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第32話「彼氏と温泉旅館に来たのに家族がいる日」




 日曜日の朝。

「よし……。」

 ひろみは、自分の部屋で小さくガッツポーズをした。

 今日は——  
 彼氏・悠馬と、初めての一泊温泉旅館デート当日。

 しかも、商店街の「秋の感謝祭まつり」の福引で当てた  
 “ペア宿泊券”。

(借金8,000万家庭の娘が、  
 合法的に温泉旅館に泊まれる奇跡の一枚……)

 封筒の「ご招待」の文字が、何度見てもまぶしい。

---

「ひろみ〜。」

 階下から、母・なみえの声が響く。

「電車、遅れたら大変よ〜。  
 **彼氏さんとの“初温泉”なんだから〜。**」

「その言い方やめて。」

 スーツケースを引きずりながら階段を降りると、  
 リビングには、妙にそわそわしている家族の姿。

「今日は、あくまで健全な温泉旅行だからね。  
 健・全・な。」

「誰も“健全じゃない”なんて言ってないわよ。」

 なみえは、なぜかニヤニヤ笑い。

「お父さんなんて、朝からずっと——」

「聞いてくれひろみぃ!!」

 キッチンの奥から、最悪のタイミングで声が飛ぶ。

「温泉と言えば——  
 **卓球で“彼氏の人格査定”だ!!**」

「来る気満々じゃん…。」



「ちょっと待って。」

 ひろみは、両手をパッと広げて制止する。

「今日の宿泊券、“ペア宿泊券”だよね?」

「ああ。」

 父・しげるは胸を張る。

「“二名様まで”って書いてあった。」

「……じゃあ、父ちゃんと母ちゃんの布団は、  
 どう見ても存在しないよね?」

「大丈夫だ。」

 しげるは、してやったり顔で親指を立てた。

「**自腹で和室一間、別に押さえた。**」

「自腹……?」

 ひろみは、声を低くする。

「借金8,000万ある人の“自腹”って、  
 世界一不穏なワードなんだけど。」



「しかもね。」

 なみえが、嬉しそうに続ける。

「“せっかくだから、えりも一緒に”ってことで——」

「おはようございま〜す!!」

 妹・えりが、  
 キャリーバッグを転がしながら登場した。

「**“彼氏さんの前で家族がやらかす会 in 温泉旅館”  
 参加させていただきまーす!**」

「そんな公式イベント、申請してない。」

---

「つまりこうよ。」

 ひろみは、頭を抱えながら状況を整理する。

「・ペア宿泊券の和室 → 私と悠馬  
 ・別料金の和室 → 父・母・えり  
 → 現地集合・現地バッティング方式。」

「そういうこと。」

 なみえは、悪びれもせず言う。

「娘の初温泉旅館くらい、  
 廊下の空気になって見守らせてよ。」

「うちの家族、“空気”が一番うるさいんだよ。」



 結局、抵抗むなしく出発時刻。

 駅で、悠馬と合流する。

「おはよう、ひろみさん。」

「おはよう。」

「なんか今日は、“戦に向かう武将”みたいな顔してるけど大丈夫?」

「気のせい。  
 ちょっとだけ、背後の気配を気にしてるだけ。」

「背後?」

「あとで説明するかもしれないし、  
 しないかもしれない。」

---

 電車に揺られて一時間半。

 窓の外には、だんだんと増えていく山の緑。

「いや〜、たまには電車旅もいいね。」

 悠馬が、窓に肘をついて景色を見ながら言う。

「温泉も久しぶりだし、  
 ゆっくりしよう。」

「そうだね。」

(どうか、同じ車両に“ジャージ姿の父”とか  
 “無駄に楽しそうな母と妹”が乗っていませんように……)

 ひろみは、心の中で百回くらい祈った。

---

 旅館に到着。

 木の香りがするロビー、  
 大きな生け花、  
 「川島ひろみ様 ご一行」と書かれたウェルカムボード。

(“ご一行”の解釈を、  
 旅館側には深く問いたくない……)

「川島ひろみ様と——悠馬様ですね。」

 仲居さんが、予約票を確認して微笑む。

「こちらのペアプランのお部屋へどうぞ。」

(今のところ、家族の影はナシ……)

 少しだけホッとする。

---

 案内されたのは、  
 川沿いのこぢんまりした和室。

 障子越しの光が柔らかく、  
 窓を開けると、さらさらと川の音が聞こえてくる。

「うわ、すご……。」

 悠馬が、素直に声を漏らす。

「“ペア宿泊券”って、  
 もっと簡素な部屋かと思ってた。」

「“借金8,000万娘”には過ぎた環境です。」

「肩書きやめて。」



「改めて、ありがとうね。」

 テーブルに座って、  
 お茶を一口飲んだ悠馬が言う。

「最近、仕事けっこうハードだったからさ。  
 こういう時間、めちゃくちゃ嬉しい。」

「こちらこそ。」

 ひろみも、湯のみを両手で包みながら笑う。

「“仕事で疲れた彼氏を、温泉で癒やす彼女”とか、  
 自分の人生で発生すると思ってなかった。」

「もう十分やってくれてるよ、普段から。」

「やめて、褒められると動揺する。」



 と、いい雰囲気になりかけたその時——

 コンコン。

 襖がノックされた。

「はーい。」

 ひろみが立ち上がる。

(仲居さんかな。お茶菓子の追加とか——)

