染色体と体の形だけで生き方をラベリングされる世界って何?!
どうも、はなです。
今回は、ながい独り言をつぶやきます。
”生きる” を考えるシリーズ(?)です。
私は大学生になってノンバイナリーであることを自認し、オープンにし始めました。生まれた性は女性です。
でも、カタカナの小難しい名前で自分を定義することが大事だとは思っていません。ただ、一言で「私は、あなたが思っている”女性”とは少し違うかもしれない」ということを伝えるのに、この言葉が一番しっくりくる、というだけなんです。
ノンバイナリーってなんやねんという方のために
ノンバイナリーという広義の概念は以下のようになっています。
・女性でも男性でもない人
・女性でも男性でもある、中性でも男性でもある、中性でも女性でもある、など二つの性別を自認している人
・ときと場合によって性別が変わる人
・女性と男性という2つの性別だけが認められている社会に、違和感を持っている人
私はこのすべてに当てはまるような感じで、性自認がふわふわとしています。特に、男女二元論に対する違和感が大きいです。
私は小学生のころから、男子と一緒にサッカーをしたり雑草図鑑を眺めているような人間でした。親にスカートを勧められてもほとんど履かず、男の子用の洋服にいつも目がいっていました。あまりにも男性用のものに目がいくので、高校生のときに性自認が男性なのかと自分に問うたこともありましたが、それもしっくりきませんでした。
自分は女性でも男性でもないし、同時に女性でも男性でもある。
だから、正直なところ「私の性自認はこれである」と定めること自体はどうでもいいんです。 でも、それが「どうでもよくない」瞬間がある。
それは、”女性”の私としてではなく”個人”としての私を認識してほしい、という願いがあるからです。生まれ持った体の形で「あなたは女性だからこうだよね」と決めつけられてしまうと、言葉にならないストレスが静かに積もっていきます。
相手が私の性別を意識した上で「個人」として接してくれるのと、最初から性別のフィルターを通さずに「個人」として見てくれるのとでは、私にとっては全く意味が違うのです。
ここまで読んで、「なるほど、ノンバイナリーの人はそういう考え方なんだ」と思ってくれたかもしれません。でも、私が本当に大事だと思っているのは、ここからです。
たしかに「ノンバイナリー」というラベルは、今の私を説明するのに便利です。でも、そのラベル一枚で私のすべてが分かるわけではありません。
そして、これはシスジェンダー(生まれ持った性と性自認が一致している人)やヘテロセクシュアル(異性愛者)の人であっても同様だと思います。
LGBTQ+の問題は、当事者だけの問題ではないと言うことです。
というか、全員が当事者です。
例えば、同じ「シスジェンダー女性」というラベルを持つ人たちの中でも、ジェンダーアイデンティティのあり方は一人ひとり、微小に、でも確実に違っているのではないでしょうか。いわゆる「女性らしさ」を心地よく思う人もいれば、窮屈に感じる人もいる。そのグラデーションは、本人にしか分からない、とても個人的な感覚のはずです。
ラベルは、複雑な世界を理解するための取っ掛かりにはなるけれど、万能ではありません。それどころか、「分かったつもり」になるための言い訳になってしまうことすらある。
だから、私たちは決して、お互いを完全に理解することはできないのかもしれません。それは自明のことです。
でも、だからといって理解を諦めるのも、決めつけるのも、違うと思います。
大切なのは、目の前にいるその人を、「ノンバイナリーだから」「女性だから」「男性だから」という枠の中から見るのではなく、ただ「一人の人」として見つめ、その人の言葉に耳を傾け、知ろうとし続けること。
「あなたの世界は、どんな風に見えているのだろうか」 そんな問いを持ちながら、対話を重ねていく。決めつけず、分かった気にならず、いつでも相手を知ることから始めたい。
お互いの違いを認めながら、ただ「人と人」として、誠実に向き合い続けていきたいです。
友達にnoteを読まれていたら恥ずかしいですが、優しい目で見てくれていることを祈ります
