ナンシー、こっちを向いて。【#一枚の写真から文芸賞】【ショートショート#80】【1997字】
南仏の光を浴びて、実家の縁側で日向ぼっこをしていた少女時代を思い出す。ブルターニュのポン=タヴァンの橋の上で、福田萌音はニコンの一眼レフを首から下げて、周りを見回していた。パリで開催される写真コンクールに出品するため、ここ南仏まで足を運んだのだった。
ポスト印象派の画家・ゴーギャンはポン=タヴァンで色彩に目覚めたという。写真家として芽の出ない萌音がここまで来たのは、ゴーギャンにあやかりたい下心もあった。
朝八時の橋の上は出勤していく人々で慌ただしい。その中に、異質な女性を見つけた。漆黒の膝丈のチュニックに身を包み、目元の隠れる黒いハットをかぶっている。黒ずくめのファッションとは対照的に白いマスクをしていた。まるで修道女のようだった。
けれど、隠しきれないモデルのようなすらりとした体型に、萌音の直感が働いた。彼女はきっとすばらしいモデルになる。
翌日の同じ時刻。若い写真家はポン=タヴァンの橋の上で例の女性を待っていた。きょろきょろと周りを見回していたら、思った通り彼女が歩いてきた。一瞬ためらったが、清水の舞台から飛び降りた気になって声をかける。たどたどしいフランス語で挨拶した。
「私、写真家のモネといいます。少しだけお時間いただけませんか」
「ごめんなさい。これから仕事なの」
ここで折れるわけにはいかない。萌音は食い下がった。
「本当に少しだけですから。お仕事はどちらで?」
「近くの小学校の教師です」
「すごくお綺麗ですね。モデルをやっていた経験が?」
後にナンシーという名前だとわかった彼女は、マスク越しにもわかるほどムッとした表情を浮かべた。きっとマスクの下はへの字に曲がっていたのだろう。
「写真は嫌い。大っ嫌い。急いでるから」
歩き去るナンシーの背中を見送りながら、萌音は次の作戦を練りはじめていた。
もうすぐ日が落ちそうな時刻になり、橋の近くのカフェテラスで粘っていた萌音は、飛び上がった。ナンシーが橋を通りかかったのだ。慌てて会計を済ませて呼び止めた。
夕日に照らされた彼女の赤い髪はどきっとするほど美しかった。
「今朝のカメラマンね。モデルになる気はないから」
「顔は決して写しません」
「……」
「後ろ姿だけでもいい。それでも駄目でしょうか」
ナンシーは頑なな態度を少しだけ崩した。
「週末は授業の準備で忙しいの。長時間の撮影はできないからね」
目論見どおり、萌音の写真はパリのコンテストで好評を博した。鑑賞者に背を向けた女性の姿は、デンマークの画家・ハンマースホイの室内画にも喩えられた。
「モデルは誰なのですか。私も彼女を撮ってみたい」
審査員の男にこっそり耳打ちされた萌音は、それは彼女との約束で教えられないと断った。彼はあからさまに不満そうな顔をして去っていった。新人賞を獲れなかったのは、おそらく彼の機嫌を損ねたせいもあったのかもしれない。
しばらくして、ポン=タヴァンの橋をふたたび訪れた。ニコンの一眼レフを首から下げて、そわそわと辺りを見回す。お礼に、ナンシーを食事に誘うつもりだった。夕日が橋を赤く照らしている。だが、待っているうちに日が落ち切ってしまった。
萌音は電話をかけたが、何度かけても繋がらない。胸騒ぎがした。ナンシーの勤め先は聞きそびれていたので、付近の小学校の電話番号に手あたり次第に問い合わせた。
「ああ、彼女は臨時休暇中ですよ」と小学校の事務員がいった。
「何かあったんでしょうか」
「あなた、もしかして例の写真を撮った人?」
「え、はい」
「困りますよ。ある男が撮影場所を特定して、彼女に付きまとってたんです。マスクを取れ。顔を見せろって。自宅まで押しかけて来て、可哀そうに彼女はノイローゼになってしまった」
萌音は絶句した。
「ナンシーが顔を隠す理由は聞いてますか」
「いいえ」
「大きな傷痕があるんです。幼い頃に父親に虐待されて、当時のやけどの跡が今でも残ってるんですよ」
二週間後。ようやく休暇が明けた日の夕暮れ。もうすぐ退勤してくるはずのナンシーを、萌音は橋の上で待っていた。いつもは肌から離さないカメラを鞄の底にしまっている。許してくれるだろうか。いや、許されなくても一言謝らねばならなかった。
ついにその時がやってきた。
漆黒のチュニックに身を包み、ハットをかぶった修道女のようなナンシーだった。マスクの上の目元に隈ができていた。見るからにやつれている。萌音を見るやいなや、目を逸らした。
「久しぶり。私、どうして謝りたくて」
「……あなたが悪いわけじゃない」
「でも、きっかけを作ったのは私だもの。それに、顔を隠す理由を聞いた」
「……」
「あなたを真正面から撮りたい」
萌音は鞄からニコンを取り出した。
「ナンシーのそのままの顔を撮りたい。自信を持って、堂々と生きてほしいから。安心して。今度は決して発表しない」
こっちを向いて。ナンシー、こっちを向いて。
