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王の見える店

夕方の電車が、店の前を通り過ぎた。

窓ガラスが細かく震えた。

棚に並んだボトルが、互いに触れ合って小さな音を立てる。

その音は、一日に何度も聞く音だった。

マスターは数えたことがない。

もう何年も、この店で聞いている音だった。

店の扉には「準備中」の札が掛かっている。

カウンターには、まだグラスが並んでいない。

氷も割っていない。

それでも店の灯りだけは、いつも少し早く点けていた。

暗いうちに灯りがある店は、人を待っているように見える。

誰かに教えられたわけではない。

いつからか、そうしていた。


壁には一本のギターが掛かっていた。

一九六七年製のギブソンJ-50。

若い頃のような大きな音は出なくなった。

それでも木は時間を吸い込むように、少しずつ色を変えていた。


その横に、一枚のポスターがある。

赤い髪の少女。

大きな瞳。

こちらを見ている。

笑っているようにも見える。

何かを考えているようにも見える。

マスターは、その目が嫌いではなかった。

考えろ、と言われている気がした。


「……この人、誰?」

声がした。

マスターはレコードの針を落とそうとしていた手を止めた。

入口に、制服姿の少年が立っていた。

自転車は店の壁にもたせてある。

後ろのかごには、塾の鞄が入っていた。

「知らんか」

「女優?」

「ちゃう」

マスターは少し笑った。

「チェスの天才や」

少年はもう一度、ポスターを見上げた。

「チェス?」

「そうや」

「なんか……」

少年は少し首を傾げた。

「ずっと見られてる気ぃする」

マスターは笑った。

「考えろ、って顔しとるからな」

少年も少し笑った。

それが、この店で少年が初めて見せた笑顔だった。

マスターは立ち上がった。

壁からギターを外す。

「えっ」

少年が声を出す。

ギターの裏側には、年季の入った木製のチェス盤が隠れるように立て掛かっていた。

「コロナの頃にな」

マスターは盤を外した。

「店、閉めてる時間が長かったからな」

チェス盤を手に取る。

「暇で、このドラマばっかり観てた」

少年は興味深そうに見ていた。

マスターはさらに奥へ手を伸ばした。

その裏から、もう一つの盤が出てきた。

木の将棋盤だった。

古い盤だった。

角は少し丸くなっている。

表面には細かな傷がある。

何度も駒が置かれた跡だった。

「本命は、こっち」

少年は驚いた。

「なんで隠してるん?」

マスターは将棋盤をカウンターへ置いた。

コトン、と音がした。

静かな店の中で、その音だけが残った。

「隠してるんちゃう」

マスターは盤を撫でた。

「順番や」

少年は、その意味を聞かなかった。

まだ分からなかったからだ。


窓の外を、もう一本電車が通り過ぎた。

ガラスが震える。

店の中では、王将だけがまだ箱の中に残っていた。

その日から、少年は時々店の前で足を止めるようになった。

最初は入らなかった。

ただ、ガラス越しに見るだけだった。

マスターが一人で考えている将棋。

駒を動かす。

戻す。

首を傾げる。

そして、たまに小さく笑う。


三日目の夕方。

少年はとうとう聞いた。

「何がおもろいん?」

マスターは盤から顔を上げなかった。

「将棋か?」

「うん」

少し間があった。

「分からんから面白いんや」

少年は眉を寄せた。

「分からんのに?」

「分からんから考える」

マスターは歩を一つ前へ出した。

「この駒な」

「歩」

「最初は弱そうに見える」

少年は頷いた。

「でもな」

マスターは盤を見る。

「最後まで残った歩が、一番大事なところで王様を追い詰めることがある」

「そんなことあるん?」

「ああ」

マスターは笑った。

「ある」

「人間も一緒や」

少年は、その意味をまだ知らなかった。

でも、その日から少しだけ、将棋盤を見る時間が長くなった。


少年の名前は、森川直人と言った。

中学三年生だった。

受験まで、あと数ヶ月。

学校では、毎日のように模試の話が出た。

「志望校まであと何点」

「判定はどうだった」

「安全圏か、努力圏か」

数字が並ぶ。

点数。

順位。

偏差値。

机の上には参考書が積まれていた。

でも、直人が一番見たくなかった数字は、いつも自分の名前の横にあった。

頑張っている。

それは分かっていた。

親も心配してくれている。

