも意味します。相対論的にアリスとボブの実験が「空間的」(spacelike)な時空点で行われるベル不等式実験の設定では、過去のボブの実験出力が未来のアリスの系の確率分布の測定に影響を与えるとした場合、慣性系を変えれば、未来のボブの実験出力が過去に既に計測されているアリスの系の確率分布に影響を与えることになります。つまり、相対論的な因果律を露わな形で破っています。木村元さんの主張には、少なくとも、隠れた変数の実在性とその観測可能性について、そして異なる慣性系での過去と未来に入れ替えに関する因果律の破れなどの大きな「穴」があるのです。

そもそも、実在と、その時間発展は非決定論的であることを、同時に認めたい場合には、この非決定論的実在の実験的な検証方法を示すべきです。まずある特定時刻において、たしかにそれは「実在」であると呼ぶに足りる十分な根拠が、実験的に要求されます。そしてその未来に向けた時間発展において、どんなに環境を制御しても、その「実在」から取り除けないとされる非決定論的にランダムなノイズ(stochastic noise)自体も、なんらかの物理的実在のブラウン運動的な決定論的なノイズとそれとを区別できる方法が示さなければ、空虚な話にすぎません。この2つの要求を満たしたコンセンサスのある提案はまだ見たことはありません。また特に2つ目の、決定論的ノイズと非決定論的ノイズの区別は「悪魔の証明」的な構造を持っています。未来のどんな時点でも、その時点では見えていない決定論的ノイズ源が実在して、観測された対象に非決定論的振る舞いをさせている可能性は、実証科学では永遠に潰すことができないからです。また相対論を破る決定論的ノイズ源がもし将来実験で見つかったのならば、「非決定論的実在論」ではなく、単なる「決定論的実在論」に後戻りするだけです。この意味で、木村さんが説明した「非決定論的実在論」は、実証科学としてナンセンスだと、私は考えています。

また改めて強調しますが、物理学は形而下の実証科学です。上で述べたニュートンの絶対時間と絶対空間の否定の根拠であった実験結果が、将来ひっくり返る可能性があったように、シモニーが使ったベル不等式の破れの実験結果も、将来実験で覆る可能性さえあります。たとえば、我々が知っている電子やクォークからはできていない、これまでとは全く違う物理法則に従う奇妙な物体が将来発見されることは、論理的には否定できないのです。このことは「世界5分前仮説」と同じレイヤーに属します。その物体に限っては、ベル不等式が破れないことが実験で示されれば、ベル不等式の破れの実験から導かれたはずの「永遠不滅であるべき形而上学的な結論」は、アッという間に瓦解してしまいます。もちろん、形而下実証科学としての物理学では、その奇妙な物体が将来見つかる可能性は、現時点では極めて小さいと考えるわけです。しかし、ベル不等式の現段階での実験結果だけから形而上学的な主張をしたいシモニーや木村さんは、その問題にきちんと向き合う必要があります。結局、「世界5分前仮説」が実証科学で完全実証できないのと同様に、これまでのベル不等式検証実験の結果だけからは、何も形而上学的な絶対不変な真理は証明できないのです。飽くまで数理的な前提として書かれた「実在性」「局所性」「自由意志」の公理から導かれる数学的な形而上学が、シモニーや木村さんは、実験に基づいた自然科学で実証されたと、不注意に拡大解釈しているだけなのです。やっていることは、他の物理学の研究と同じ作業だけであり、特に「実験形而上学」だと強く主張できるようなものではありません。


いいなと思ったら応援しよう!

Masahiro Hotta サポートありがとうございます。