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あだ名からの逆襲

夜のWhiskyCat。

カウンターには、神父さんとユリエがいた。

二人とも、ゆっくりとウイスキーを飲んでいる。

「人って、自分のことを案外わかってないんですよね」

ユリエが言った。

「自分では、こういう人間だと思っていても」

神父さんが続ける。

「他人から見ると、まったく違っていたりする」

「でも、その違いを教えてくれるのも、人なんでしょうね」

「ええ」

グラスの中で、琥珀色の液体が揺れた。

「だから、人と出会うことには意味があるんでしょうね」

「自分では見えない自分を、見せてもらえるから」

二人のグラスが、静かに触れた。


そこへ、ドアが開く。

「こんばんは」

ニシダだった。

「こんばんは」

「こんばんは、ニシダさん」

ニシダはいつもの席に座った。

「マスター、いつもの」

「はいはい」

グラスが置かれる。

ニシダは一口飲んだ。


しばらく二人の会話を聞いていたが、突然、

「皆さん、あだ名ってありました?」

マスターが顔を上げた。

「ホンマにいつも、急やな」

「そうですか?」

「さっきまで、人の心の話してたんやぞ」

「だからですよ」

「なんでや」

ニシダは真顔だった。

「人間って、あだ名になると本性が出るんですよ」

「どんな理屈や」

ユリエが笑った。

「昔、変なあだ名の人、いっぱいおったなと思って」

「どんな?」

ユリエが聞く。


ニシダは指を折り始めた。

「顔が丸いから、アンパン」

「ひどい」

「いつも鼻水垂らしてたから、ハナタレ」

「もっとひどい」

「背が低いから、チビ」

「それは普通ですね」

「太ってたから、ブ〜やん」

ユリエが黙った。

「眼鏡かけてたから、メガネ」

「そのままやん」

マスターが言った。

「髪の毛が天然パーマやったから、モジャリ」

「ひどいな」

「歯が一本だけ出てたから、ギバちゃん」

「……」

「声がでかかったから、スピーカー」

「それはちょっと面白い」

ユリエが笑った。

ニシダは調子に乗って続ける。

「いつも転んでたから、コケ」

「寝てばっかりいたから、ネボスケ」

「何でも食べるから、掃除機」

「掃除機?」

「給食の残りまで食べてた」

「それは強い」


マスターが笑った。

ニシダも笑った。

「今考えたら、結構ひどいですよね」

「かなりひどいですよ」

ユリエが言った。

「本人は、嫌やったやろうなぁ」

ニシダが言う。

「たぶんね」

「でも、あの頃は、それが普通やった」

「そうですね」


ユリエはグラスを置いた。

「今は、あだ名を禁止している学校もあるんですよ」

「へえ」

マスターが顔を上げる。

「ありますよ」

ユリエは続けた。

「本人が嫌だと思う名前で呼ばない。性別を決めつけるような呼び方もしない。昔なら普通だったことでも、今は相手がどう感じるかを考える」

「なるほど……」

ニシダが頷いた。

「それは正しいですね」

「でも」

ユリエが少し考える。

「全部なくしてしまうのも、どうなんでしょうね」

ニシダが見る。

「というと?」

「親がつけた名前とは別に、友達がつけてくれた名前ってあるじゃないですか」

「ありますね」

「その人のことを、どう見ているかが入っている」

「なるほど」

「だから、あだ名そのものが悪いんじゃなくて」

ユリエは言った。

「相手が嫌がっているのに、呼び続けることが悪いんじゃないかな」


ニシダが神父さんを見る。

「神父さん」

「はい?」

「どっちが正解です?」

「私に聞くんですか?」

「はい」


神父さんは少し考えた。

「難しい質問ですね」

グラスを眺める。

「名前というものは、呼ぶ人と、呼ばれる人の間にあるものですからね」

「はい」

「呼ばれる人が嫌なら、やめる」

「うん」

「でも」

神父さんが微笑んだ。