先生も期待してくれている。

誰も悪くない。

それでも、ときどき思った。

自分はどこへ向かっているんだろう。

みんなが同じ方向へ走っている気がした。


ある日の夕方。

直人はいつものようにWhiskyCatの前で足を止めた。

まだ「準備中」の札が掛かっている。

中を見ると、マスターは一人で将棋盤を眺めていた。

「また負けてるん?」

直人が言った。

マスターは顔を上げた。

「失礼やな」

「だって、ずっと考えてるやん」

「考える時間が楽しいんや」

「勝つためじゃなくて?」

マスターは少し考えた。

「勝つためや」

「でもな」

歩を指で軽く叩く。

「考える時間があるから、勝負になる」

直人は盤を見る。

少しずつ、駒の動きが分かるようになっていた。

まだ強くはない。

でも、前より盤の上にあるものが見える気がした。

ある日、直人はポスターを見上げながら言った。

「この人も、最初から天才やったん?」

マスターはグラスを磨いていた。

「誰のことや」

「この人」

ベスのポスター。

「チェスの人」

マスターは少し笑った。

「知らん」

「え?」

「知らんから調べた」

「知らんのに飾ってるん?」

「気になったからな」

マスターはポスターを見る。

「天才って言葉は便利すぎる」

「便利?」

直人が聞く。

「その人が何時間考えたか」

「何回負けたか」

「どれだけ悔しい思いしたか」

マスターはグラスを置いた。

「全部、隠してしまう」

直人は黙って聞いていた。

「学校で言われるやろ」

「何を?」

「大谷翔平みたいになれって」

直人は少し笑った。

「言われる」

「そら、すごい人や」

マスターは迷わず言った。

「誰にもできへんことをしてる」

少し間を置く。

「でもな」

マスターは将棋盤を見る。

「藤井聡太も、誰にもできへんことをしてる」

「将棋の?」

「そうや」

「野球じゃないのに?」

「当たり前や」

マスターは笑った。

「世の中には、いろんな勝負がある」

「球場で勝負する人がおる」

「盤の前で、何百手先を読む人がおる」

「どっちが上とかちゃう」

「自分が大事やと思えるものに、時間を使えるかや」

直人は盤を見た。

「でも、将棋で食べていける人なんて少ないやろ」

「そうやな」

マスターはあっさり認めた。

「簡単な道ちゃう」

「じゃあ、なんでやるん?」

直人が聞く。

マスターは少し笑った。

「好きやからやろ」

「理由なんて、最後はそれで十分な時がある」

その日、直人は初めて駒を触った。

「これ、どう動くん?」

「そこからか」

「悪い?」

「いや」

マスターは笑った。

「そこが一番ええ」

「知らんことを、知らんって言える奴は強い」

「大人になると、それができん人が増えるからな」

直人は少し笑った。


窓の外を電車が通った。

夕暮れの光が、一瞬だけ盤の上を横切った。

まだ直人には、自分がどんな将棋を指すのか分からなかった。

受験がどうなるかも分からなかった。

でも、その日から少しずつ。

自分の次の一手を考えるようになった。


それから二週間ほど経った頃だった。

店の扉が開いた。

まだ「準備中」の札は掛かったままだった。

男は札を確認してから、少し頭を下げた。

「すみません。まだ早かったですか」

マスターは顔を上げた。

四十代後半くらいの男だった。

スーツ姿。

派手さはない。

でも、歩き方が静かだった。

「いや」

マスターは笑った。

「将棋の人やろ」

男は少し驚いた。

「分かりますか」

「駒の音がする顔してる」

男は一瞬、意味が分からない顔をした。

それから笑った。

「初めて言われました」

男の名前は、高瀬誠一。

その日から、直人はもう一人の大人を見ることになる。

将棋に人生を預けた人間を。


高瀬誠一は、会社では普通の人だった。

朝、満員電車に乗る。

取引先へ頭を下げる。

部下の話を聞く。

上司の話も聞く。

誰かと争うことを好む人間ではなかった。

でも、将棋盤の前に座ると、少しだけ目が変わった。

余計なものが消える。

駒を持つ指が静かになる。

相手の顔ではなく、その人間の考えている場所を見る。

直人は、それが不思議だった。

同じ人なのに、別人みたいだった。

「高瀬さんって、強い人なん?」

ある日、直人が聞いた。

マスターはグラスを拭きながら答えた。

「強い」

「どれくらい?」

「四段」

直人は首を傾げた。

「四段って、どれくらい?」

