気持ちが届くまでの時間
夜のWhiskyCat。
店のドアが開いた。
「こんばんわ」
ニシダだった。
「いらっしゃい」
マスターがグラスを磨きながら言った。
ニシダはいつもの席に座った。
「今日、会社で先輩に言われたんです」
「何を?」
先に来ていた、ユリエが聞いた。
「お前、テレビばっかり見てたら騙されるぞって」
「へえ」
「ちゃんとYouTube見て、自分で調べて生きないと、間違ったまま騙されるぞって」
マスターが笑った。
「ずいぶん熱心な先輩やな」
「僕、何も言えなかったです」
「なんで?」
「うちのテレビ、YouTubeついてないんで」
ユリエが笑った。
「そういう問題?」
「そういう問題です」
ニシダは真面目な顔をしていた。
マスターがグラスを置いた。
「まあ、YouTubeにも本当のことはあるやろ」
「はい」
「テレビにも本当のことはある」
「はい」
「どっちにも間違いはある」
ニシダは黙っていた。
「じゃあ、何を信じたらいいんです?」
ユリエが聞いた。
マスターは少し考えた。
「自分で考えるしかないんちゃうか」
「でも、自分で調べるんですよね?」
「調べるのはええことや」
マスターは煙草に火をつけた。
「ただな。調べたことと、自分で考えたことは、同じやない」
ユリエが頷いた。
「たしかに」
「誰かが言うたことを、テレビから聞くか、YouTubeから聞くか。それだけの違いになることもある」
ニシダはウイスキーを一口飲んだ。
「僕のテレビ、ばあちゃんのなんです」
「おばあちゃんの?」
「はい」
ニシダは少し笑った。
「数年前に亡くなって。そのテレビを形見にもらいました」
「まだ使ってるんや」
「毎日です」
「古いやろ?」
「古いです」
「YouTubeついてへん?」
「ついてないです」
三人で笑った。
「ニュース見たり、野球見たり。天気予報も見ます」
「ええやん」
マスターが言った。
「ばあちゃんと同じもん見てるんやろ」
「たぶん」
ニシダはテレビを見るような目をした。
少し間があった。
ユリエが言った。
「でも、昔はもっと大変でしたよね」
「何が?」
「分からないことを調べるの」
「ああ」
マスターが笑った。
「今みたいにスマホで検索できへんかったからな」
「図書館行ったり、本を調べたり」
「人に聞いたりな」
「そうですね」
マスターはグラスを拭きながら言った。
「昔は、知らんことは知らんままやった」
「今は、何でもすぐ分かりますね」
「分かるようになったんかな」
「え?」
「答えが出てくるようになっただけかもしれん」
ニシダが少し考えた。
「難しいですね」
「まあ、難しいことは置いとこ」
マスターが笑った。
「昔の話しよ」
「昔?」
「ネットのない頃の話」
ユリエが微笑んだ。
「手紙とか?」
「そう」
マスターは煙草の灰を落とした。
「好きな人に何か伝えたかったら、手紙を書いた」
ニシダが聞いた。
「ラブレターですか?」
「そうや」
「書いたことないです」
「今はメールやもんな」
「はい」
「LINEもあるし」
「はい」
「便利になったな」
「はい」
ユリエが言った。
「でも、手紙って、届くまで時間がかかりますよね」
「それがええねん」
マスターが言った。
「書いて、封筒に入れて、切手貼って、ポストに入れる」
「それから待つ」
「そう」
「返事もすぐ来ない」
「来ない」
「何日も?」
「何日も」
ニシダが笑った。
「今なら耐えられないですね」
「でもな」
マスターは少し遠くを見るように言った。
「ポストを開けて、自分宛ての手紙が入ってたときは嬉しかったで」
ユリエが頷いた。
「封筒を見るだけで、誰からか分かったりして」
「そうそう」
「開ける前から嬉しい」
「それや」
マスターが笑った。
「手紙は、届く前から始まってるんや」
ニシダはその言葉を聞いていた。
「……じゃあ」
少しして、ニシダが言った。
「僕も書いてみようかな」
「何を?」
ユリエが聞いた。
「ラブレター」
マスターが笑った。
「誰に?」
ニシダは黙った。
「……早苗ちゃんに」
「おお」
ユリエが笑った。
「ええやん」
「でも」
ニシダは困った顔をした。
「何を書いたらいいのか、全然分からないです」
