「群れず集まる」(田中和将氏・GRAPEVINE)を読んで思うこと
今回は、ロックバンドGRAPEVINEの田中和将さんが2020年に執筆した「群れず集まる」について書きたいと思います。
GRAPEVINEというバンドは1997年にデビューした日本のロックバンドで、今も精力的に活動を続けています。
私はこのバンドとは非常に長いお付き合いになりまして、自分が歳を重ねるごとに彼らの音楽に居場所を感じ、今では1番好きなバンドと言えます。
私のペンネームもこのバンド由来です。早くも改名したいですが…
このGRAPEVINEの楽曲で作詞を担当しているのが田中和将さんです。彼の書く詞は文学的とも評されますが、そういう面もありつつ実に多彩です。
私は田中さんの書く詞が自分の心に馴染みやすくとても好きなんです。
そんな田中さんが執筆したエッセイ「群れず集まる」は、「文學界」(文藝春秋) 2020年7月号に掲載され、とても反響を呼び、2023年1月に出版された高校の国語の教科書「精選 文学国語」(明治書院)にも掲載されました。このエッセイは今もウェブサイトに全文公開されています。
先日、無性に読み返したくなり、改めて読み直しました。
冒頭で、キジバトを眺める日々を送っているのは「仕事がないから」と書いているのは、コロナ禍でライブやその他の活動ができなくなったということです。
「群れず集まる」は、そんな当時の社会情勢を背景に、表現に対する田中さんのスタンスとその苦悩が明確に書かれています。
このエッセイを読むと、GRAPEVINEがデビュー当時からこのスタンスを一貫していることがよくわかります。彼らは決して大衆に迎合しません。最新アルバムのタイトル「あのみちから遠くはなれて」も、彼らのスタンスをよく表したものだと思います。
ここからは、私の感想や思うことです。
なぜ私がGRAPEVINEの音楽に居場所を感じることができるのか再認識させられるようなエッセイでした。田中さんの表現に対するスタンスはとても真摯で誠実であり、表現の受け手に対して敬意を感じます。
「受け取る側が自らの解釈で咀嚼して初めて『勇気』や『元気』に変換されるものだと考えている。」と書かれている点にそれがよく現れています。
私はこの考えにとても共感しますし、自分も何かを発する時はこうありたいと思える一つの指針となりました。
昨今の風潮として、表現の受け手側が「答え」を求めすぎていて、そこに合わせるように表現者たちも説明しすぎているような余白のない表現が多いように思います。既に答えが用意されている表現に共鳴できなければ、その輪の中には入れないという仕組みが出来上がっていると。そして、そのような輪の中に入れないのは往々にして弱者なのだと田中さんは指摘しています。
田中さんの書く歌詞は抽象的で余白があります。この余白を難解だとかわかりにくいという人もいます。
しかし、日々生活していく中で彼らの音楽を聴いていると、歌詞の中で書かれていることが何となくわかる時があるんです。だからGRAPEVINEの音楽を聴き続けていくのはこの上ない楽しみなのです。
答えというものは本来そんなに簡単に見つかるものではありません。その時々の自分の状況や社会の情勢によって答えは変わります。だからこそ色んなものに余白が必要なのだと思います。
私は、表現というものは表現者の手を離れたら、受け手のものだと思っています。だから、自分から何かを発する時は説明しすぎないよう、受け手に解釈の余地があるように余白を作ろうと心がけたいと思います。余白がないと場合によっては重苦しく、受け手に負担をかける場合もあるからです。もちろん、そこには受け手との信頼関係と受け手への敬意は必要です。
私自身、今まで生きてきたなかで、自分が伝えてきたことや、やってきたことがまったく理解されず途方に暮れることがありました。一体自分はなぜここにいるのかと感じることもあります。私は基本的に1人でいることを好む性分ですが、ここ数年の生活で更に拍車がかかり、孤独が極まった感じもあります。それでも、誰かと何かを成していくことの喜びや楽しみを知っているので、これからも人と関わることをやめられない、諦められないと思います。そんな風に矛盾を抱えて、群れず、集まって生きていくのだと思います。
GRAPEVINEの音楽は間違いなく私の居場所となっていますし、「群れず集まる」という言葉はこれからの生活の指針になっていくでしょう。
このエッセイを読まれた方はどう思いましたか?
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