最終回 「調停から提訴へ。素人が挑んだ本人訴訟の全貌」
リプレイスの成功で勝ち得た、年間400万円以上の大いなる果実。 だが、私たちはそれを、「早速みんなで頂きましょう♪」とはしなかった。各住戸の月々の管理費(サブスク)支払いはあえて値下げせず、浮いた果実をそのまま「修繕積立金」の口座へとスライドさせたのだ。つまり、住民の月々の持ち出し額を1円も変えることなく、実質的な「修繕積立金の値上げ」を無血開城で実現させたのである。
これで、初期に登場した「聞いてないよ〜」の“おとぼけ”さんも当面は安心できる状況となり、将来的な一時金徴収の必要も完全に消滅した。大規模修繕の12年周期で換算すれば5,000万円以上、マンション全体の寿命で考えれば「億単位」の削減をした計算になる。これ以上ない完璧なエンディング――。
ちょっと待った〜‼︎ まだエンディングじゃない。
「理事長と、〇号室●●の本性を暴け」
名指しで事実無根の誹謗中傷をばら撒き、顧客である理事の名誉と信用をボロボロに毀損したあの怪文書。自社の社員(常駐管理員)が犯人だと認めておきながら、彼らが採った対応は「管理員が会社の許可なく文書を配布したことに対するお詫び」だけだった。内容についての謝罪も訂正も一切なく、「使用者責任」そっちのけで、「お世話になりました、ハイ、サヨナラ!」で逃げ切れると思うなよ、という話である。
こんな中途半端なトカゲの尻尾切りで納得できるはずもない。私と理事長は、「このままでは文書の内容を真に受けた住民から、私たちは永遠に誤解されたままになる」と強い危機感を抱いていた。
私達は、当然のごとく「会社としての正式な謝罪文の発行と、内容の訂正」を後任の支店長に求めた。しかし、のらりくらりと一向に埒が明かず、相手は明らかに時が過ぎて事件が風化するのを待ち望んでいる様子だった。
こうなれば、あの手この手で攻めるしかない。
まずは業界団体である「マンション管理業協会」の苦情申立て制度に解決を委ねた。だが、協会からは「申立ての通知はするが、当該企業に何かを指示することはできない」と、何の役にも立たない返答。ならばと法務局の人権擁護委員会に相談するも、何ら有益な情報は得られなかった。大企業を相手にする個人の非力さを、これでもかと痛感させられる日々。 ん? 大企業? そうだ、それなら組織の大元(○○ホールディングス)の社長宛に、見解を質す「公開質問状」を送りつけてやろう……とすぐに行動に移した。結果、「誠実に対応させます」というテンプレートのような、ありがたい返信が届いただけだった。
とうとう八方塞がりとなり、残された選択肢は「裁判所への訴え」しかなくなった。 だが、日本の名誉毀損裁判は厳しい。最近は多少改善傾向にあると聞くが、例え全面的に勝利したとしても、一般人の名誉毀損の賠償金は数万円程度が相場だ。しかも今回は、マンションコミュニティ内という限定された範囲が対象となるため、金額的な期待はさらに薄かった。
だが、私たちの最大の目的は金銭ではなく、あくまで「公式な謝罪と訂正」である。そうすると、弁護士に依頼すれば大赤字になるのは必至だった。 ただ、幸いというべきか、私には「本人訴訟」の経験が過去に一度だけあった。さらに言えば、今回は「言った。言わない。」の泥沼の押し問答ではない。管理会社が自社の管理員のポスティングを認めた「報告書」と「(怪)文書」という、言い逃れのできない決定的な証拠が完全に揃っている。争点は、その内容が名誉毀損や信用毀損に当たるかどうか、という裁判所の「評価」(認定)だけだった。
いきなり訴訟に踏み切る前に、まずはこちらが本気であることを告げる狼煙として、「民事調停」を申し立てることにした。手早く穏便に済ませたいというこちらの思惑でもあった。もちろん、調停が不成立となった場合には、即座に裁判へ移行する覚悟の上だ。
ところが、調停の期日を控え、裁判所からの事情照会に回答を提出した直後、早速、相手方弁護士からの姑息な洗礼を受けることとなる。 なんと、調停を行う裁判所を、自社の住所管轄の裁判所へ移そうとする「移送申立て」を突きつけてきたのだ。 (民事裁判には、原則として被告の住所地を管轄する裁判所でおこなう。というルールがある) だが、私たちが締結している管理委託契約書には、ハッキリと「マンションの所在地を管轄とする裁判所を合意管轄とする」と明記されている。こんなことを、弁護士である相手方が認識していない訳はなく、素人の本人訴訟だと高を括り、経済的・時間的負担を強いてこちらを疲弊させようという戦術だろう。相手の申立てを突っぱねるため、こちらは即座に「意見書」を作成して裁判官に提出しなければならなくなった。面倒だが受けて立つしかない。 当然、相手の的外れな申立ては「却下」されたが、この小細工のせいで、当初の期日から2ヶ月も遅れることとなってしまった。
