芦雪、覚醒!
「あいつにはもう、ほんまに呆れるわな」
「そうや、いくら絵がうまいかて、弟子仲間の嫁に手を出すわ、金を借りて返さんばかりか、その金で島原遊郭で遊びまわってるやなんて、ほんま人でなしや」
「絵がうまい言うたかて、招かれた書画会に遅れて行っては、散々食べて飲んでから、たたの一枚、ざさっと達磨の絵を描いただけやったらしいで。注文された絵の値段を釣り上げて、おれの絵は師匠と同じくらいの値打ちものやと威張ってるんや。はあ、いけ好かんわ」
「そうや、侍の出やからって、先生がなんでも許してくれると思い上がってるんや。絵かてたいしたことない、小手先が器用で、人目を引く絵を描いてるだけなんや」
同門の絵師たちはこのところ集まると、芦雪の噂話で持ち切りである。
たしかに芦雪は門下で一、二を争う絵の腕前だが、師から破門を言い渡されたことが何度もある。
絵師らが集まっているのは、師である応挙の画室である。応挙は絵の注文主に呼ばれて出かけていた。
師の屏風絵の仕上げを手伝いながら、ひと休みとなると額を集めて芦雪の話をして眉をひそめているのである。
「おっと来た来た、噂をすればなんとやら」
「いかん、彩色の仕上げに戻らないかん」
頬の刀傷が目立つ顔を傲岸にしゃくらせて、芦雪は屏風絵の本画の前に座す。眇めた目で絵を眺めて、つまらなそうに肩を竦めた。
「なんや、もう少し勢いがあってもいいのにな。一気呵成に描いたという気魄が足らんな」
「先生の絵に、なんてこと言うんや!」
「そうや、先生の絵には品格がある。見たままを描いたという真心が伝わる絵なんや」
ふんっ、と小馬鹿にした笑いを漏らすと、芦雪は腕を組んだ。
「先生の絵はともかく、もっと色味を濃く鮮やかに載せていかんとならんやろ。やる気が失せたから、今日は帰るわな」
芦雪はそう言って立ち上がると、すたすたと画室を出て行った。
四条通をそぞろ歩き、高倉通に入りひたすら北へと上っていく。途中で錦小路に寄って、壬生菜や蕪など野菜を買い込んだ。
弟子仲間、岸駒の家にたどり着くと、格子戸の前で声をかけた。
「芦雪ですけど」
戸が開いて、岸駒の妻が顔を出した。花街にいたことのある、色白で目元に艶のある女である。
「芦雪はん、おいでやす。どうぞ」
愛想よく迎えられて、芦雪は上がり込んでいく。
「躰の具合はいかがですか」
「へえ、おかげさまで。薬がよう効いてるようです。お腹の子もきちんと育って、ほれ、こないに膨れてきました」
そう言って岸駒の妻、お雪は帯の下のふっくらした腹を擦って見せた。
「それはよかったです。あいつも喜んでるやろな」
「ほんまに芦雪はんのお蔭ですわ」
「どうやら、おれは間男と間違われてるみたいですけど、大丈夫ですか」
「うちの人はお金はないけど、うちにはなんも言えへん優しい人やから平気です。芦雪はんの方が心配ですわ。医者を呼ぶお金を工面してるだけやのに、間男やなんて。申し訳ありまへん」
「そんなこと、構いませんわ。よかったら、野菜、使ってください。では御免」
そう言って風呂敷に包んでいた野菜を畳に放り出すと、出された茶に手をつけず芦雪は立ち上がった。
高倉通を下って、来た道を引き返していく。
二条に入って東へと歩きだした芦雪は、突然背後から猛烈な勢いで人にぶつかられて路地へと引き込まれた。
「なにするんや!」
顔を頭巾で隠した浪人風の男に、首根っこを腕で掴まれて抑え込まれた。
「なんの恨みや、言うてみい!」
「いくらでも身に覚えがあるやろ。ようけ身につまされたらいいんや!」
喉を怪力で締め付けられて、息ができない。目の端をきらりと何か光るものが過った。
脇腹に鈍い痛みが走る。生暖かく腹が濡れていくのがわかるが、次第に気が遠くなっていく。
不意に喉が楽になった。頭巾の男が立ち去っていく後ろ姿を見ながら、芦雪は路上にくずおれた。
――そうか、俺は死ぬのか、いや、まだこのくらいでは死なんやろか。
いつ死んでも構わんくらい好き勝手に生きてきたつもりやけど、いざとなるとまだ死にたくはないな。
俺が死んで悲しむ奴はおらんやろう。あのお雪さんくらいか。
岸駒はまったく金のない不器用な奴やから、お雪さんの相談に乗って金策したんやが、いや、かえって迷惑やったかもしれんな。
ああ、もっと絵が描きたかった。描いて描いて、描きまくりたかった。
誰もが俺を嫌っても構わん。ただ、俺は絵を描きたかったんや。
ああ、腹が疼く。
ああ、今、竜虎が描きたい、思いっきり大画面でな。
勢いよく一筆描きで仕上げたら、迫力があって面白みのある絵になる。
まだまだこんなところで死なれん!
「誰か来てんか!人が倒れてはる、腹から血を出してるで」
「そらいかん、医者呼んでこようか!血を流してるなら、動かさんほうがいいやろな」
「誰か戸板を持ってきてくれんか!載せて運ばんといかんやろ」
「息はしてはるな。大丈夫かいな、ああ、目を開けた、笑ってはる」
「傷は浅そうやな。戸板が来た来た!近くに医者の家があったな」
「いかんいかん、動いたらいかん。じっとしとくんや」
戸板に載せられて運ばれる絵師は、薄っすらと笑みを浮かべていた。
懐に入れていた矢立てを右手で握り締めて、袂に入れていたはずの帳面を探していた。
今、眸に映っている夕焼け空と、覗き込んでくる童の顔を描きたくて仕方なかった。
《了》
