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がん治療を経て、心が整った話。

振袖は前撮りで着たけれど、振袖に袴姿で成人式を迎えた私。式に出ていた時には、まさか20歳でがんの診断受けるなんて思ってもいなかった。
中学生の不登校時代、自傷行為もしていたけれど、病気とは無縁だと思っていた。
自傷行為もアピールの類で、今思えばなぜ自分自身を傷つけるのか理解に至らないけれど、当時は感情の糸がこんがらがって暗闇のようで、どんな声かけ、環境の変化にも糸は解くことができなかった。青空の下も息苦しさを覚えて、楽しんでいる遊んでいる声が耳に届くことが辛かった。
そんな過去の私自身に伝えたい。
がんの治療をしている未来の貴女の周りには、心かな貴女をサポートとしたいと思って動いてくれる人たちがいるのだよ、と。

医療関係の専門学校に通っていたとはいえ、病気はどこか他人事だった。
視覚障害者の体験も、義足義手の種類の選定も、先天性障害についても。障害を抱えている方々とは自分は異なる。なんて私個人を上に立て、線を引いていた。
なぜだろう。なぜそんな立場でいられたのだろう。
私と家族は先天的障害を有していないが、後天的に外的因子、内的因子それぞれ障害を抱える可能性は誰にしもゼロではないし、線を引くこと自体おかしな話でノーマライゼーションの、障害の有無に関わらず、多様性選択性のある社会体制となるのがベストではないかと現在の私は考えていた。
ただ、医療従事者としてはなにかしらの障害を抱えた方々と関わることが多く、それが生業となっている側面もあるため、一概に考えをまとめきれないという気持ちがあるのも事実なところで。

前置きが長くなりましたが、私が20歳で悪性リンパ腫(StageⅡa)と診断を受けた時。
両親、妹、親戚、彼氏、学友、教員方が私以上にショックというか診断の重たさを受け止めてくれたように感じました。それに対し、反面私自身の受け取り方は軽いようにも思えた。
なぜだろう。こんなにも私個人を心配してくれる人たちがいると言う現実を、目の前にしたからだったのか。
不登校時代にもあったであろう私個人を心配してくれるという現実は、その時期特有のこんがらがった糸のような暗闇の世界観で霞んでしまっていたのかもしれない。
あと、当時好きだったデクスター 警察官は殺人鬼というアメリカドラマの主人公、デクスター役を演じているマイケル・C・ホールという俳優が偶然にも同時期に同じ病の治療をしていたこともあり、同じ治療をするということに応援的な感覚を覚えたことも、受け取り方が軽くなった一因だったかもしれない。

私に診断が下りた悪性リンパ腫(ホジキンリンパ腫、結節硬化型)の治療は、大きく分けて2つ、4種類の抗がん剤の頭文字取ったABVD療法と、放射線治療があっま。
ABVD療法は1日目と15日目に点滴で薬剤が投与され、2〜14日及び16〜28日は休薬となり、この1巡が1クールとされていた。
専門学校2年次の夏休みを使って、入院をして1クールを終え、2クール目からは通院し外来化学療法室で受けた。
抗がん剤、吐き気止め、血管炎症予防などの注射薬を2時間ほどかけて点滴で投与し、点滴の前後に吐気止めの内服を口にした。
投薬が進むと、副作用で脱毛が始まり、口内炎ができ、胃に何か入れば嘔吐を繰り返した。酷い時は氷と凍らせた果物程しか口にすることが出来なかったし、食事量も飲水量も減った影響で便秘にもなり、体重も10kg近く落ちた。
点滴が入っている血管は内部からの痛みが疼き、手指を中心にピリピリとした痺れのような異常感覚が現れた。感覚過敏か、薬剤や消毒、汗などの匂いに過敏に反応して気分が悪くなる、衣服が掠れる触覚で腕や血管の痛みが助長される、なんてこともあって、無駄に清拭や着替え、シーツ交換を頼んだこともあった。
クールが進む中で増えていく副作用に、外来化学療法室の前で人目を憚らず泣いていたこともあって、外来化学療法室の看護師に顔を覚えられた。
副作用の辛さを訴える私に対して、担当医は当初6クールの予定だったところ、エビデンス的差異はないからと4クールとし経過観察することを提案してくれ、その提案の通り、4クールでABVD療法が終了して、ほっとしたものだった。