「そらそうやろな」
マスターが紙とペンを出した。
「メールしか書いてへんもんな」
「はい」
「ほんなら、考えよか」
ニシダは紙を前に置いた。
「まず何を書けばいいんです?」
ユリエが言った。
「『早苗ちゃんへ』」
ニシダが書いた。
「その次は?」
「なんで手紙を書こうと思ったの?」
「……好きだから?」
「それ、最初に書く?」
マスターが笑った。
「いきなり『好きです』だけやったら、びっくりするやろ」
「じゃあ、何を書けば?」
ユリエは足を組み直して、少し考えた。
「早苗ちゃんと話しているとき、自分がどういう気持ちになるか」
ニシダは黙った。
「……安心します」
「それを書いたら?」
ニシダが書く。
「早苗ちゃんと話していると、安心します」
「なんで?」
「仕事で嫌なことがあっても、話してると忘れるから」
「それも書いたらええ」
ニシダがまた書く。
「仕事で嫌なことがあった日も、早苗ちゃんと話していると、少し忘れられます」
「ええやん」
マスターが頷いた。
「次は?」
「感謝を書くとか」
ユリエが言った。
「いつもありがとう、とか」
ニシダが書いた。
そして、しばらく考えてから、最後の一行を書いた。
「できました」
「読んでみ」
ニシダは少し恥ずかしそうに、紙を持ち上げた。
早苗ちゃんへ
突然、手紙を書いてすみません。
今まで、誰かに手紙を書いたことが
ありません。
メールなら何度も書いたことがあります。
でも、メールと違って、
手紙は書いてから届くまで時間があります。
その間に、何を書こうか考えました。
僕は、
早苗ちゃんと話している時間が好きです。
仕事で嫌なことがあった日も、早苗ちゃんと話していると、少し気持ちが楽になります。
いつも笑って話してくれて、
ありがとうございます。
これからも、たまに話を聞いてください。
それから……
僕は、早苗ちゃんのことが好きです。
返事は急がなくて大丈夫です。
ニシダ ♥
読み終わると、しばらく誰も何も言わなかった。
「……どうです?」
ニシダが聞いた。
ユリエが微笑んだ。
「いいと思います」
「ほんま?」
「うん」
マスターも頷いた。
「最後の一行、ええな」
「どこです?」
「『返事は急がなくて大丈夫です』」
「そうですか?」
「昔の手紙みたいや」
ニシダは笑った。
「メールなら、すぐ返事ほしくなりますけどね」
「せやろ」
マスターが言った。
「昔は、返事が来るまで待つしかなかった」
「待つの、嫌じゃなかったんですか?」
「嫌やったで」
マスターが笑った。
「でも、嬉しかった」
「どっちなんです?」
「どっちもや」
ユリエが笑った。
「待っている間も、その人のことを考えていられるから?」
「そうや」
マスターはグラスを置いた。
「手紙ってな、届いたときだけが嬉しいんやない」
「……」
「書いてるときも、ポストに入れるときも、返事を待ってるときも、その人のこと考えてるやろ」
ニシダは自分の手紙を見た。
スマートフォンの画面にはないものが、そこにはあった。
少し曲がった文字。
書き直した跡。
考えている間の時間。
それら全部が、手紙になっていた。
「便利になりましたね」
ユリエが言った。
「うん」
マスターが答えた。
「でもな」
少し間を置いて、
「便利になったからって、気持ちまで早く届くわけやない」
ニシダは手紙を封筒に入れた。
「明日、渡します」
「頑張って」
「はい」
マスターが笑った。
「返事、急がすなよ」
「分かってます」
「メールで催促もするなよ」
「しませんって」
三人で笑った。
店の外を、電車が走っていった。
ニシダは封筒をポケットに入れた。
ネットのない時代。
検索もできない。
既読もつかない。
返事がいつ来るかも分からない。
それでも。
誰かを思いながら書いた一枚の紙は、
ちゃんと、その人のところへ向かっていく。
届くまでの時間もまた、
手紙の一部だった。


この夜の話とは別に、WhiskyCatのカウンターから生まれた物語をまとめています。
WhiskyCat文学全集
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