【エッセイ】使い込むという優しさ ━━ものの時間に寄り添うということ
「これ、まだ使ってるの?」
誰かにそう訊かれるたび、私は少し得意な気持ちになる。
それは、私と“ものの時間”に寄り添ってきた、ささやかな証だからだ。
使っている、ではない。使い続けている、のだ。
たとえば、私は六歳の誕生日に買ってもらった二つの光学ガラスのプリズムを、いまも持っている。日曜の昼下がり、動く気力がないような時間に、それを障子の隙間からの光にかざすと、襖に淡く虹が広がる。それは、子供の頃と変わらない静けさをくれる。
また、小学二年のときの製図用コンパス、四年生で買ってもらったヘンケルのハサミとペーパーナイフ──これらもいまだ現役だ。すでに50年が過ぎているが、今も日常の一部として手に取っている。
私はこれらを「大切にしている」というよりも、「ただ、自然に使い続けている」だけなのだ。
近頃、“便利”という言葉が、どこか無言の圧力のように機能している気がする。たしかに、何でもすぐ手に入る時代になった。壊れたら直すより買い替え、古びたら更新。
安く、早く、簡単に。──それが正解であるかのように、私たちは知らず知らずのうちに、「短命な関係」に慣らされている。
だが本来、ものと人との関係には、もう少し時間をかけて育てる美しさがあったはずだ。
使い込むという行為は、時に手間がかかる。
だがその手間は、ものを生かし、自分を深める行為でもある。
そこには、単なる機能以上の「記憶」が宿る。だからこそ、ひとつの道具と長く付き合うことには、静かな尊さがある。大量に作られ、大量に捨てられてゆくものたち。それらが悪いわけではない。だが、それが当たり前の在り方になってしまうとき、私たちは「育てる」ことや「続ける」ことの意味を見失ってしまう。
“消費”のスピードが速くなるほど、私たちの感性は鈍くなる。
ものの“重さ”を敬う心よりも、“軽さ”に流される気持ちのほうが、今は強くなってしまった。
それは、豊かさではなく、むしろ感覚の“空洞化”なのかもしれない。
人と人との関係も、どこか似ている。
使い捨てられるような繋がりよりも、多少いびつでも、手間のかかる関係の方が、時間を経て深まっていくことがある。
愛着とは、便利さとは違う次元で育まれる感情だ。
だからこそ、私は思う。
壊れたら捨てる、飽きたら手放す──そうした流れとは異なる、小さな反復の中に、真の豊かさがあるのではないかと。
たとえば、ペン先を削る音。革に油を塗る手のひらの感触。壊れかけた家具を修理する時間。それらは、ものの手入れであると同時に、自分の感性を整える“内なる手入れ”でもある。
急がず、雑にせず、ほんの少し手間をかける。
その姿勢こそが、単に物を長く使うという行為を超えた、品格や美意識の根源にある、時間への敬意なのだと思う。
私は今日も、使い慣れた道具を手に取る。
その手触りに、かつての自分と、今の自分が、そっと重なる。
明日も、きっと同じように──。
使い込むという行為は、ものに対する優しさであると同時に、時間をかけて関係を育むことのできる、自分自身への優しさでもあるのだ。
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