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測定機が対象系と相互作用するだけで、観測を完了するわけではない。

前世紀に議論されていた所謂「観測問題」は、本質的には物理学としての量子力学に残っていないことが知られています。

観測時における「波動関数の収縮」も当時は問題視されていましたが、これも量子状態トモグラフィ法で実験的に波動関数が定義可能であることが分かってから、物理学としては波動関数はしっかりと収縮すべき情報概念だったと理解されています。

しかし歴史的には、波動関数を、観測で収縮しない実在と捉えたい人々が多世界解釈理論を考案しました。その設定では、宇宙全体の波動関数という収縮しない実在があり、その宇宙の中に観測される対象の量子系Aと、それを測定する観測者である量子系Bを考えます。そして「BがAを観測する」とは、単にAとBが相互作用をして、測られるAの物理量と観測するBの認識の間に完全相関が実現すれば、多世界解釈では、BがAのその物理量を測定したと解釈するのです。

たとえば、A系が2準位スピンだとしましょう。そしてスピンz成分の基底ベクトルを下記の固有値方程式を満たす規格化された2つのベクトルだとします。

(1)式

そして、任意のA系の状態ベクトルを、下記のようにこのスピンz成分の基底ベクトルで展開しておきましょう。

(2)式

B系の状態空間の次元は一般に2よりはるかに大きいのですが、「測定結果を2つの値」に対応するBの物理量を、Aと同様に、二準位スピン自由度として扱うことが、一般に可能です。この場合、(2)式の初期状態にあったAと、ある初期状態にあったBが相互作用をして、AとBの合成系が

(3)式

という状態になったとき、多世界解釈ではAのスピンz成分をBが観測したと解釈します。この状態ではAがスピン上向き状態ならば、Bもスピン上向き状態になり、またAがスピン下向き状態ならばBもスピン下向き状態となるからです。つまりBはAのスピンz成分の値を自分の記憶に正確にコピーしたと考えるのです。

このような解釈では、一見Bの「意識」を前提にしなくて良さそうなので、多くの実在論者が嫌がる「意識」の導入を避けることもできます。また波動関数や状態ベクトルの収縮も、一見すると登場しなくて済みそうです。ところが、そうは問屋が卸しませんでした。この解釈はうまくいかず、大きな壁にぶつかるのです。

まず、Bが観測者だとして、Aのスピンz成分を測りたいと思っています。しかし現実としては誤差があるため、厳密な(3)式の状態を実験で作ることはできません。些細にも見えるこの事実こそが、実は重要なのです。

(2)式を実現するユニタリー操作ではなく、それからずれた相互作用となってしまえば、(2)式ではなく、

(4)式

という状態が合成系に現れます。この右辺での係数がbとcをもつ項が、誤差表す項です。しかし、それでも現実として、Bは自分は飽くまでAのスピンz成分の測定をしていると感じているのです。そして冷静に、bとcの絶対値の2乗の和が、誤差を与えている確率だと、実験からBは判断しているわけです。

一方で多世界解釈的に考えると、(4)式の状態では、B自身は「自分はAのスピンz成分を測ろうとしている」と思っていないのです。それを示しているのが、数学における「シュミット分解定理」です。

一般に状態空間がN次元である量子系Aに対して、N次元以上の状態空間をもつ量子系Bを考えます。シュミット分解定理とは、その合成系の下記の任意の状態ベクトルに対して成り立つ定理です。

(5)式

そして、任意の状態ベクトルはいつでも下記の形に書けるという主張です。

(6)式

ここで足し合わせの中に出てくる係数は

(7)式

を満たす確率分布関数です。そして右辺のAの部分の状態ベクトルは、合成系の状態ベクトルごとに定まる基底ベクトルであり、Bの部分の状態ベクトルも、合成系の状態ベクトルごとに定まるN本のBの正規直交ベクトルです。

(8)式

簡単のため、これを今の2準位スピン系のAとBに当てはめてみましょう。この定理によると、(2)式の初期状態にあるAが、Bと勝手な相互作用をしても、できる合成系の状態は常に

(9)式

という綺麗な完全相関の形に書けるということなのです。しかしこれだと、(9)式の右辺に出てくるBの正規直交ベクトルは、ほとんどの場合、スピンのz成分の固有ベクトルに一致しません。つまり今の設定とは異なり、多世界解釈では、観測者BはAのスピンz成分とは異なる物理量を測定していることになってしまいます。シュミット分解に出てくるAの基底ベクトルを固有ベクトルにする別な物理量です。そして「BはAの違う物理量を正確に測定した」と多世界解釈ではせざるを得なくなります。しかし、実際にはBは誤差を伴ったAのスピンz成分の実験を行っているのです。ここに大きなずれが生じているのです。

また(4)式のAとBの合成系の状態ベクトルは、下記を満たすスピンx成分の基底ベクトル用いて、展開し直すこともできます。

(10)式

その結果は

(11)式

と書けます。すると、この同じ状態ベクトルを、「BがAのスピンx成分を誤差付きで測定をしている」とも解釈できてしまうわけです。つまり、多世界解釈では、合成系の状態ベクトルがAとBの任意の基底ベクトルでも展開できてしまうため、Aのどの物理量を測定しているかが定まらないという欠点があるのです。これは、多世界解釈理論が状態ベクトルの重ね合わせの線形性だけを仮定することに起因しています。

(4)式の状態ベクトルも、(9)式の状態ベクトルも、(11)式の状態ベクトルも、実際には全て互いに同じです。しかしその状態ベクトルを、「Aのスピンz成分をBが誤差付きで測定をしている状態」と見なすのか、それとも「シュミット分解で出てくる基底をもつAの物理量の誤差なし測定をBがしている状態」と見なすのか、はたまた「Aのスピンx成分をBが誤差付きで測定をしている状態」と見なすのか?これを決める原理が、線形性しか仮定していない多世界解釈理論には存在していないことが、大きな問題なのです。

現代的な量子力学の解釈では、量子力学は情報理論であり、飽くまで観測者Bの「意識」が、複数ある可能性の事象から、ただ1つの事象を確率的に各時刻に体験すると考えます。(4)式の状態ベクトルも、(9)式の状態ベクトルも、(11)式の状態ベクトルも、これだけでは観測過程は終了していないのです。観測者Bの「意識」が、特定の結果を認識したときに、その観測者Bにとっての観測は完了するのです。


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