 ガラッ。

「失礼しまーす。  
 お隣のお部屋の——」

 と、言いかけた声の主は——

「**川島ファミリーでーす!!**」

 浴衣姿のなみえ、  
 帯ゆるゆるのしげる、  
 テンションMAXのえり。

「やっぱり来た。」

 ひろみの脳内で、何かが崩れ落ちた。



「ようこそ、温泉旅館へ!」

 しげるが、  
 なぜか“支配人ポジション”で入ってくる。

「**“借金8,000万 in 旅館編”、開幕だ!**」

「そのシリーズ、打ち切って。」

「悠馬くん。」

 なみえが、にこにこしながら頭を下げる。

「今日は娘がお世話になります。」

「こちらこそ、お世話になります。」

 悠馬は、  
 状況をすぐ理解しながらも、  
 穏やかに笑って頭を下げた。

(この人、仏かな?)

 ひろみは、  
 内心で合掌した。



「じゃあまずは。」

 えりが、勝手にテーブルの湯のみを並べ替える。

「**“彼氏さん・家族面談 in 温泉旅館”**を開始します!」

「そんな面談、申請した覚えないんだけど。」

「悠馬くん。」

 なみえが、お茶を注ぎながら聞く。

「うちのひろみ、どう?」

「出た、“親のざっくり質問”。」



「ひろみさんは——」

 悠馬は、少し照れくさそうに笑って言った。

「“全部自分で抱えちゃう”ところが、  
 ちょっと心配です。」

「……。」

 えりが、ニヤッとする。

「開幕から核心。」

「でも、  
 “自分のことより店と家族を優先する”ところは、  
 すごく尊敬してます。」

「やめて。」

 ひろみは、反射的に目をそらした。

「ここで泣いたら、  
 “感動の家族会”みたいになるから我慢したい。」



「それと——」

 悠馬は、家族を見渡しながら続けた。

「この家族ごと、  
 なんか好きだなって思ってます。」

「出た。“家族ごと”。」

 なみえの目が、  
 じわっと潤む。

「今の、録音しとこうかしら。」

「スクショ撮れないから、  
 心のHDDに保存しとくわ。」

 えりが、ニヤニヤしながら言う。



 ひとしきり“面談ごっこ”が終わったあと。

「じゃ、そろそろお風呂行こっか。」

 ひろみと悠馬は、  
 浴衣に着替えて大浴場へ向かった。

「女湯はこっちか。」

「男湯はあっち。」

「“混浴騒動”とかはないから安心してね。」

「誰もそこまでは期待してない。」



 女湯。

 湯気の向こうに、  
 岩風呂と露天風呂が見える。

「わ〜……。」

 肩まで湯に浸かり、  
 ひろみは露天側の空を見上げた。

(こんなちゃんとした旅館、  
 いつぶりだろ……)

 借金も商店街も、  
 いったん湯船の外へ置いておく。

(たまには、  
 “何も考えない時間”があってもいいよね。)