「その名前を聞いて、昔の自分を思い出せることもある」


ユリエが顔を上げた。

「神父さんにも、あだ名が?」

「ありましたよ」

ニシダがすぐに反応する。

「なんていうんです?」

神父さんは少し困ったように笑った。

「……コッペ」

「コッペ?」

「はい」

「コッペパンの?」

「たぶん、そこからです」

「なんで神父さんがコッペなんです?」

「子どもの頃、名前を勝手に崩されましてね」

「へえ」

「それが、いつの間にかコッペになった」

ニシダは神父さんの顔を見る。

「……似合わないですね」

「でしょう?」

神父さんが笑った。

「だから嫌だったんですよ」

「今でも?」


神父さんは少し黙った。

「今は、そうでもありません」

「なんでです?」

神父さんはグラスを見た。

「その名前で呼んでくれる人が、もういないからでしょうね」


ニシダが黙った。

ユリエも黙った。

マスターが、静かにグラスを磨いている。

神父さんが続けた。

「子どもの頃って、自分で名前を選べませんからね」

「うん」

「親がつけて、学校で呼ばれて、友達が勝手にあだ名をつける」

「はい」

「その中に、自分の知らない自分がいるんです」

ユリエが神父さんを見る。

「コッペという自分?」

「そうです」

神父さんは少し笑った。

「今の私からは、誰も想像しないでしょう」

「しませんね」

「でも、確かに私だったんですよ」


ニシダが、神父さんを見た。

そして突然、

「コッペ」

神父さんが顔を上げた。

「はい」

一瞬、店が止まった。

ニシダが笑った。

「返事した」

ユリエが吹き出す。

マスターも笑った。

神父さんも、つられて笑う。

「もう一回」

ニシダが言う。

「コッペ」

「はい」

「コッペ❗️」

「はい」

四人が笑った。


ニシダがグラスを持ち上げる。

「これ、逆襲ですね」

「逆襲?」

ユリエが聞いた。

「昔は、呼ばれるのが嫌だった名前を」

ニシダは神父さんを見る。

「今度は、自分から笑って返事する」

神父さんは少し考えた。

そして、静かに頷いた。

「なるほど」

「どうです?」

「悪くないですね」

「コッペさん」

「はい」

また笑いが起きた。


しばらくして、神父さんが言った。

「でもね」

「はい」

「ひとつだけ、困ったことがあります」

「何です?」

神父さんは少し照れたように笑った。

「今さら昔の名前で呼ばれると」


少し間を置いて、

「子どもの頃の自分が、急に隣に座っているような気がするんです」

誰も笑わなかった。

嫌な沈黙ではなかった。

むしろ、懐かしい沈黙だった。


ニシダがぽつりと言った。

「じゃあ、たまには呼びましょう」

「たまに?」

「はい」

「なぜ?」

「昔の自分を、忘れないために」


神父さんはグラスを持ち上げた。

「それなら」

「はい」

「お願いします」

四つのグラスが触れた。

カチン。


その音を聞いて、マスターが言った。

「しかしな」

「はい?」

「ニシダのあだ名も、大概やったけどな」

「……言います?」

神父さんが笑った。

「ブ〜やんやったやろ」

「言うなって」

ユリエが吹き出した。

神父さんがグラスを口に運ぶ。

「子どもの頃の名前は、案外忘れないものですよ」

ニシダは少し笑った。

「……忘れてほしいですけどね」


マスターがグラスを置いた。

「おい、ブ〜やん」

「なんです?」

「今日は早苗ちゃんとこ、行かんのか?」

ニシダが、少しだけ間を置いて答えた。

「……行きますよ」

また、笑い声が起きた。

夜のWhiskyCatに、
いつもの夜が戻ってきた。




WhiskyCat


この夜の話とは別に、WhiskyCatのカウンターから生まれた物語をまとめています。

WhiskyCat文学全集


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