「将棋を指す人間の中では、かなり上や」

高瀬は横で笑った。

「いやいや」

「四段なんて、上を見たらいくらでもいますよ」

そう言ったが、謙遜には聞こえなかった。

本当にそう思っている顔だった。

高瀬は、昔プロを目指していた。

高校を卒業して、将棋会館へ通った。

朝から晩まで棋譜を並べた。

強い棋士の一手を何時間も考えた。

なぜ、その駒を動かしたのか。

なぜ、別の手を選ばなかったのか。

答えのない問題を、毎日解いていた。

同じ夢を持つ仲間がいた。

将棋会館の帰りに、安い飯を食べながら将来の話をした。

「いつかテレビに出るぞ」

「タイトル取るぞ」

みんな本気だった。

その中には、本当にプロになった人もいた。

名前を聞けば、誰でも知っている人もいた。

高瀬は、そこへ届かなかった。


「なんでプロにならへんかったん?」

直人が聞いた。

大人なら、少し遠慮するような質問だった。

でも、子供にはその遠慮がなかった。

高瀬は笑った。

「なれなかったから」

あまりにも普通に言ったので、直人は返事ができなかった。

「悔しくなかったん?」

「そら悔しかったよ」

高瀬は盤を見る。

「何年も、それしか考えてなかったからな」

少し間を置く。

「でもな」

「プロになれなかった人生と、将棋が無駄だった人生は違う」

直人は顔を上げた。

「将棋してきた時間は、誰にも取られへん」

その言葉を聞いた時、マスターは何も言わなかった。

ただ、少しだけ頷いた。

高瀬は、マスターと似ているところがあった。

届かなかった場所がある。

諦めたものがある。

それでも、好きだったものを手放さなかった。


その日の夕方。

高瀬が言った。

「一局、お願いできますか」

マスターは笑った。

「ええですよ」

直人は驚いた。

「やるん?」

「そらやる」

マスターは盤を出した。

「将棋好きな人がおったら、指したくなるやろ」

「負けるかもしれんのに?」

直人が言う。

マスターは笑った。

「負けるかもしれんから面白いんや」

店には、まだ客はいなかった。

外は少しずつ暗くなっていた。

電車が通る。

窓ガラスが震える。

その音を合図にするように、二人は駒を並べた。

高瀬は駒を置く手が速かった。

迷いがない。

マスターは一手ごとに時間を使った。

考える。

戻る。

また考える。

直人には、その違いが面白かった。

高瀬は未来を見る人。

マスターは今を見る人。

そんな気がした。

序盤。

高瀬が少し優勢だった。

駒得。

形も良い。

直人にも分かった。

「やっぱり高瀬さんが勝つんかな」

誰に言うでもなく呟いた。

マスターは返事をしなかった。

ただ、盤を見ていた。


十数分後。

マスターが一手を指した。

高瀬の手が止まった。

「……そう来ますか」

その一手から、空気が変わった。

攻める高瀬。

受けるマスター。

追い詰める。

逃げる。

でも、ただ逃げているわけではない。

一手、一手に意味があった。

直人には、もう勝ち負けが分からなかった。

ただ二人が楽しそうだった。


盤の上では、まだ戦いが続いていた。

時計の針だけが、静かに進んでいた。

店の外では、帰宅する人の足音が聞こえる。

いつもの夕方だった。

でも直人には、いつもと違って見えた。

将棋盤の上で、二人の人間が話をしているように見えた。

声は出していない。

駒を置く音だけが、二人の言葉だった。

「ここはどうする」

「そう来るなら、こう返す」

「まだ終わっていない」

そんな会話が、盤の上で続いていた。

高瀬は長い時間、考えていた。

右手で駒を持つ。

置こうとして、戻す。

また考える。

その姿を見て、直人は思った。

大人も悩むんだ。

学校の先生も。

親も。

いつも答えを知っているように見える人たちも。

本当は、次の一手を探しているのかもしれない。

「悩んでる」

直人が小さく言った。

「そら悩む」

マスターが答えた。

「将棋ってな、相手の王様だけ見てたらあかん」

「じゃあ、何見るん?」

マスターは盤から目を離さなかった。

「相手が何を考えてるかや」

直人は二人の顔を見た。

高瀬の顔。

マスターの顔。

二人とも、相手を倒したい顔ではなかった。

ただ、自分の信じた一手を探していた。

さらに時間が過ぎた。

店の外は暗くなっていた。

電車が一本、店の前を通る。

窓ガラスが震える。

その音のあとで、高瀬が駒を持った。

しばらく盤を見つめる。