そうして、ようやく迎えた調停の日。
千代田にある高名な一流法律事務所の弁護士。どんな先生様が来るのかと身構えていたが、現れたのはバックパックを背負ったピチピチの若手弁護士だった。素人相手の本人訴訟など、駆け出しで十分と踏んだのだろう。 肝心の話し合いは、こちらが名誉毀損を主張すれば、相手は「名誉毀損には当たらない」の一点張りで平行線をたどる。調停が成立する気配など微塵もないなか、若手弁護士の、「次がありますので」との発言を機にわずか30分ほどで調停は「不成立」に終わった。残念ながら、穏便な解決というこちらの思惑は、呆気なく打ち砕かれた。
だが、想定内だ。調停が不成立となれば、裁判所から「不成立証明書」を発行してもらい、それを訴状に添えて、本番である「損害賠償請求訴訟」を提起するまでのこと。
ここで少し「本人訴訟」について触れておきたい。現代において、訴状や答弁書といった書類の作成や手続きは、AIを賢く活用すれば驚くほど簡単にクリアできる時代だ。本人訴訟のハードルは劇的に下がっている。もし分からないことがあっても、裁判所の事務官は親切丁寧に教えてくれる。もし法廷に立つことを躊躇している方がいるなら、社会見学のつもりで、一度裁判所の傍聴席へ足を運んでみることをお勧めする。実際の民事裁判は書面のやり取りが主体で、映画やドラマのような、派手なやり取りはまず起きない。 そもそも裁判とは本人が起こすものであり、弁護士はあくまで代理人に過ぎない。視点を変えれば「本人訴訟」こそが本来の姿だ。証拠さえしっかりしていれば、弁護士をつけずとも、裁判所は極めて常識的な判決を下してくれる。
そうして始まった本裁判は、訴状(原告)→ 答弁書(被告)→ 原告準備書面① → 被告準備書面① → 原告準備書面②と、ロジックの弾丸が飛び交う書面戦となった。そして、お互いの主張がほぼ出揃ったところで、裁判長から「和解」の提案を受けた。
先述した通り、日本の民事裁判で判決まで突き進んで白黒をつけたとしても、得られる賠償金は極めて低額だ。その上、判決文に「被告は原告に謝罪せよ」といった行動を強制する命令が盛り込まれることは、日本の司法制度上、原則としてない。私たちの真の目的は、お金ではなく「傷つけられた名誉の完全な回復(=事実に即した真摯な対応)」である。そのため、私たちは裁判長の和解提案に応じる選択をした。
最終的な和解調書の内容については、厳格な守秘義務(口外禁止の確約)があるため、第三者である読者の皆様にその細部を明かすことは法律上できない。
だが、その手続きを終えた数日後、結果はあまりにも明確な形となって現れた。
我がマンションの全戸のポストに、ある公式な書面が投函された。そして、エントランスの掲示板にも、それが堂々と貼り出されたのだ。
大手商社グループの金看板を背負った管理会社が、自らの非を全面的に認めた公式な「謝罪文」である。
私たちが本当に勝ち取りたかった名誉と、コミュニティの社会的正義は、この一枚の紙によって完全に証明された。不気味な怪文書に怯え、不信感に包まれていたマンションの靄(もや)は、一瞬にして晴れ渡ったのだ。
私たちが本人訴訟を通じて勝ち取った「理不尽な行為には、個人であっても毅然と法的手段で対抗する」という実績と教訓は、今も管理組合の確固たる財産として生き続けている。
もし今、巨大な組織や大企業を相手に孤軍奮闘し、諦めかけている方がいるなら、これだけは絶対に知ってほしい。 どれほど相手が巨大であれ、手元に確かな「証拠」さえ揃っていれば、個人であっても本人訴訟という刀を抜けば、最小限の経済的負担で正当な結果をもぎ取ることができるのだ、と。
(終)
あとがき
「正義は勝つ」一ーその言葉を噛み締めながら、私はようやく長い戦いの鉾を納めることができた。
私達のマンションは救われた。
情報提供を厭わず、正しい道へと導いてくれた敏腕担当者への感謝は、言葉では言い尽くせないものだった。
しかし、平穏な時間は永遠には続かない。
時計の針が5年の時を刻み、マンションは「大規模修繕工事」という、これまた大きなイベントを迎える。
援軍はもちろん、あの彼だ。
だが、億単位の予算をめぐる業者選定の、まさに「落札」が決まるその瞬間(とき)、底知れぬ闇のドラマが展開されることとなる。
次なる敵は?
Season 1. 完
Season 2『大規模修繕・落札のブラックホール』へ続く。
