1ヶ月の遊泳|2025/01
そろそろ生活に推進力が必要な予感がしている。元気だったり、元気じゃなかったりするけれど、それでも毎日生きることが出来ていて、春が来る前に自分自身で"大丈夫だ"と思いたい気持ちがある。
年が明けた時、(今年こそもう一歩。)とぼんやり思った。どんな歩幅の一歩なのか、どちらへ向かう一歩なのかは分からないけれど、でも、そう思っている。ただの予感でしかないけれど、それは兆しでもあるのだと思う。
ぼんやり描いた一歩を知るために、2025年1月分から、月が変わる度にその時点での自分のテーマを文章に起こしておくことにする。
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日々の出来事や思ったことを日記として記録するようになって、自分のことがどうでもよくなってしまうことが少しだけ減った。毎日何もしていないのだけれど、本当に全く何もしていないわけではなくて、一歩も外へ出ないで家にいる時でさえ、書き留めるべきことがある。
昨日何をしていたのかを覚えているために書くのではなくて、生きていれば書かざるを得ないような出来事は案外たくさんあって、書けば書くほどに、それはどんどん増えていくのかもしれない。
日記を書き始めて3ヶ月も経った。こんなに日記が続いたのは生まれて初めてなので、やっぱりぼんやりとした宛先があることが私にとっては良いのだと思う。《もしかしたら読んでくれているかもしれない人達》の存在が、書き続けるための活力のひとつになっている。
1週間ごとに投稿しているので、当日には書かずに2、3日空けてから書いたり、数日前に書いたものを編集したり(投稿した後でさえ書き直したり)する。自分の好きなタイミングで、好きな言葉の使い方に直しながら書くというゆるやかな方法も、無意識ながら、日記が続くためのちょっとした工夫となっていた気がする。
意図せずとも『続ける』ということに意識が向いていることがなんだか不思議だった。もちろん続けようと思って始めたことなのだけれど、もっと根底に、何か体系的なシステムがある感じがする。
そういうわけでここ最近、『続ける』ということについて考えているのである。
1月の第3週、熱でダウンしている時に『PERFECT DAYS』という映画を観た。衝撃的な「起承転結」があるわけではないのだが、それには収まりきらない或る1人の人生が流れていく。朝起きて、働き、風呂に入り、飯を食い、本を読み、眠り、夢をみて、そしてまた明る朝に起きる。繰り返す。
生きている、ということは常に何かを続けざるを得ないことになり、どうやら継続という言葉に強引に結びつくようである。死んでしまうとその結びつきはふっと解けてしまい何も続けられない。当たり前なのだが、それでも生きることは何かしらの継続である、という意味を強める。
何もかもが続いている。一瞬に思えるほんのひとときでさえ、確かな連続性の小さな断片でしかなく、知らないうちに無意識下で続けてきた線のうちの、1点でしかないのである。
「継続は力なり」という言葉があるけれど、既に何かは続いていて、そうであるならば力にしようと思わずとも、生きているだけで既に力になっている、のか?
なんだかよく分からなくなってきたけれど、とにかくここ最近、(常に何かが続いているのだなぁ)という実感がある。
自分以外の誰かもまた、その人自身の連続性の線の上に立っていて、こちらから見える範囲などあまりにも限られている。私たちは他人の連続性の線のうち、或る点と或る点を繋いで、よく見つめて、その前後を想像することしか出来ない。
そうであるならば、人と人は分かり合えないことになるけれど、その前提から始めれば (むしろ、その前提から始めてようやく)、お互いに糸を手繰り寄せる作業が出来るのだと思う。
自分自身のことを理解しようとする時も、この手順がヒントになる気がしている。自分のことはどこまでいっても直視することができない。一人称の眼差しは内側に向くことはなくて、他人への眼差しを通して返ってきた《自分の写し》みたいなものを眺めることしかできない。
だからこそ、他人のことを沢山見つめて、返ってきたものから点を集め、今自分自身が立っている連続性の線を、より明瞭な実線にする努力が必要である。
生きることは自ずと何かの継続であること。私達は常に連続性の中に居て、点の方がよく見えてしまうから、線を見つめようとする思索が必要であること。
まだ言葉にならないような、ままならない段階だけれど、そんなことを1ヶ月間ぼんやりと考えていた。
