Last Cross — 止まる僕と進む君 第1話 「あたり前が壊れた日」
目覚ましの音が、 水面に落ちる小石みたいに部屋の空気を揺らした。
隼人(はやと) はゆっくりと目を開ける。 カーテンの隙間から差し込む光が、 頬にそっと触れるようにやわらかい。
階下から味噌汁の匂いが上がってくる。 父の咳払い。 妹のドタバタした足音。 全部、昨日と同じで、 何ひとつ変わらない。
洗面台の前に立つと、 鏡の中には、 眠気の残った目と、 少しだけ跳ねた前髪と、 いつもの自分がいた。
どこにも異変なんてなくて、 今日もただの朝が始まるだけだと、 その顔は信じていた。
「隼人、起きてるー?」
「うん、今行く」
その声も、 いつも通りだった。
教室に入ると、 和也(かずや) が机に足を乗せて笑っていた。
「おっす。今日の英語、絶対寝るわ俺」
「知らんよ……」
そのやり取りだけで、 胸の奥が少しだけ軽くなる。
莉愛(りあ) が教室に入ってきて、 隼人に気づくと、 ふわっと花が開くみたいに笑った。
「おはよ、隼人くん」
「……おはよう」
その声が、 なぜか今日は胸の奥に長く残った。
昼休み、窓際のグループが噂話をしていた。
「魂(たましい)が消える病気って知ってる?」 「7日で死ぬんだって」 「最後は痛くないらしいよ」 「コーヒーショップが見えるとか」
隼人は笑った。
「そんなの、あるわけないだろ」
本当に、そう思っていた。
放課後。 三人で並んで歩く帰り道。 夕焼けが影を長く伸ばしていた。
「今日さ、部活の顧問が──」
和也が何か言いかけた、その瞬間。
世界が、 ふっ と白くなった。
音が消えた。 風が止まった。 胸の奥が冷たくなる。
「……え……?」
隼人は瞬きをした。
気づいたら── 隣にいたはずの二人がいなかった。
さっきまで確かにいた。 声も聞こえていた。 笑っていた。
なのに、 道には隼人ひとり。
「……どこ……?」
呼吸が浅くなる。
そのとき、 視界の端に“ありえないもの”が揺らめいた。
古い木の扉。 柔らかい光。 夕焼けとは違う、 どこか遠い世界の匂い。
──Last Cross(ラストクロス)。
隼人は吸い寄せられるように、 その扉へと歩き出した。
中は静かで、 時間がゆっくり沈んでいくみたいだった。
カウンターの奥に、 白髪頭のマスターが立っていた。
「……いらっしゃいませ。 どうぞ、お座りください。」
その声は、 どこか懐かしくて、 でも聞いたことのない温度だった。
隼人は震える手で椅子に座った。
「……ここ、なんなんですか……?」
マスターは静かに微笑んだ。
「まずは、一口だけ。 これは説明ではなく、 あなた自身の体験です。」
マスターは静かにカップを置いた。 白い湯気が、 店の静けさに溶けていく。
隼人は震える指で、 カップの縁に触れた。
温かい。 それだけで、胸が少し痛くなる。
「……飲んだら、どうなるんですか」
「あなたの“これまで”と、 “これから”が見えます。」
隼人はそっと、 コーヒーを口に運んだ。
その瞬間、 世界が、音もなく反転した。
視界が白く染まる。 胸の奥が熱くなる。 息が詰まる。
次の瞬間、 隼人は“自分の人生”の中にいた。
幼い頃、母に抱かれて泣いた記憶。 父に肩車された夏の日。 妹と喧嘩して泣かせた夕方。 和也と笑い転げた放課後。 莉愛が初めて名前を呼んでくれた朝。
全部が、 一瞬で胸の奥に流れ込んでくる。
そして── 最後に見えたのは、 自分が倒れる瞬間だった。
夕焼けの道。 十六時の影。 胸を押さえて崩れ落ちる自分。 誰も気づかないまま、 静かに息が止まる。
「……っ……!」
隼人はカップを落としそうになった。 マスターがそっと支える。
「大丈夫です。 これは未来の確定ではありません。 ただ……あなたの魂が辿る道です。」
隼人は震えながら息を吸った。
「……僕……死ぬんだ…… 本当に……」
マスターは静かに頷いた。
「ええ。 あなたは、今日から七日後の十六時に死にます。 これは“魂の剥奪(はくだつ)”。 上位存在による回収処理です。」
隼人の視界が揺れた。
「なんで……僕が……?」
「理由はありません。 ただ、あなたの魂が“そういう順番”だっただけです。」
隼人は唇を噛んだ。
「……七日間……どうすれば……」
マスターは、 まるで祈るように言った。
「どう生きるかは、あなたが決めることです。 ……生きるとは、何なのでしょうね。 長さではなく、濃さなのかもしれません。 あなたのこの一週間は、 あなたの十七年よりも、 きっと深く、強く、温かくなるでしょう。」
隼人は、 ただその言葉にすがるように、 目を閉じた。
店を出た瞬間、 夕焼けの色がまったく変わっていないことに気づいた。
風も、匂いも、音も、 さっきと同じ場所に置き去りにされている。
スマホを見ると、 画面には 16:00 のまま。
「……なんで……」
振り返る。 そこにあったはずの Last Cross は消えていた。
ただの住宅街。 ただの夕焼け。
隼人はふらつきながら角を曲がった。
その瞬間── 和也と莉愛が、さっきの続きみたいに歩いていた。
「お、隼人。どうした? 顔色悪いぞ?」
「隼人くん……? 大丈夫?」
二人は本当に、 何も知らない顔をしていた。
隼人は喉がひりついた。
(……言えない…… 今は……言えない……)
「……うん。 ちょっと……疲れただけ」
声が震えた。
三人の影が、 夕焼けの中で静かに揺れた。