そして、静かに置いた。

高瀬は動かなかった。

マスターも動かなかった。

直人には、何が起きたのか分からなかった。

長い沈黙のあと。

マスターが小さく息を吐いた。

そして笑った。

「……参りました」

「え?」

直人は盤を見た。

まだ続けられるように見えた。

逃げ道もあるように見えた。

「マスター、負けたん?」

高瀬は少し笑った。

「はい」

「でも……」

直人は言葉を探した。

「まだやれそうに見える」

高瀬は頷いた。

「そう見えるところまで来たんです」

「でも、ここから先は勝負じゃなくなる」


直人には、まだ分からなかった。

高瀬は駒を片付けながら言った。

「将棋は、最後まで相手を信じるゲームでもあるんです」

「相手が間違えると思って指したら、いい将棋にはならない」

マスターは盤を眺めていた。

悔しそうな顔だった。

でも、不思議と寂しそうではなかった。

「いやぁ」

マスターが笑う。

「強いわ」

高瀬は首を振った。

「危なかったです」

「またそんなこと言う」

「本当です」

高瀬は盤を見る。

「昔を思い出しました」

「将棋会館に通っていた頃です」

直人は顔を上げた。

「プロ目指してた時?」

「そうです」

高瀬は笑った。

「昔は勝つことしか考えてませんでした」

「負けたら全部終わりだと思っていた」

少し間を置く。

「でも、長く続けてると分かるんです」

「盤の前に座った時間は、勝ち負けだけでは消えないって」


その日の夜。

塾の帰り道、直人は店の前を通った。

店先の灯りは消え、営業中の札は外されていた。

マスターは店の片付けをしていた。

「マスター」

声をかけると、マスターが振り返った。

最後の電車が通った。

窓ガラスが少し震えた。

いつもの音だった。

「マスター」

「ん?」

「悔しい?」

マスターは少し笑った。

「そら悔しい」

「じゃあ、なんで笑ってるん?」

マスターは盤を見る。

「ええ将棋やったからや」

「負けたのに?」

「負けたから分かることもある」

マスターは歩を一つ持ち上げた。

「この駒な」

「最初は一番弱そうに見える」

直人は頷いた。

「でもな」

マスターは歩を盤に戻す。

「一歩目がなかったら、どこにも行けへん」

直人はしばらく黙っていた。

「受験も、将棋みたいなんかな」

マスターは少し考えた。

「似てるところはある」

「答えが分からんところ?」

「それもある」

マスターは盤を見る。

「でも、一番大事なんはな」

少し間を置く。

「自分で指すことや」

直人は盤を見た。

並んだ駒。

王将。

金。

銀。

そして、一番小さな歩。


帰り際。

直人は一度だけ店を振り返った。

壁にはベスのポスター。

その横には古いギブソンJ-50。

その裏にはチェス盤。

さらにその奥には、将棋盤。

知らないものが、まだたくさん隠れている店だった。

「また来てもええ?」

少年が言った。

マスターは盤を箱へ戻しながら答えた。

「将棋は逃げへん」

「いつでも来い」

直人は笑った。

そして、自転車を押して帰っていった。

店の中には、片付けられた将棋盤だけが残った。

その上には、一つだけ歩が置かれていた。

王からは遠い場所。

でも、確かに前へ進める場所に。



WhiskyCat

あとがき

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

『王の見える店』は、勝ち負けの物語ではありません。
将棋を通して、「考える時間」や「好きなものと向き合う時間」を書きたいと思いました。

店には、毎日いろいろな人がやって来ます。

夢を追う人。
仕事に疲れた人。
何かを始めたい人。
迷っている人。

そんな人たちは、将棋盤の前では少しだけ素直になります。
答えを急がず、一手ずつ考える。
それだけで、人は少し前へ進めるのかもしれません。
WhiskyCatには、将棋盤だけではありません。ウイスキーがあり、音楽があり、ときどき猫も現れます。

この店を舞台にした物語は、まだ続いていきます。

もしよければ、次は『猫は急がない 〜蒸留所物語〜』へ。

スペイサイドの蒸留所を闊歩する一匹の猫が、ウイスキーの時間と、人がゆっくり熟していく時間を案内してくれます。

急がなくても、大丈夫。

そんな気持ちで読んでいただけたら、とても嬉しいです。


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