 湯気にまぎれて、  
 ふっと力が抜けた。



 一方その頃、男湯。

「いや〜、いい湯だな。」

 湯船の端で腕を広げるしげる。

「悠馬くんよ。」

「はい。」

「**温泉で大事なのは、“外気温とのギャップ”だ。**」

「急に、何の講義ですか。」

「露天風呂から上がる瞬間の“ヒヤッ”を  
 楽しめるやつは、  
 暑さも寒さも笑い飛ばせる。」

「人生論、湯気越しに語らないでください。」

「つまりだ。」

 しげるは、  
 湯気の向こうから悠馬を見る。

「お前は、“ひろみの人生の露天風呂”になれるか?」

「日本語が渋滞してます。」



「でも、一つだけはっきり言えるのは——」

 悠馬は、湯面を見つめながら静かに言った。

「**どんな温度の日でも、  
 “ここに帰ってきたい”って思える場所に、  
 ひろみさんがいるなら。**」

「うん。」

「そこに一緒にいられるなら、  
 ちょっと熱くても、  
 ちょっとぬるくても、  
 全然いいなって思ってます。」

「……。」

 しげるは、ふぅっと息を吐いた。

「合格。」

「試験だったんですか。」

「“露天風呂面談”は、  
 男同士の一番大事な儀式だ。」

「今日初めて聞きました。」

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 夜の宴会。

 川魚の塩焼き、  
 山菜の天ぷら、  
 温泉豆腐。

「うまっ。」

 えりが、天ぷらを頬張る。

「“自分で作らなくていい夕飯”、  
 世界一おいしい。」

「それ、毎日言ってる。」



「ひろみさん、食べてる?」

 悠馬が、小皿に天ぷらを取り分けてくれる。

「ありがとう。」

「骨多いから気をつけてね。」

「完全に“いい彼氏”ムーブ。」

 えりが、小声でひろみにささやく。

「こんないい人を、  
 このカオス家族に巻き込んでいいのか  
 ちょっと心配になる。」

「それ、もっと前に考えてほしかった。」



 宴も進み、  
 いよいよしげるが立ち上がる。

「よし!!」

 危険な声量。

「ここで、“温泉卓球大会”を開催する!!」

「恒例みたいに言ってるけど、  
 今日が初開催だからね。」

「大広間、空いてるそうです!」

 どこからか現れる高城ミオ(なぜか同じ旅館に泊まっている)。

「この人、“イベントの匂い”がすると  
 ワープしてくるんだよな……。」

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 卓球台の前。

「第1試合、川島父 vs 悠馬くん!」

 えりが、勝手に実況を始める。

「**カード名:“借金8,000万の父” 対 “温泉デート中の彼氏”!**」

「もう少しマイルドな紹介ないの。」



 試合開始。

 カコン、カコン……

「悠馬くん、普通にうまい。」

 ひろみが驚く。

「会社の社員旅行で、  
 毎回“卓球地獄”やらされてて。」

「どこもやること一緒なんだ……。」



「おりゃあ!!」

 しげるが、  
 全力スマッシュを放つ。

 シュバッ。

 カコン。

 悠馬が、  
 あっさりと打ち返す。

「ナイスレシーブ〜!!」

 えりの実況がうるさい。



 数分後。

「……負けた。」

 しげるは、ラケットを持ったまま天井を仰いだ。

「借金8,000万の重み、  
 卓球台には乗らなかったか……。」

「そもそも乗せちゃダメ。」

「悠馬くん。」

 なみえが、笑いながら言う。

「うちの人に“借金では負けてる”けど、  
 卓球では勝ってくれてありがとう。」

「妙な評価軸。」



 ほどなくして、お開きの時間。

 廊下には、  
 家族部屋の前と、  
 少し離れたところに並ぶペア部屋の前。

「じゃ、ここからはふたりの時間ね。」

 なみえが、にやり。

「変なことしたら、廊下に立たせるから。」

「小学生ルール。」

「お父さんは廊下出禁ね。  
 のぞき・偵察、全部禁止。」

「なぜバレている。」

 しげるが、不満顔で眉をひそめる。

「じゃ、おやすみ〜。」

 家族3人は自分たちの部屋へ消えていき、  
 廊下には、ひろみと悠馬だけが残った。



「今日はありがとう。」

 ペア部屋の前で、  
 ひろみが少し照れくさそうに言う。

「家族巻き込んじゃって、  
 せっかくの温泉デートが  
 “家族イベント寄り”になっちゃったね。」

「ううん。」

 悠馬は、いつもの穏やかな笑顔で首を振る。

「**“ひろみさんだけの時間”も嬉しいけど、  
 “ひろみさんの世界ごと見られる時間”も、  
 けっこう好きだよ。**」

「……。」

 ひろみは、  
 返事の代わりに、  
 小さく会釈をしてから言った。

「じゃあ、“私の世界セット付きプラン”で  
 これからもお願いします。」

「よろこんで。」

 二人は、そのまま一緒に部屋の中へ入っていった。

---

 布団に入ってからの、恒例・ひろみの「脳内まとめ会」。


「① “二人きりでいたい自分”と、  
 **“家族ごと見てもらいたい自分”が  
 同居してるのを、はっきり自覚した。**  
 ② 借金8,000万でも、  
 “ペア宿泊券+父の自腹和室”で、  
 なんとか温泉デートっぽい何かは成立する。  
 ③ 彼氏が、“卓球では勝ちつつ、  
 父のメンツはちゃんと立ててくれる人”だと分かって、  
 ちょっとだけ将来に希望を持ってしまった。」

「③が、一番ズルいな……。」

 自分でまとめておいて、  
 自分で布団の中で転がる。

---

 遠くから聞こえる川のせせらぎと、  
 壁越しのえりの笑い声、  
 しげるのいびき。

 それら全部が混ざって、  
 なぜか心地よいBGMになっていく。

 ——こうして、「彼氏との温泉旅館デート」は、  
 結果的に「家族ぐるみ温泉騒ぎスペシャル」になりながらも、  
 ひろみにとって大切な一ページになった。

 借金8,000万は、もちろんそのまま。  
 でも、“いつか返していく未来”のどこかに、  
 今日の温泉旅館の夜も、  
 きっと静かに紛れ込んでいる。

 川島家の毎日は、やっぱりだいたい事件。  
 そのうちのひとつとして、  
 この“温泉旅館編”もしっかりと物語の中に  
 刻まれていくのだった。

 つづく。

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