放射線治療は外来で行った。私の場合頚部から左鎖骨にかけて、そして胸骨裏のリンパ腫にあたるよう2箇所照射を受けた。
頻度や回数は失念してしたけれど、照射部位の肌に色素沈着が目立った程度で、ABVD療法ほどの副作用はなく、過ごすことがでた。

ABVD療法と放射線治療、長いようでしたが期間もしては約6ヶ月間程度のことだった。
先に書いたような副作用の辛さから、深海魚のように気分は永遠と浮上することがないような気持ちが優っている時期もあり、それはある意味不登校時代の出口の見えない世界に身を沈めているように思えた。
けれど、言葉にせずともそばに居てサポートしてくれる両親と妹の存在は、どれだけ辛くても感じることができた。
副作用でベッドに寝ていることしかできない私のそばに居て、精神的に支えてくれたのは同じ専門学校に通う彼氏だった。授業後に毎日と言っていいほど立ち寄ってくれ、短い時間でもそばに居てくれた。
休薬期間の体調の回復に合わせて専門学校へ登校すると、学友がサポートしてくれた。体調、授業の進捗、オフの時間の戯れも含めて。
私が話し出さずとも、家族内、仲間内での存在を認めてもらえると言うこと。
周囲が見返りなく、サポートしてくれるという行動が。それらのことたちが、どんなに大きな意味を私に与えてくれたのか。
簡単な言葉にはできないほど、私の気づきとなり、心のうちを変化させる影響を与えたと言うことに偽りはない。

なぜ、不登校時代はあれほどまでに荒んだ心だったのか。思春期特有のものもあるだろうし、今となっては原因がよくわからないと言うのが現実な訳で。
けれど、悪性リンパ腫の治療を経験して、なんて勿体無い不登校時代を過ごしてしまったのだろう、という考えにも至った訳で。
それは、悪性リンパ腫の治療で何かのきっかけから命の灯火が消える可能性がゼロではないと自覚できたからなのではないかと思える。
こんな病気がわかる前に自覚できたらよかったけれど、不登校時代も悪性リンパ腫の治療歴もあるからこそ今の私が構成されていると思えると、辛かった治療、副作用を、周囲で支えてくれる人たちとともに乗り越えることができたことは、胸を張れる経験であると言えるのではないだろうか。

ホジキンリンパ腫は悪性リンパ腫の全体の5%ほどに過ぎない。
そのホジキンリンパ腫に罹ったことで、私は身をもって周囲から見返りのないサポートというものを受けた。そのサポートは言葉にも形にもするこもは難しいものだけれど、とても大きな力で私支えてくれ、結果的に私の荒んでいた過去の心までも開き、整えるきっかけとなった。

悪性リンパ腫の治療期間にもサポートしてくれていた彼氏は、その後夫となった。治療経験から妊娠についての心配もあったけれど、3人の子供にも恵まれ、紆余曲折説ありながらも理学療法士として勤め続けている私がいる。
第三者から見たら、不登校も悪性リンパ腫の治療経験もないように見えるほどの生活を送っていて、なんだか不思議なものだな、と思えるほどに。
1人の成人として、妻として、母として、理学療法士のして。色々な面で見せる表情に余裕がなく過ごしてしまう日々だけれど、いつか私自身も"誰か"のサポートという存在になることができれた時、私を支えてくれた人たちのように動き出すことができれば、それはまた私の心を整える鍵となるのではないだろうか。

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